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フリーランスは「印籠をなくした黄門様」みたいな存在?僕がフリーになって、人生の意味を考えるのをやめた話

そもそも、我々が人生の意味を問うてはいけません。

我々は人生に問われている立場であり、我々が人生の答えを出さなければならないのです。

僕たち人間は、人生から意味を問われているのだ--。『夜と霧』の著者として知られるオーストリアの精神医学者、ヴィクトール・E・フランクルはそう語りました。

僕たちは、つい「人生の意味ってなんなのだろう」って考えて、「あれ? 自分の人生意味ないかも?」って落ち込んじゃうことがあります。でも、「自分は人生から意味を問われている」と考えると、景色がらっとかわります。

「人生の意味ってなんだろう」という考えには、どこか自分の外に人生の意味があって、それを探すような含みがあります。

一方「自分は人生から意味を問われている」という考えには、意味は自分の外ではなく、今この瞬間自分自身がつくるもの、という含みがある。

フランクルさんはナチスの強制収容所での生活を経験しました。そうした過酷な暮らしの中で、「今、自分は人生になにを問われているのか」と考えることで、過酷な状況にすら「極限状態に生きる人々の精神を通して、人間という存在を深く知ることができる」という意味をつくることができたのです。

肩書きは、印籠のようなもの

フランクルさんの言葉になぞらえるなら、僕が感じているのは「フリーランスは、問われる存在なのだ」ってことです。

「お前は何者なのだ」と。「お前の人生の意味はなんなのだ」「お前はまわりにどんな価値を与えることができるんだ」と、問われるんですね。人生から。

たとえば、僕は大学院は東大に行っていたので、当時は「東大生なんですよね〜」といえば「え、ほんとですか!?」っていう反応があって、「いやいや、たいしたことないんですけどねぇ」とか言いながら、ちょっと鼻高々で、まんざらでもない気持ちでした。いやはや、みっともない話ですが。

だから「自分は何者なのか」なんて、考える必要なかったんですね。東大生っていう肩書きでもって、自分のアイデンティティがまもられていたんです。

そう、当時の僕にとって東大生という肩書きは、水戸黄門の印籠みたいなもの。その印籠を見せれば、周りは「あぁ、東大生の山中くんね」と納得してくれる。たとえ自分の中身が空っぽだったとしても、です。


フリーランスになって、”人生に問われる”ようになった

が、フリーランスはそうはいかない。印籠のなくした黄門様を想像してください。「ひかえおろう!ひかえおろう!」って言われても、「なんでこんなニセモノかもわからん爺さんに頭を下げなきゃいかんのか、さっぱりわからん」ってなりますよね。

フリーランスになってからの僕は、印籠のない黄門様になった気分なんです。誰もが納得してくれるような”印籠的肩書き”は、僕にはもうない。自己紹介で「フリーランスで編集者をやってる山中です。」と言っても、「あぁ、そうなんですか…」で終わってしまう。

そんなふうに、寄りかかれる肩書きがなくなったとき、「自分って、何者なんだろう」「自分の人生って、どんな意味があるのだろう」って、考えるようになったんです。

フランクル的に言えば、「人生が自分に問いかけている」ということですね。

それに、フリーランスは選択の連続。もし会社員であれば、朝何時に出社して、どんな仕事をして、お給料はいくらで、何時まで働いて…など、ある程度会社側が決めてくれます。極端な話、自分は決めてもらえるのを待っていればいい。楽チンです。

それがフリーランスになると、それこそ今日何時から仕事を始めるのか、どこで仕事をするのか、この仕事でいくらいただくのか、誰と働くのか…あらゆる場面で選択が必要になります。

そうすると、「自分は何者なのか」「人生の意味はなんなのか」を問わないことには選択ができないんですよね。

だから、何度も何度も選択をするたびに、「自分は何者なのか」「人生の意味はなんなのか」と問われている気分なんです。


「自分の人生のハンドルを自分で握ってる」感

人生から問われることが嫌かといったら、まぁ確かに大変です。人生の意味なんて言ったら大したものに聞こえるけど、人生を貫く意味なんてそうそう見つかりっこないし。「今はこれかなー」みたいな、現時点での答えのようなものを見つけていく作業の繰り返しです。

それは確かに大変なのだけど、生きてる実感みたいなものは会社員だった時よりあるかもしれない。なんというか、「自分の人生のハンドルを自分で握ってる」感、とでも言いましょうか。

逆にもし、なーんにも問われないまま、スーっと人生を滑るように生きていった先に待っている景色は、あんまり面白いものじゃないんじゃないかな。

問われて、考えて、問われて、考えて…その繰り返しの中で、100歳で息をひきとる瞬間に「そうか!俺の人生の意味ってこれだったんだ!」ってわかるのかもしれないし、やっぱわからないのかもしれない。

でもそんな人生もアリじゃないかな。

パズルは完成したあとのものを眺めるより、完成に向けてあれやこれや試行錯誤するのが楽しいのであって。それと同じで、人生からの問いに答えようともがき続ける、その過程こそが、味わい深いんではないかなーと思うのです。


さて、今日はフランクルの言葉を紹介しながら、「人生に問われる存在としてのフリーランス」について書きました。といっても、「人生に問われる」のはフリーランスに限った話じゃありません。会社員も公務員も先生も八百屋さんもみんな問われている。もちろん僕もあなたも、です。

あなたは今、人生から生きる意味を問われているとしたら、なんと答えますか?

サポートがきましたって通知、ドキドキします。