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非プロフェッショナルの流儀、ってなんぞや?-『私の個人主義』夏目漱石-

わたくし、『プロフェッショナル 仕事の流儀』がすごく好きで、一時期観まくっていました。

気に入った回を何度も見返したりして、その中でもとくに感銘を受けたカーデザイナーの方がいるのですが、たまたま今働いているオフィスの徒歩1分のくらいところに、めちゃくちゃかっこいい車が停まってるところがあるんですね。

で、もしやと思ったら、なんとその方のオフィスで。いつも散歩しながら、あの方いるかなぁとチラチラのぞいちゃうんです。


ただ、実際のところ、『プロフェッショナル』に出れるような人はひと握りな訳で。でも、だからといってプロフェッショナルになれない人間が不幸かといったら、そんなことないはず、と信じたい。

 

もし「非プロフェッショナルの流儀」といえるようなものがあるとしたら、どのようなものなんだろうな、と考えるなかで、実は今から100年以上前の明治44年に、夏目漱石さんがヒントになるような講演を行なっていたようで。その講演録が、『私の個人主義』に収められている「道楽と職業」というものです。


分業が人間を不完全にする?
 

明治44年、時は文明開化のまっさかり。漱石は「職業は開化が進むについて非常に多なっていることが驚くばかり眼につく」と書いています。(『私の個人主義』16頁)

江戸時代までの日本では、たとえばお百姓が農業もやれば商売もやる、といったようにあまり職業が分かれていなかったのだけれど、明治になり近代化が進むにつれて、どんどん仕事の分業が進んで、職業が増えていったのですね。

そうした状況に対して、漱石は悲観的です。

 

こういうように人間が千筋も万筋もある職業線の上のただ一線しか往来しないで済むようになり、また他の線へ移る余裕がなくなるのはつまり吾人の社会的知識が狭く細く切り詰められるので、恰も自ら好んで不具(原文ママ)になると同じ結果だから、大きくいえば現代の文明は完全な人間を日に日に片輪者(原文ママ)に打開しつつ進むのだと評しても差支えないのであります。(『私の個人主義』23-24頁)

 

あらら、漱石さん、だいぶ大胆なことを言っちゃっています。「ひとつの仕事を特化してやっていると、人間は不完全になってしまう」と。

 

少しわかりにくいので補足をすると。

それまでは、たとえば自分が食べるものは自分で野菜から収穫したり、鶏を絞めたりして手に入れ、自分で掘った井戸で汲んだ水を汲み、服も、自分で織ったり繕ったりしたものを着ていた。だから、生きるための知恵をひとりひとりが持っていたし、誰かに依存することなく生きることができた

でも「おれはこれが得意だからこれをやる。その代わりあんたはこれをやってくれ」って分業が進んでいくと、自分が口に入れているものがどこでどうつくられたものなのかもわからなくなってくる。

生きるための知恵が、自分が専門とすること意外わからなくなってしまう。だから、誰かに頼ることなしには生きることができなくなってしまう。

 さらには、自分の専門のこと以外に関心がなくなって、お互い理解しようとすることがなくなり、孤立してしまう。

 そういった状況を指して、漱石は「不完全な人間」といい、「それじゃ味気ないじゃん」と言っているのです。

 漱石がこの講演を行ったのは今から100年以上前ですが、その指摘は驚くほど現代にもあてはまります。おそらく、高度経済成長期でさらに分業は加速して、今に至っているのではないでしょうか。

 

分業社会への反動としての「ナリワイ」
 

ただ、2010年代に入ってから、そうした状況への反動のようなとりくみも生まれています。それが、「ナリワイ」をつくることです。

 「ナリワイ」づくりのとりくみの先駆けとなった伊藤洋志さんによれば、「ナリワイ」とは「個人で元手が少なく多少の特訓ではじめられて、やればやるほど頭と体が鍛えられて技が身につき、ついでに仲間が増える仕事のこと」。(引用:人生を盗まれない働き方 | ナリワイをつくる)

たとえば農家の手伝いをしたり、宿をやったり、イベントを開いたり…といった比較的規模の小さな仕事であり、そうした仕事を組み合わせる生き方でもあります。 

伊藤さんがナリワイを始めた背景にも、漱石と同じような問題意識があったようです。 

1個の組織で1つの仕事を毎日決まった時間に行う、という生活は人類の歴史では異常なことなので、合わない人がけっこういてもおかしくない。

そこでナリワイは、そもそもライフとワークのバランスを考えるのではなく、生活から乖離してしまった仕事を個々人の手の届く範囲のほどほどの距離に近づけることを目指しています。いうなれば生活と仕事の一体化です。(引用:人生を盗まれない働き方 | ナリワイをつくる)

 

「生活から乖離してしまった仕事を個々人の手の届く範囲のほどほどの距離に近づける」とは、漱石の言葉で言えば「完全な人間」にもう一度近づく、ということでしょう。

 あるいはナリワイではなくとも、今注目されている「副業・兼業」も、分業社会への反動としてみることもできるかもしれません。


『プロジェクトx』『プロフェッショナル』の時代を超えて
 

組織として何か大きな仕事を成し遂げる『プロジェクトx』がみんなの憧れだった時代から、個人がある分野に特化して一流になる『プロフェッショナル』がみんなの憧れだった時代になった。

さらに今はそうした時代への反動から、「ナリワイ」や「副業・兼業」も生き方としていいよね!という時代になってきているような肌感覚は、たしかにあります。

ひとつの職業、ひとつの会社に縛られてしまうことの問題を、100年前に見事に見抜いていた漱石さんは、やっぱりすごい。

もっとも、近代になって進んだ分業の意義と課題については、社会学者エミール・デュルケムが1893年に『社会分業論』で論じています。漱石もその影響を受けているのかもしれません。 

もし漱石さんが生きていたら、今みたいな時代をどうを評するんでしょうか。

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