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なぜ「対話志向」イベントはTwitter論壇実写化に終始するのか:引っ張られる言葉を一度切り離すことについてなど #ノンバズプレ企画00

0.絶望の国の幸福な対談ブーム

 2019年11月16日に青識亜論氏と借金玉氏(主催)、ゲストの石川優実氏、進行役の小保内太紀氏による『これからのフェミニズムを考える白熱討論会(石川VS青識)』、通称「これフェミ」[1]が開催されてから、建設的な(とみなされる)表現論争の成立可能性を巡る状況は目に見えて悪化した。

 であるにもかかわらず、表現を巡るAbemaTVでの特集企画に青識氏が参加したり、18歳(後に15歳と訂正)女性及び年齢不詳男性の親フェミニストと、反フェミニストの年齢不詳男性ヒトシンカ氏がツイキャスでトークを行う企画が発表されて炎上したり(後に中止)と、「表現の自由vsフェミニズム」という枠組みで、「表現の自由の守り手を自認する人」が「フェミニストと呼ばれる人」に対話を呼びかけることが、ある種のブームにすらなりかけた。

 話し合い、対話、対談、議論、討議、討論、バトル……掲げる看板が何であれ、行き着く先は大きくは変わらない。入場料4000円の格闘ゲームもどきのリアル対談イベントだろうと、AbemaTVの公開討論だろうと、議論の質、話されている内容は既存のTwitter論壇と何も変わるところがない。無理にでもそこにありそうな付加価値を挙げるとすれば「顔や声など、個人の特定に繋がりうる情報が不特定多数のギャラリーに観測される」「ライブ感がある」という程度だ。

 顔出しや生声配信をするのには勇気がいる。しかし、それで発言の真剣さがTwitter論壇と比べて担保され、ゆえにより深い議論が可能であると考えているのであれば、甘いと言わざるを得ない。もちろんTwitter論客の中には、匿名性が原因で気が大きくなっている輩もいるだろう。しかし、Twitter論壇における議論の不毛さは──各論客の不誠実さや技量不足だけではなく──議論のやり方それ自体に起因する部分も大きいように思う。そしてディベート志向のリアル討論にせよバラエティ趣向のTV討論にせよ、場の作り方はTwitter論壇と根本的には変わらない。

 本稿は、表現の自由の守り手を自認する人たちやアンチフェミニストたちから「表現論争の閉塞感を打破できたら」との期待と善意とパフォーマンスにおいて繰り出される「対話志向」のイベントが、これからも概ね失敗に終わるであろうということについて、筆者なりに感じた原因の提示と改善提案をしていく。これは表現の自由の守り手を自認する人たちと敵対するためではなく、表現の守り手を自認する人たちとフェミニストと呼ばれる人たちとの間で対話を成立させやすくするためである。

 筆者が問題だと感じるものは二つあり、一つはイベント企画者側の問題だが、本稿が主に取り上げる問題であるもう一つは、本人がどの実践的立場にいるかに関係なく(つまりフェミニストと呼ばれる人々にも)蔓延している。前者は、対話と言いつつバトル形式を取ったり、「私たちの側は対話の場を作ることに積極的です(対話に応じないあなたたちは非民主的なパブリックエネミーだ)」と言って対話を「自分の道徳的優位」をギャラリーに示すための道具にしたりすることの欺瞞であり、これについては多くの人がすでに違和感を表明している。それに対し、本稿の問題関心がある後者──対話の場を作るときにより多くあればあるほどよいという前提で称揚される「自由な語り」の持つ陥穽は、なかなか理解されがたい論点だと思う。

 なお、本稿における提案は、これを実行すれば必ずうまくいくというような話ではなく、「具体的な対案を含む問題提起」というぐらいに捉えていただければと思っている。

1.自由落下する言葉たち

 忌憚なき意見、と言われるように、建設的な議論のためには自由な語りが必要だと思われている。自由な語りとは何だろうか。「何を語ってはならないか」という制約を限りなく減らせば、より自由な語りと呼ばれるものに近づくのだ──と言えば、多くの人から賛同が得られるだろう。

 しかし、自由に発話する、あるいは「自分が語りたいように語る」ということは、必ずしも、対話や議論を有効なものとして成立させる語りにはならないばかりか、有害ですらあるかもしれないし、多様な言葉を解放する、といったようなこととは正反対のことであるかもしれない。

