風呂焚きばあさん

小学校高学年の私は漠然と核家族に憧れていた。中学生になる頃には憧れが具体性を増し、自分が身を置く二世帯同居に嫌気を感じていることをはっきりと自覚した。

風呂焚きばあさん。それは弟が祖母につけたニックネームである。弟は、姉である私と母から「あの子はこの家から生まれたとは思えん。仏じゃ」と言われて久しい。悪意を人に向けることを知らないような人間だ。

その頃の私は年頃らしく、風呂に入れと言われてもなかなか言うことを聞かなかった。一丁前に口先だけの返事をして困らせるくせに、風呂に入れとせっつかれるのが大嫌いだった。
自室として与えられた二階から階段を降りてすぐのところに台所があった。何かあるとすぐにそこから声が飛んでくる。祖母は台所から叫ぶように言う。「お風呂入り」「はよ入らんと冷めるがね」「お風呂入らんのかね」等々。ああ書いていても蘇ってくる、どんどん間隔が短くなる入浴お知らせサイレン。けたたましいお風呂コールに重い腰を上げて風呂に向かう。しかし、ここで何事もなく風呂に入れるほど同居生活は甘くない。ここで待ち受ける門番がそう、風呂焚きばあさんだ。

うちは古い家なので自動追い炊き機などなく、薪焚き兼用風呂釜というものを使っていた(名称が分からなかったのでさっき調べて初めて名称を知った)。追い炊きをする場合は名の通り薪をくべて、ボイラーとタイムスイッチを駆使する必要がある。風呂焚きばあさんは、この薪をくべることに命を燃やすばあさんであった。頼んでもいないのに、と言うとなんて傲慢な祖母不孝の馬鹿孫なのかと叱られそうだが、頼んでもいないのに、むしろやめてくれと頼み込んでもやめてもらえないことが幾度となく続けば、それはもう立派に嫌がらせなのである。薪をくべればくべるだけ風呂は熱くなるため、過度な追い炊きにより熱湯風呂と化したせいで湯船に浸かれないこともあった。冬場にこうなるとそれはもうつらい。私は自分がかわいそうで泣く趣味はないが、この時ばかりは自分のために泣いてやりたい気持ちだった。なによりも、自分の意見を問答無用で却下される。大袈裟かもしれないが、こういった出来事の積み重ねは思春期の私を苦しめ、後々の生き方に影を落とすには十分だったように思う。

風呂焚きばあさんに涙を飲んだのは弟も同じだった。弟はその厚かましい意志と書いて厚意と読むものを5回に3.5回は受け入れ、残りの1.5回はやんわりと「ええんよばあちゃん、自分でやるけん」と断っていた。とはいえ筋金入りの善人の言葉など、妖怪の前では塵に等しい。頑張りも空しく、しんなりした顔で風呂から上がる弟を何度も見た。「めっちゃ熱かったわ」茹だった弟のほおずきのような顔を今も時々思い出す。
何度も何度も、数える気さえ起こらないほど何度も続いた。相変わらずうんざりしながら湯船に浸かったりたまに浸かれなかったりした。

感情をコントロールするのが人より上手いというだけで、仏と呼ばれる弟にも感情の起伏がないわけではない。とうとう仏にも限界が訪れる。「風呂焚きばあさん」弟は言った。春だったか秋だったか、夏だか冬だか覚えていないが奴は確かにそう言った。いつも通り穏やかな風体ではあったが、同じ釜の風呂に浸かった仲の私にはわかる。弟の堪忍袋の緒は、名刀でスッパリいかれたかのように見事に切れていた。それでも、ババアとは口が裂けても言えないところが悲しいほどに弟だった。風呂焚きばあさん、なんて平和的で人道的な怒りの表し方だろうか。すぐさま母にも知らせ、二人して感心し、私たちだけで共有される秘密に三人で笑った。

今では祖母も年を取り、実家に帰った時に風呂焚きばあさんに遭遇することはほとんどなくなった。私の記憶の中だけで生き続ける、今はもういない風呂焚きばあさん。そのチャーミングな名称に込められた弟の精一杯は、あの頃の私の鬱屈を、今の私の怒りを沈め、慰めてくれるお守りになっている。


#家族 #暮らし #同居 #弟 #エッセイ



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