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としまえんと石神井川~切っても切れないその関係~

 当会代表は川と水辺を楽しむプロジェクトという団体の共同代表も務めているのですが、この度練馬区の「みどりのまちづくりセンター」が作成した川遊び活動についてまとめられた動画が公開されたのでご紹介します。

 この「川と水辺を楽しむプロジェクト」が川遊びに使っているのは、練馬城址公園より約3km上流にあたる南田中団地付近です。
 ここはほとんどが直立のコンクリート護岸になっている石神井川において貴重な緩傾斜護岸(傾斜が緩やかで人が川辺に近づける護岸)の区間なのですが、その水は練馬区の調査ではCODが0.9~1.8mg/lという数値で水温も20℃前後と冷たく、水環境だけ見れば山奥の渓流のような環境です。

 この「渓流のような環境」過ぎる現在の石神井川もそれはそれで実は問題があるのですがそれは後でお話するとして、「水と緑の遊園地」を冠したとしまえんも初期は石神井川を「清流」と表現し、水辺環境を生かした空間となっていました
 今回はそんな石神井川ととしまえんの切っても切れない関係を整理しておこうと思います!


石神井川が作り出したとしまえんの地形

 石神井川の清流を取り入れた高低起伏に富む一帯の地、総坪数優に五萬、此れが即ち豊島園である。

実業之日本 5(8) 1926-8 「武蔵野の一角に出来上がる豊島遊園地」

 としまえん初期の正式名称は「練馬城址豊島園」という名前の通り、藤田好三郎氏が練馬城址のある地形を気に入って土地を購入したものを整備して開園したものですが、その地形を作り出したのは石神井川です。

令和2年度第1回公園審議会「都市計画練馬城址公園の 整備計画について (諮問)」より

 このnoteでも何度か紹介していますが、としまえんの敷地は武蔵野台地の高台に挟まれた石神井川の低地を中心に広がっています。そこに、支流の沢に挟まれる形で突き出した高台があることに目をつけ、豊島氏が築城したのが練馬城でした。練馬城は北を石神井川の低湿地、東と西を沢に囲まれ、南に人口の堀を作れば四方の防御に優れた城になるのです。
 また、武蔵野台地の高台は関東ローム層という赤土からなる火山灰台地となっており、粘土質で滑りやすい特徴があります。そのため他の関東の城同様石垣を作らずとも、ローム層が露出した土塁を設ける事で簡単には人が登れない要害となったのでした。

 つまり、としまえんも練馬城も石神井川が作った地形がその基盤にあるのです。
 石神井川の谷は現在ではほぼ全区間宅地化され、ある程度の土が盛られていますが、豊島園開園時はほぼ全区間湿地と水田で、その中に遊園地を築くのは大変な苦労をしたようです。実際に低地は雨で毎年のように池になっていたと戸野琢磨先生も書いています。

幸ひにして園主藤田好三郎氏が所有せる松林の眺望佳絶な豊島城址と石神井川と清流とを取り入れた五萬坪の地を以て始める事が出来た。
(中略)武蔵野の荒涼たる風致、殊に現在運動場となつてゐる低湿地が毎年雨期には水害を蒙り、一大池を現出してゐた頃を知る人は、今昔の感に堪えないことと思ふ。

戸野琢磨「遊園地としての豊島園」より

 この土地造成については練馬区の「古老聞書」にも書かれており、

 石神井川にそった下の土地はほとんど田んぼで、二十数軒の農家がこれを持っていた。ここを埋め立てるために成増の工場から石炭がらを運ぶのに、トラックで数千台分もかかった。最初のうち豊島園に貸してあったが、後に売ってしまった。

練馬区教育委員会「古老聞書」 P62 より

 このように低湿地帯だったとしまえんの低地部分は石炭ガラ等による埋め立てによって遊園地化していったのです。

初期の豊島園は石神井川を楽しめる場所だった

図面にて見る如く、此遊園地中央を上下に切断する白き曲線は、天然に流れる石神井川の清流である。面して上方は、前述の水田でった處を埋立したもの、即ち全部が人工的に加工された部分である。下方は高さ三十尺も高く、且つ風致上、非常に眺望の良い高臺と松林があったので、それを利用して風致的造園設備をするより他に道がなかつた。以上の理由に依つて、全然分けて設計するのが便利であった。