 誤解を避けるために強調しておくが、それは「セクハラ禁止」「相手を傷つけないような表現を」といったような話ではない。

 富野由悠季は自らの作品制作についてのあるインタビュー[2]の中でこう語っている。

色彩設計のスタッフから聞いたんですが、『アニメの仕上(色を塗る作業)もデジタルになって、色は無限に使えるようになりました。でも、その結果、みんな同じ色合いになりました』と。クリエイターと呼ばれる人たちが、自分たちは新しいことをやっているつもりで、実はツールに使われてしまうと、ほとんど同じものになってしまうんです。

 記事全体の論調に対しては各自思うところもあるだろうが、この部分に関していえば参考になる。似たようなことが、言論、対話を巡って起きているのだ。

 無制限に自由な語りとされるものは、果たして議論の深化をもたらすのか? 「自分の話したいように話す」ということと、「自分の話したいことを相手に伝わるように話す」ということは、一致しない。その意味で、青識亜論氏とそのシンパの掲げる「対話」はもちろんのこと、石川優実氏とそのシンパの掲げる「対話」もまた、自己の語りの語り方に対する反省を欠くのであれば、未来の建設に資するものではない。

 これは創作論に寄せて言うなら、「型を学び、意識して破ろうとしなければ、型を破ることは難しい」「先行作品を学ばなければ独創的な作品は組み立てられない」という話にも似ている。

 表現の自由の守り手を自認する人たちにせよフェミニストと呼ばれる人たちにせよ、表現の自由の守り手を自認する人たち自身のぼんやりした実感に対して、またフェミニストと呼ばれる人たち自身のぼんやりした実感に対して、それぞれ最適化された語彙と言説の体系を持っている。これはお互いに対して異言語だ。異言語の隔絶を自覚し、理解が共通している言葉のみを用いることによってしか対話は始まらないが、現実には三つの壁が対話を阻んでいる。


A.最適化、パッケージ化された言説の体系への強固な信頼

B.パッケージ化された言説同士を対峙させることを対話と呼ぶ誤り

C.様々な概念に対してお互い大雑把な了解しかない状態で時間の限られた「対話志向」イベントを強行することによる諸資源のロス


2.誰が魔術師を殺したか

 インターネットでこじれたたくさんの人々の関係を、たった数人による差し向かいでの対話で修復することは可能なのだろうか。さすがに表現の自由の守り手を自認する人たちとて一回程度のイベントで劇的な変化が起こるとは思っていないだろうが、「対話志向」イベントに、直接話せば何かが変わるはずだという青臭い夢想主義に基づく期待(パフォーマンス的なものも含めて)がされていることは確かだろう。対話の場に想定されるそうした力はある種、魔術的なものなのだが、その効果を引き出すにはコツがいるし、やり方を間違えれば力を顕現させることなく殺してしまう。しかし企画者によってもTwitter論壇においても技術的な問題点が全く考慮されていない以上、その弊害の矛先は登壇者の属人的な信用に向かう。こうして魔術師は死に、対話の機会はあえなく食い潰されていく。

 内部で理論武装が推し進められ、外部に言語化が要請されるとき、それがかえって枷となり、議論の妨げになる可能性は指摘されない。「これフェミ」後の石川氏への批判として「言語化が足りない」ということが言われた。しかし言語化はすでに「されすぎている」。石川氏とそのシンパにとって最適化され、青識氏とそのシンパには理解しがたい異言語でしかないようなものとして。それは青識氏の側も同様である。パッケージ化すればするほど失われるものがあるということだ。そこから外れようとするには、現状企画されているようなイベントの場は不適ではないか。石川氏側がプレゼンの準備をちゃんとしていれば実りある議論ができた、という非難はおそらく当たらない。事前準備をきっちりやった(らしい)青識氏側の立論がTwitterで石川氏シンパから「そこからかよ」と酷評されたように、石川氏側が事前準備をしたところでやはり青識氏シンパから「そこからかよ」と酷評されるに留まったはずだろうからだ。理論武装や言語化自体が悪いというよりは、あくまで、理論武装や言語化が「説得対象に通じない言語と化した体系」へとシームレスに移行する現状が問題なのではあるが。

