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僕がJAZZを聴き始めた頃

僕がJAZZを聴き始めたのは1968年頃の事だと思う.その頃スィングジャーナルを買うと、ウェス・モンゴメリーが亡くなった記事が載っていて、初めて買ったコルトレーンのクルセ・ママには追悼盤のコルトレーンのインタビュウがついてきた。そんな頃だった。
僕は都内の美術高校に進学していた.ビートルズはもちろん大好きであったが、知的好奇心旺盛なその頃は、音楽でも文学でも詩に絵画でも何でも吸収したい頃だったし特にJAZZには興味を覚えていた.僕のJAZZの修行時代が始まりました.そう、その頃の学生達のJAZZの聞き方といったら,まるで修行僧のようでしたね.JAZZ喫茶でリクエストしてレコードのパーソネルをメモしたりと,今考えると、何て真面目な時代だったのでしょう・・・.僕は毎日、学校が終わるとすぐに着替えて明大前のJAZZ茶房、マイルスへと向かった.僕はマイルスが大好きだった.マイルスの客の好みはハード・バップだった.よくリクエストがあるのはジョニー・グリフィンのStudio Jazz Partyやジョージ・ウォーリントンのNew York Seneだったりした。それに珍しいスティーブ・レイシーのReflectionも置いていた。店内ではみんなよく本を読んでいた。ベンヤミンの複製芸術の時代や暴力批判論,などを読んでいた。高校生の僕も,大学生や,大人達の間に入って,精一杯,本を読んでいた。当時は学生運動も盛んだったけど,どういう訳か,そこでは,中核派と革マル派が仲良くアイスなどを食べていました。僕も何度か赤旗を買わせられました。三里塚へ結集せよと大きな字が
踊っていました。中にはインパルスのアーチー・シェップのように毛糸の帽子にパイプの出で立ちの青年がいました。
 僕は美術高校時代は親元を離れて,一人下宿していました。といっても別に家族の仲が悪いのではなく,中学校を卒業して普通の高校へは行きたくなくて自分で美術高校を受験したのでした。一人暮らしの僕は,毎日を意味のある毎日にしたくて,その日の行動を計りにかけていました。今日の授業とjazz喫茶、するところっと授業が落ちて,jazz喫茶に行く事になったりしたのだった。
 新宿のその頃は面白かった。フーテンという人種もいたし、PIT INN TEA ROOMが三越の前にあって,その裏手には連日、ライブが繰り広げられていたPIT INNがあった。その看板には大きくコルトレーンが描かれていた。そのPIT INNの隣の喫茶店の2階には変な喇叭が流れていた。禁断のニュウ・ジャズ・ホールだった。僕が2階に足を踏み入れると、庄田治郎がぎっとこっちを睨みつけた。PIT INNでは朝の部と昼の部、それに、夜の部があった。夜の部には日野グループやジョージ大塚のバンドが出演していた。チャージは1ドリンク付きで500円だった。昼の部は300円で、富樫雅彦が事件の前でまるで、トニー・ウィリアムスのようなレガートでチンチキやっていた。すごい才能だと思ったし、川崎暸のグループは僕のお気に入りだった。朝の部は駆け出しのミュージシャンのためにあった。しかし、チャージはいくらだったのだろう?マイルスのコーヒーはその頃確か80円か100円!だった。そういえば、そこのニュウ・ジャズ・ホールの下の喫茶店で僕は高校3年の時、今考えるだけで赤面ものの、初めての個展を開いたのだった。ああ、恥ずかしい。僕は個展の開催中、新宿で降りられなかった。はずかしくて、はずかしくて、搬出の日まで、会場に行けなかった。とにかくあの頃の新宿は狂っていた。

2006年12月15日3時15分

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