戸野琢磨「遊園地の設計と施設」

 戸野琢磨先生の言葉にある通り、開園時のとしまえんは石神井川の清流を中心に南北に分けて設計をされていました。その諸設備をここで紹介します。

北側東部のボート池

 昭和3年に豊島園が配布した「卒業御祝招待児童用入場券」には藤田好三郎の言葉として次のように書かれています。

 石神井川の美しい水満々のお池には、お舟はすべるウォーターシュートやスワンのお舟ボート遊び、モーターボートもボコボコとさざ波を立てて走って居ます。

 北側は水田を埋め立てた上で、野球場やテニスコートなどの運動施設群を挟む形で石神井川の水を引いたボート池と釣り堀池を人工的に整備していました。

(図)練馬城址豊島園全景 昭和5~7年
引用元:石神井ふるさと文化館の「夢の黄金郷「遊園地」」冊子

 ボート池は音楽堂を中心に大きく3つに分かれ、時代によって細かい名称や用途が異なっていますが、初期は「鯉の池」、「大遊舟池」、「ボートハウス」、「徒渉池」という名称がそれぞれに振られていました。

(図)練馬城址豊島園全景 昭和7年
引用元:石神井ふるさと文化館の「夢の黄金郷「遊園地」」冊子

 このように初期の豊島園は石神井川の水を利用したまさに「水と緑の遊園地」だったことが分かります。「鯉の池」と「大遊舟池」の間には、練馬城の城山から落ちる「ウォーターシュート」の落下池もありました。

(図)豊島園絵葉書 昭和10年
引用元:石神井ふるさと文化館の「夢の黄金郷「遊園地」」冊子

北側西部の釣り堀と桃太郎神社

(図)豊島園絵葉書 昭和13年
引用元:石神井ふるさと文化館の「夢の黄金郷「遊園地」」冊子

 運動施設の西側、現在の練馬城址公園の「花のふれあいゾーン」に該当する一帯は、近年はグラウンドや駐車場となっていましたが、初期は釣り堀池となっていました。ちなみにこの池は戸野琢磨先生の設計図にはなく、昭和になってから豊島園の敷地が拡張された際に追加で設置された施設です。
 さらに小川栄一氏の経営になって釣り堀は縮小され、半分が新ボート池と桃太郎神社となりました。桃太郎神社は池の中央に浮かぶ祠だったのです。
 これらの釣り堀や池も石神井川からの導水だったと考えられます。

(図)豊島園絵葉書 昭和13年
引用元:石神井ふるさと文化館の「夢の黄金郷「遊園地」」冊子

南側の沢に作られたプール

 「遊園地としての豊島園を読み解く2」でも紹介しましたが、プールは元々北側の体育施設の中に設計されていたものを計画を変更して沢の地形を利用して設置されたものです。

 此のプールは始め體育の部に入れ設計図に示す如く此の部分に入れてなかったのを、風致に調和を取り且つ石神井の清流浴したい希望が盛んになつたので、遂に天下一品と云ふプールを設計した譯である。

戸野琢磨「遊園地としての豊島園」より

 この沢にはもともと小河川が流れていましたが、プールを設置する際には石神井川の水を導水し、「清流浴をしたい」という需要に応える形で設置されました。
 計画を変更して南側にプールを設置した事で、昭和40年代以降「流れるプール」や「波のプール」、「ナイヤガラプール」、「ハイドロポリス」が相次いで設計される際には石神井川の南側に設置されることとなりました。
 しかし、南側は2つの沢を除いて地形的には台地上です。ですので、沢に設置された初代プールと台地上のプールでは10m近い高低差が生まれました。

流れるプールから見た競泳プールとの高低差(岡田撮影)