 人々はこうした型に無自覚であるどころか、それを積極的に導入しようとさえする。あなたが、インターネットにおいてあなたやあなたと意見を近しくする人たちがとうに答えたにもかかわらず問題提起と称してぶつけられる周回遅れで食傷気味な質問、平行線のまま延々と繰り返される不毛な議論に(またも)うんざりしたときのことを考えてみよう。そんなとき、あなたはきっと、労力削減のために自らの主張を定型化して投げつけることを夢想しときには実行し、つかの間の休息を要求する。迷惑な「いっちょかみ」にはbotが対応してくれたらいいとさえ思っている。しかしこうした振る舞いが議論に明るい未来を開くかといえばそうではなく、「今まで散々言ってきたが伝わらなかった意見」を定型化したところで、理解させたいことが理解させたい通りに伝わるわけではなく、ただコミュニケーションの新たな余地が消滅するだけにすぎず、無視よりはマシだが、意味のある帰結にはならない(だからといって無限に負担が増えていいともならないが)。

 これまで散々説明してきたことについて重ねて説明コストを払わされるのが理不尽だというのは理解できるが、そうした引力に従っていては、相手の理解は望めない。残るはただ殲滅戦のみである。自らの言葉の文脈について相手に理解させるには自らの言葉を絶えず脱文脈化していくことが必要だ。「お互いの、自分自身が信じ、拠って立つものをまとまった形にし、持ち寄ってぶつけ合いましょう」という(表現の自由の守り手を自認する人たちが好む)企画コンセプト、そこにはロマンがある。ロマンは問題解決の糸口にはならない。

 無論、議論の土台を確認することは大切だ。しかし「事前に論を用意する」という行為は、現状のバトルイベントのやり方では、その事前に用意した「伝えたいこと」──何が論点か、何が事実か、何をどうするべきか──をいかにその場で出し切るかという部分に時間と意識を全投入することになりはしないか? それは果たして対話と呼べるのか? 普段から主張していることの再話で終わらないか?

 企画されるイベントは、各論客が使っている語の背景、話の前提も含めて問う場である、という反論は可能だ。しかし、そうしたハイコンテクストな語は次から次へと出てくる。ではどこまで遡るのか? 限られた時間の中、どこまで遡った議論ができるのか? そうした問いかけがなされた形跡は見られない。

 大事な前提だと自分が思うものについてこだわればこだわるほど相手からは「こちらの質問に答えない奴だ」と思われるということは、Twitter論壇(たとえば青識vs小宮論争)において実証済みだが、そうした行き違いを解消するための方策が果たしてリアルイベントの中で取られているのだろうか。司会者に任せっきりということはないだろうか。

 もちろんこだわりたいだけこだわらせればそれでいいというわけでもない。すでに書いたように、自身が拠って立つコンテクストの説明の理路や語彙もすでにだいぶ定形化していると言ってよく、現時点で「前提を掘り下げる」ことも結局は、Twitterで普段から主張している話を繰り返すことにしかならないからだ。


3.重力を切り裂くナイフ

 まっとうな議論をするにあたり、ナイフは必要だ。しかしそれは自分たちの価値観で認められた「鋭い意見」「人を傷つけかねない正論」とやらではなく──そんな滑稽なものたちはTwitter論壇で何度もお披露目済みだ──自分たちに最適化された定型的な語りに引っ張られる言葉を、相手の手に渡せるようにバッサリと切り離すナイフだ。相手の手に渡す、相手が理解できるようにするということは、何も相手に譲歩しろという話ではない。敵を利するのではなく、これから射る矢やこれまで射てきた矢の当たり判定を取り戻すための作業とでも思っておけばいい。

 自らの論をただ強固にするのではなく内奥へと切り開くこと。それなくして力ある言論はない。

 また、人は自分自身の言葉を組み上げる(その危うさは上に述べた)よりも、自分自身の実感を代表していそうなバズワードに乗っかりがちだし、Twitter論壇の決着をつけるとか、Twitter論壇の変奏としての対談イベントでは、いきおい、バズワードについてのお互いの大雑把な了解が、共通しているものだという誤解を伴って状況が始まる。そうして一時間か二時間「好きなように」話すうちに、同じ言葉に対する捉え方が、大雑把な了解のレベルですら全然違うということをただ確認して終わる。まるで、自由落下した植木鉢がアスファルトに叩きつけられてバラバラに砕け散るように。

