見出し画像

誰もこの場にいないように扱わない。ファシリテーターとして意識する「対話のポリフォニー」という考え

麺にもうどん派/そば派、動物にも犬派/猫派、餃子にも薄皮派/厚皮派がいるように、ファシリテーターもどんな対話をつくりたいかという「なんちゃら派」みたいなものがあるんではなかろうか、と思います。

僕はなに派なんだろうなー、と考えている中で、「これじゃ!」と思ったのが厚皮派羽根つき主義…ではなく(ぼく餃子好きなんですよね、失敬)、「対話のポリフォニー」という言葉。

「ポリフォニー (polyphony) 」とは、複数の独立した声部(パート)からなる音楽のことです。

ファシリテーションに関わる文脈で「ポリフォニー」という言葉を見つけたのは、斎藤環 著/訳『オープンダイアローグとは何か』でのこと。フィンランド西ラップランド地方で開発され、高い効果をあらわしてきた精神科医療のアプローチ「オープンダイアローグ」について紹介するこの本の中で、斎藤さんはその特徴の一つを「ポリフォニー」という言葉で説明します。

オープンダイアローグの空間では、ただ「複数の主体」の「複数の声」がポリフォニーを形成しており、そのこと自体が治療の資源となるのです。……言葉が現実を構成するという社会構成主義的立場にもとづいて、やりとりが新たな現実をつくり出すようなシステムを目指して、対話が続けられていきます。(38頁)

先日のnoteでも書いたように、まさに「愛のある関係性によって、直接ナラティブに働きかけなくても、その方が感じていた孤独感が解消されて、問題も解きほぐされていく」、その「愛のある関係性」を「ポリフォニー」という言葉であらわしています。

「ポリフォニー」としての対話とは、もう少し具体的に言えば、対話を通して合意や結論を目指すのではなく、多様な表現や視点が接続されることを重視するような対話。音楽におけるポリフォニーがそうであるように、異なる声が重なり合うような対話です。そのことによって、メンバーの中で共通言語ができていくのです。

オープンダイアローグが臨床の現場で高い成果を上げているように、そうしたポリフォニーを形成すること自体が精神医療の患者の治療につながるのだそう。精神医療の現場でなくとも、一人ひとりの声を尊重される場でかわされた対話が個人を勇気づけたり、癒したりするのではないか、という気がします。(これについては仮説なので、今後たしかめていく必要がありますが)


この「ポリフォニーとしての対話」という考え方のすてきな点は、「誰もこの場にいないように扱わない」ということを大事にしていること。

対話の場と称する場でも、誰かがひたすら話していたりとか、ファシリテーターが場をコントロールしすぎようとすることってあると思います。それだと、なかには「この場にいるようにあつかわれない」メンバーが生まれちゃうんですよね。それは寂しいし、その方にとっても、その場にとってももったいない。

だから、僕は「誰もこの場にいないように扱わない」、そして複数の声が異なったまま重なりあってひとつの旋律を奏でるような、「ポリフォニーとしての対話」対話の場をつくっていきたい、なんて思っております。

今日もモリッとがんばりましょう。

サポートがきましたって通知、ドキドキします。