石神井川の堰で行われたシジミの養殖

 「練馬の潜在自然植生でも紹介しましたが、初期の豊島園内の石神井川ではシジミの養殖をしていました。

 少し下って橋上に立つと、石神井川の淸流が、青い水草を滑つて滾々と流れて居る。
 この橋際に堰を設けて、下流を淺くし、しじみ貝を養殖して、来遊者は自在にひろふことが出来る。堰かれた水は、低地に掘つた四千坪の大池に注いで深さ五尺となり、三人乗り、五人乗りの白、赤の鴨のようなボート十数艘浮かべて、終日オールを漕ぐにまかす。

事業之日本5(8)1926-8 「武蔵野の一角に出来上る豊島遊園地」より

 シジミの養殖はボート池に導水する堰の付近で行わていたそうで、来園者は自由に採って帰ることができたそうです。
 石神井川にシジミがいるのは特別な事ではなく、石神井川流域環境協議会が平成11年に発刊した「ふれあい石神井川」には練馬区の住民の話として下記の証言が掲載されています。

 河底が砂利のところは水がよく澄んでいて貝類が多く、蛍橋付近ではタニシが、正久保橋から羽根木橋にかけてはシジミがたくさん獲れた。河底が泥質のところではカラスガイが獲れ、これを焼いて食べたりした。
 川沿いの葦が茂っているところには魚が多く、カエルを餌にしてよく釣りをした。

石神井川流域環境協議会「ふれあい石神井川10周年記念号」P9 より

 このように石神井川で獲った貝を食べるというのは、昭和初期は豊島園に限らず流域全体で行われた当たり前の話でした。

(図)豊島園絵葉書 昭和10年
引用元:石神井ふるさと文化館の「夢の黄金郷「遊園地」」冊子

古城の塔の前にも水辺があった

 ところで古城の塔が建てられた練馬城東側の沢も当時は湧水があり、小川が流れていました。
 昭和30年頃の絵葉書にはこの河川の水を利用した小さな池が沢の底にあった事がうかがえ、池に反射する古城の塔の姿が絵葉書として販売されていました。

(図)豊島園絵葉書 昭和30年
引用元:石神井ふるさと文化館の「夢の黄金郷「遊園地」」冊子

 この水辺についての詳細な記載は今のところ見つかっていませんが、おそらく位置関係的に沢の出口付近に作られた日本庭園に連なるものとして整備されたのだろうと考えられます。

決定的に関係が変わったのは昭和40年代

 このように初期の豊島園は石神井川の水を利用した施設がたくさんありましたが、近年のとしまえんにおいてはそのような施設はほとんどありませんでした。
 遊園地としての需要の中にボート池やシジミの養殖が無くなったというのもあるのでしょうが、決定的にその関係が変わったのは昭和30年代から流域に人が増え始め、石神井川の水質が悪化したことと、都市型水害が増えた事だと考えられます。
 練馬わがまち資料館には以下のように書かれています。

 昭和30年代から40年代にかけて住宅が急増しました。この間、下水道など都市設備の整備は大幅に遅れ、このため家庭排水や工場廃水は川に流れ込む一方となり、さまざまな弊害をもたらしました。昭和30年頃から、石神井川で魚が釣れなくなったといいます。これに不審をもった開進第二中の理科部員生徒たちは、35年から先生の指導で川の水質調査を行いました。このことが新聞に報じられています。
(中略)
 狩野川台風をきっかけに、都では中小河川の改修に本腰を入れ、石神井川も第一次改修(30㎜改修=1時間当たり30㎜の雨に耐えられるようにすること)から、今日では第二次の本改修(50㎜改修)に進んでいます。一方区では、昭和46年から川の水質を定期的に調査し、汚れの原因を調べてきました。その第一には、家庭から流れる洗濯や食器洗い、ふろ、トイレなどの排水が上げられています。

練馬わがまち資料館「移り変わる石神井川」

 都市化にともない、石神井川からは一時生き物の姿が消えてしまいました。さらには石神井川の田んぼを埋め立てたところに人々が家を建てたため、狩野川台風など水害が頻発し、ついに石神井川でも大規模な河川改修工事が始まります。
 周囲が宅地化された石神井川では河川用地の確保が難しく、大きな掘り込み式河道に大きく姿を変える事になりました。こうして、低地をゆったりと流れていた石神井川はコンクリートの直立護岸で数m~十数m掘り下げられた河道の底を排水路のように比較的早い流速で流れる現在の姿に変わってしまったのです。
 西武社内報によれば、豊島園の敷地内の石神井川の河川改修が完了したのは1970年(昭和45年)だったそうです。(西武グループの歴史「㈱豊島園」より)
 こうして昭和45年に石神井川の水辺と豊島園は切り離され、次第に園内の沢や池も埋め立てられていったのでした。