 たとえば「ゾーニング」という言葉一つとってみても、何がゾーニングと呼ばれるべきか、ということについて、Twitter論壇は未だ決着を見ておらず、それはどちらかの陣営が語の定義に対する認識を素朴に間違えている、というよりは(もしかするとそうなのかもしれないが)、ある語の定義と定義権それ自体が政治的闘争の場において争われるものである、という動的な状況であるのだが、そのようなすれ違いを解決しないままに、各々の要求する結果に沿う形での「ゾーニング」の定義合戦や「ゾーニングの運用実態」論争、各々の耽溺する世界観に沿う形での「あいつらはゾーニングをこういう類のものだと勘違いしている」という決めつけ、「あいつらは/あいつらこそが表現規制派だ」というレッテル貼りに終始していれば、ゾーニングの必要最小限の運用に関して何らかの合意を得ることは到底望めないし、リアルイベントの場にその構造を持ち込んだところでいったい何があるというのかと筆者は問い詰めたくなる。

 相手の持つ前提、背景や動機と相手の主張、これらを曲解せず、自分の持つ前提や主張とすり合わせようとするわずかばかりの誠意はいつだって、自分の知識・信念体系において世界や他者を理解しようとする引力のようなものに敗北してしまう。

 誰だって誤解はされなくないのも確かだし、自分や仲間に有利なように事を運びたい。それは各々に切実な思いとしてある。「譲れない線」を譲れと言われてもうんとは言えない。一度立ち止まって考えることはそれほどまでに難しい。


4.市民、貴方は自由ですか?

 自由は大切だ。これはリベラルを自認する立場から真のリベラルを自認する立場までが、まず疑うことのない共通理解だろう。他でもない、自由主義者であるということがリベラルの命綱だ。

 ところで自由とは何だろうか?

 自由の対義語が不自由だとすれば、「自由なのはいいことです」と同じ意味を持つ道徳的テーマは「不自由なのはいけないことです」になるのだろうか? それだと、あなたが望むものとはやや文脈が変わってしまうようにおもえてくる。「誰かを不自由にするのはいけないことです」とする方が、納得感を抱く人が多いのではないか。

 自由とは、自己自身である──①自己自身に拠って立つ、あるいは②自己自身に拠って動く、ということだ。

 まず①。自己自身に根を下ろす、自己自身にのみ根拠を持つということ、これはよく知られていそうな語彙で言い換えれば、血統や宗教的権威や国家の必要はあなたの生きる意味や価値とは何の関わりもないということだ。「実存は本質に先立つ」だとか「人間は自由の刑に処されている」だとかという表現もある。

 次に②だが、これは広く理解されそうな語彙で言い換えれば、あなたは抑圧されてはいけない、ということだ。一つ目が「人間は生まれながらにして自由だ」ということであるならば、二つ目は「あなたが生まれながらにして権利として持つ自由は効力を発揮するものとして形にされなければならない」ということになる。

 誰においても侵害あるべからずとされる、理念としての自由と、何々はこう扱われるべきだという諸政策を通じて現れ、また消えもする、実質上の自由。皆が口を揃えて「自由を大切にしましょう」というときの自由は前者であり、自由を確保する、権利を保障するというときの自由は後者だ。

 では自由はどのようにして確保されるか、という議論をしようとしたとたん、理念と現状の混同が全てを台無しにする。理念の話として「人間は自由である、平等である、命の重さは同じである」と言えば、「現実では人間は自由でも平等でもないし命の重さは同じじゃない」、と言う人がいたり(冷静で賢明なるリアリスト諸君!)、「人間の、自由でも平等でもないし命の重さが同じじゃない状況を改善しよう」とする人に対して「人間は自由だよ」と混ぜっ返す人が出てきたりする(大森靖子が2014年にフェミニズム関連で炎上したのはそれをやったからだ)。

 人権は国家が保障する、だとか、権利は勝ち取るものだ、だとかの言葉が持つ面倒臭さを置き去りにしたまま対話を始め、必ず途中でそうした部分の食い違いがぼんやりと分かってきて時間切れになる、ということを我々は繰り返してきた。どういった意味で自由という言葉を使っているのかも、毎回確認していたらもうキリがない。

 そんな中、イベントの中の議論ではなく、イベントそれ自体の形式における「自由な語り」について問い直した人が、今までいただろうか?

