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ため息の代わり

 いつもよりも早い時間、チャイムの音を合図にしてクラスメイトたちはいそいそと席を立つ。試験期間中に与えられる普段よりも長い放課後を、真面目に勉強にあてるもの、遊びの計画に浮足立つもの。いずれにしても、みんなそそくさと教室を出ていこうとする。

 私は、ぐずぐず荷物をまとめる。文房具と少しのテキストしかない、やけに隙間の多いカバンをいつまでもひっかき回している。まだこの部屋に残っているのは、休憩時間中もずっと机に突っ伏しているあの子や、要領が悪くて意地悪されがちなあの子。最近グループから爪はじきにされた彼はまだ空を見るのをやめない。神経質な彼女は問題用紙を前に放心気味だ。このまま誰もいなくなるのを待っても仕方なさそうだから、私はもう立ち上がることにした。

 廊下に人影はなくて、上履きの立てる軽い音がよく響いた。部活動のないこの期間、校舎はいつもより澄んだ音で鳴る。今なら窓やロッカーを開ける音も綺麗に聞こえるだろうなと思うけれど、やたらに開け閉めしているところは見られたくなかった。これに似た欲望は他にもたくさんあるけれど、そのどれも叶わないままなんだろうと思うと、少し悲しい。

 生物室や実験室のある旧校舎への渡り廊下を抜ける。ここでフルートを吹いてみたかったけれど、私は吹奏楽部じゃなかった。部員だとしても、こんなに静かな廊下で吹く機会はあまりないのだろう。ないものねだり、わかっているけれど、可能性があるだけ羨ましい。代わりに、少し高めに咳払いをしてみる。ため息のふりをして、軽い音を廊下の奥まで響かせたりもした。

 旧校舎には教室はない。テスト期間には誰も近寄らない。その入り口は本当は施錠されているけれど、中からなら鍵を開けられる。裏口から外へ出て、普段は不良たちがたむろしている校舎裏の外れを目指して歩いた。

 せっかく早く帰れる日に、不良たちが学校に残っているはずはない。だから今日は先生も見回りに来ない。どこから持ってきたのか、椅子だけが六脚校舎に沿うようにして並んでいる。足元には隠しきれていない煙草の吸殻が半分埋まっていた。これが撤去されないところが、この学校の不思議なところだといつも思う。私はその中の、一番空が良く見える椅子に腰かけた。きっと勇も、ここに座っているだろうと思ったのだ。

 幼馴染の勇とは、もう何年も話していない。もう話そうとも思えない。元々私たちは、よく話が合うから一緒にいたわけじゃなかった。例えば私が上履きの音が良いと言ってみたって、なんだそれと言われるのがオチだし、フルートのことは知らないだろう。私も勇の好きな格闘家の試合は一度も観ていないし、彼が美味いと言って吸う煙草の匂いが嫌いだった。今だって、その匂いも味も、まるで好きになれない。

 すかすかのカバンから煙草を取り出して咥える。ずっと前、誰かが置き忘れたものを拾ったものだけれど、もうこれが最後だ。勇はどうやって手に入れているんだろう。勇は物知りじゃないが、私の知りたくないことをたくさん知っていた。聞いたら、どんな顔をするだろうか。それも知りたくないことの一つだ。同じく拾ったライターを煙草の先に近づけ、息を吸い込んで、火を点けた。

 一度口に溜めこんだ苦味を、肺の奥に滑り込ませる。すぐに不快な痺れが脳を締め付け、ふらふらと眩暈がする。何度吸ってもまるで好きになれないこの感覚、一箱吸う頃にはなくなるなんてのは嘘だ。昔から気管の弱いこの身体は徹底的に、この煙を嫌っていた。空に向かって、思い切り強く吐き出す。いつも、なるべく高くまで飛んでいけばいいと思ってそうしていた。

 吐いた煙は思ったよりも薄い色をしていて、少し先で見えなくなってしまう。初めて吸った時、そのことに酷く落胆した。色のついたため息がつきたかったのに、これでは意味がない。そう思ったのだ。身体の奥の澱を煙に混ぜて、どこか遠くまで吹き飛ばせるものだったら良かったのに。実際は不味いばかりで、指先が痺れるばかりだった。

 疲労感に似た感覚が、指先の皮膚をぴりぴりと舐める。動けないまま、ただ空を眺めていた。ゆらゆらと上っていく煙は、私が吐いたものよりも少しだけ濃い色をしている。煙草なんて全然良くないし、もう買うこともないだろうけれど、私の代わりにわかりやすくため息を上らせてくれる、そんなところだけは少しだけ好きだ。あとは、焼香でもされているようで、そこも悪くなかった。

 ぼうっとしている内に、煙草はどんどん燃え尽きていく。
家出をした時のことを思い出していた。夜、町には、子供一人でいていい場所などない。公園の隅のベンチで震えていると、勇が来た。あの頃から度が過ぎるわんぱくだった彼もよくここに来ていたらしい。小さな橙色の街灯の下、私たちは初めてお互いのことを色々と話した。それからしばらく私たちは友達をやっていたけれど、時間と環境に飲み込まれる内に離れてしまった。

 あの頃、私たちはお互いに煙草なんて必要じゃなかった。私にない勇気が彼にはあったし、足りない知識は私が補っていた。そうやって二人で理不尽に耐え、誰にも言えないような愚痴を吐き、何とか笑って過ごせていた。

 でも結局、私たちは勝てなかった。世間や、時代や、色々なものに。バラバラになった私たちは、それぞれの場所で煙草を吸った。ひっそりと、その煙に混ぜて吐き出す他に、私にはなかった。勇はどうだったのだろう。もう聞くことはできないだろうけれど。

 最後に一度、思い切り強く吸い込む。咳き込みそうになるのを必死に抑えて、しばらく息を止めた。咽るような不快感に、なるべくたくさんの澱を染み込ませたかった。限界がくる寸前、目星を付けていた綺麗な白い綿雲を目がけて思い切り吹いた。こんなくだらない感傷も、あれに混じれば幾分かマシに思えるといい。燃えて惨めな姿になった吸殻を土に埋めた。お互いに代わりが見つかるといいなと願って、強く踏みしめた。

本、映画、音楽など、数々の先達への授業料とし、芸の肥やしといたします。