清流石神井川と練馬城址公園

 時代は流れ、石神井川は姿を変え、としまえんも閉園しました。
 現在の石神井川は冒頭に書いた通り、非常に水質の良い川となっています。むしろ良すぎるくらいで、その原因は現在の川のつくりにあります。

 本来、平地の川というのは湿地帯を蛇行しながらゆったりと流れるものです。そのため、「河底が泥質のところではカラスガイが獲れた」という証言にある通り、底に泥が溜まるほど水が停滞する場所もありました
 しかし、現在の石神井川の流れは非常に速く、河底はコンクリートと小石になっています。泥が停滞するような場所がなく、湧き出た地下水がそのまま流下するような川になっているために、水質が非常に良いのです。そうすると必然的に生息できる生き物も変わってきてしまい、水質は良いのに本来の石神井川に生息していたフナなムサシトミヨのようなゆったりとした流れを好む魚が逆に見られないのが現在の石神井川の特徴です。

 そういった課題を抱えながらも、石神井川の水が現在、川遊びをするには問題の無いレベルまで綺麗になっているのは事実です。

 練馬城址公園のパブリックコメントではプール存続について1,036 件のコメントが寄せられました。その中にはハイドロポリスや流れるプールなど、としまえんのプールそのものへの思い入れから来るものもありますが、「23 区内に大規模な屋外プールがない。」 「練馬区は暑い。」という暑さに対する切実な声もあります。
 遊園地としての歴史が終わってしまった以上、プールの存続が難しいのは理解できますが、炎天下の夏の公園遊びの中で誰もが涼める機能を公園に求める事は当然だと思います。パブリックコメントの回答としては「D ゾーンやEゾーンでは子どもが水遊びを満喫することができ る流れや浅瀬等の水遊び場を計画しております。」となっていますが、子供だけでなく大人も水遊びをできる場を作るとしたら石神井川を利用する以外の手は無いのではないでしょうか。
 なお、パブリックコメントには石神井川に対しても「石神井川は親水護岸(緩傾斜護岸)として改修し、水辺に近づくことができる整備をしてほしい。」という意見が13 件、 「緩傾斜護岸を早期に整備してほしい。」という意見が2 件寄せられています。

 川と水辺を楽しむプロジェクトの「石神井川で浮いて流れる」という企画では石神井川で大人も水遊びをしている様子を報告しています。

 川に近づける場を作る方法は南田中のような立派な緩傾斜護岸に限りません。
 石神井川には愛宕橋付近のように片側だけ緩傾斜護岸になっている場所もありますし、茜歩道橋付近のように少し拡幅して河原に降りられる階段が設置されている場所もあります。

茜歩道橋付近(岡田撮影)

 また、北区の音無もみじ緑地はワンド状になっていて、スポット的な親水空間が生まれています。

音無もみじ緑地全景(岡田撮影)

 もちろん、護岸の再設計・施工には多額のお金がかかります。また、河川の管轄と公園の管轄は同じ東京都でも別部署が担当しており、一体となった整備は一筋縄ではいきません。
 しかし、大人も水遊びができる空間を公園内に創造する事を考えたときに、かつての豊島園に習い石神井川を有効活用することは非常に現実的で合理的であると思います。

 最後にYoutubeにアップロードされている昭和4年の豊島園の映像をご紹介します。そのほとんどは水辺空間を楽しむ人々の映像です。

 歴史を調べていくと必ずその土地の自然と人々のかかわりが見えてきます。当会は身近な歴史や自然を見つめなおし、そのかかわり方や活用の仕方、共生の仕方を考える機会を作っていきたいと思っています。

 引き続き応援よろしくお願いします

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