 社会全体として表現規制をすることには慎重でなくてはならない。分節化された小社会としてのコミュニティ──職場、家庭、学校、趣味の領域──においても、風通しのよさがあれば生きやすいことは確かだ。しかし、「対話志向」イベントのような特定の場において言葉の在り方を制限することについてまで、なんとなく「言葉狩りはいけないことです」という社会通念に基づいた場の設計を続けてきた結果はどうだろうか、ご覧の通りだ。ふわふわした「自由」への固執が、かえって閉塞感を固定化してしまったのではないか?

 誤解を恐れずに述べよう。おそらくだが、対話のためには時として「言葉狩り」が必要である。


5.そこのお前! 雑語りでバズろうとするな!

 筆者が既存のイベントの対案として試すべきだと考える在り方の一例はこうだ。

表現の自由騎士系は「表現規制」という語を、フェミ系は「性的消費」という言葉を使わずに論争を行う

 もちろんたとえば、「性的消費」と近いところに位置する言葉である「性的モノ化」「性的対象化」「性的まなざし」もその場においては一律禁止となる。「性的」という言葉それ自体ですら避けた方がいいかもしれない。

 フェミニストと呼ばれる人たちによる「この表現は性的である」という発話は、ほとんどの場合、たとえば乳房や露出した肌を、本質的に性的であると決めつけて述べている「のではない」。「この表現に使われているこのコードは、社会の中でこういう意味を付与されている」というニュアンスで、社会における身体に対する語りのコードのうち一筋を批判する文脈で取り出したにすぎない。その仕方があまりに雑すぎて、保守的な言動と見分けがつかなくなってしまっただけだ。しかし「この表現は性的である」という雑な表明を、その背景思想を理解しない人が読めば当然勘違いする。

 いや、大半の生身のフェミニストは、これは社会におけるコードへの言及ですよと分かる形でツイートをしているという反論は可能だ。にもかかわらず一部の雑な語りと不幸にも混同されて叩かれるとすれば、もしかすると、社会におけるコードという考え方ですら、論争の相手には言いたい意味がよく伝わらないのかもしれない。

 雑で魅力的な言葉はどんどん捨てていく勇気が必要である。筆者はできることなら、Twitter論壇の場にこそそうした意識を共有して欲しいのだが。


 ・リベラル/左派/左翼/革新

 ・ネトウヨ/右派/右翼/保守

 ・フェミニスト/自称フェミニスト/ツイフェミ/ラディフェミ/リベフェミ/ネオリブ/フェミニズム/リベラル・フェミニズム/ラディカル・フェミニズム

 ・表現の自由戦士/表現の自由/表現規制派/表現規制

 ・ポリコレ/ポリコレ棒/ポリティカル・コレクトネス/コンプラ

 ・不快/お気持ち/不謹慎/気持ち悪い/「えっちなのはいけないことです」/性嫌悪

 ・ゾーニング/公共領域

 ・ポルノ/児童ポルノ/エロ漫画/萌え絵/ヘイトスピーチ/マンスプレイニング

 ・暴力/危害/ハラスメント/セクハラ/モラハラ/パワハラ/フェミハラ

 ・性的/性的モノ化/性的対象化/性的消費/性的搾取/性的まなざし/猥褻/卑猥

 ・変態/ロリコン/ペドフィリア/セクシュアルマイノリティ/LGBT

 ・マイノリティ/マジョリティ

 ・オタク/インセル/KKO/キモカネ/キモくて金のないおっさん/弱者男性/非モテ/非モテ童貞/陰キャ/陽キャ/ヤリチン/ウェイ/パリピ/チンポ騎士団/負の性欲

 ・○○界隈/○○陣営/「性犯罪者はリベラル左派に多い」/「表現の自由戦士=ミソジニスト」/名誉男性

 ・ミサンドリー/ミソジニー

 ・フィクション/創作と現実の区別/アート

 ・論理的/冷静/感情的


 便宜上単語を中心にリストアップしたが、語りの形式という点ではもっと広く禁止したい。解像度が高く、かつ共通認識も構築しやすいような語りが生み出せるよう誘導するためだ。

 これらの語が対話に資すると思う人は使えばいいが、筆者は、これらの語を極力排除した場も必要だと考える。

 ただ、全部をいちどきに使わなくするというのはまだ難しいだろうし、その言葉の語られ方についてメタ的に説明したいとか、定義の定まった法律用語として言及するとか、そうしたことについてまで制限するのもかえって議論の妨げになるだろう。たとえば「いわゆる○○」「〜とされるもの」という形式でやっていけば済む場合も、中にはあるかもしれない。

 人によって定義の変わる曖昧な語を事前に禁止ワードとしてリストアップする他、いたちごっこにならないよう、解像度が近い代替語は様子を見て進行役がイベントの中で都度禁止する。

 また、そもそもどのような言葉が議論の妨げになっているのかということを別途掘り下げイベント時の禁止ワードを決定する機会もあった方がいいので、通常企画とプレ企画に分けたい。プレ企画は一回で終わる必要はなく、需要に応じて随時開催し、イベントルールの更新を行っていく。

 対話の場がリアルイベントである必要を現時点では感じないので、ひとまず入場料のないツイキャスのラジオ配信による企画を前提とする。Twitter論壇の延長線上的な映えを意識する雑な二項対立の「ガチバトル」的なものとは異なり、多角的アプローチと脱力を目指す、という意味を込めて、企画名は「ノンバズラジオ(仮)」とした。

 内省的な語りの形式を重視するので、対談だけでなくモノローグ的なコーナーもあっていい。どんなコーナーを設けるか、といったことも含めて、プレ企画内で議論する。

 流れの例としては以下のような形だろうか。ラジオ形式なのでコーナー転換時にジングルを置きたいが、なくてもいいかもしれない。


【プレ企画】#ノンバズプレ企画00

30分〜60分枠 話者一人〜二人

 オープニング

  趣旨説明

 企画1

「トークで留保するワードを決める」

 企画2

「表現の自由とフェミニズムを二項対立にしない対談企画コンセプト、表現の自由もフェミニズムも含まない対談企画タイトルを作る」

 エンディング

  次回告知


【通常企画】#ノンバズラジオ00

60分〜120分枠 話者一人〜四人

 オープニング

 趣旨説明

 企画1(対談)

 企画2(モノローグ)

 企画3(その他)

 エンディング

  次回告知(プレ企画、通常企画)


 通常企画、プレ企画ごとに企画番号を振り、実況や感想や考察をハッシュタグで管理する。Togetterでのまとめをリアルタイムで作るスタッフがいればなおよい。

 進行役を含む話者の人選も、プレ企画で視聴者とスタッフのコミュニケーションを中心に決める。イベントでは対立構図を強調せず、「表現の自由戦士代表」「フェミニスト代表」といったような形にもしない。

 場の運営に際しては、哲学対話や自助グループ、当事者研究といった実践を参考にし、パワーバランスが偏らないように調整したい。第一回のプレ企画は、一応はターン制だったが崩れてしまった「これフェミ」の反省会というテーマでもいいだろう。筆者は配信プラットフォームの機能には疎いのだが、誰かが話しているときは他の話者をミュートするというようなオペレーションの必要性も考えている。「これフェミ」の青識氏のように(何らかのリアルイベントを設定して「勇気ある登壇者を称賛する」形にすることの権力性そのものを脇に置くとしても、登壇者への拍手をするのは他の登壇者ではなく司会であるべきだった)、進行役の立場を奪っておいて「司会だってそちらの人選に任せたのに文句言うなよ」と言い出す人が出てきたら困るからだ。


 書きたいことはまだ山ほどあるが、あまり長いと読むのも大変なので、とりあえずは以上で締めたい。

 ノンバズラジオ(仮)は本日から、話者、スタッフの募集を開始する。こういう場合、言い出した者が手本を見せるべきだろうが、筆者は現在配信できる状況になく、少なくとも話者・進行役にはなれない。そちらも含めてご協力いただける方がいらっしゃればと思う。


[1]https://www.bellesalle.co.jp/event/case0868/

[2]https://news.yahoo.co.jp/feature/1509

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