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零戦に隠れた名機「隼」


第二次大戦時の日本の主力戦闘機が「零戦」であることは広く知られています。
しかし、戦時下において国民の多くは、それを「隼」だと認識していました。

今回はその隼の実力について、ご紹介したいと思います。

■隼の実力


「隼」は、有名な海軍の零戦とほとんど同じ馬力のエンジンを搭載していましたが、零戦に対して、隼はスピードはやや遅く、構造上、主翼内に武器を装備することができず、初期型は機首に7.7ミリ機銃が2丁だけという貧弱な火力でした。後期型から12.7ミリ機関砲に換装されましたが、太平洋戦争中盤以降は連合軍の高性能機の前に苦戦を強いられます。

しかし一方で、初期型の零戦では皆無だった防御設備について、「隼」には最初から、戦闘機の世界基準では当然と考えられていた、パイロットを守るための装甲板や防漏式の燃料タンクが備えられていました。
 
 前線からの報告では、これら装甲板や防漏式燃料タンクはかなり有効とされています。

アメリカ軍が戦中に撮影した戦果確認用ガン・カメラの画像によると、零戦は激しく炎上して落ちて行くケースが多いのに対し、シルエットが類似する疾風も含まれるかもしれませんが、「隼」は炎の尾を曳く程度で落ちて行くケースが散見されるとも伝えられています。
 


 のちにアメリカがロッキードP-38ライトニング、リパブリックP-47サンダーボルト、ノースアメリカンP-51マスタングといった大馬力、高速、大火力、重防御の戦闘機を投入してくると、「隼」は苦戦を強いられるようになりました。

しかし連合軍が“Oscar”のコードネームで呼んだ「隼」は、熟練パイロットが操縦桿を握るとしばしばこれらの強敵を撃墜しており、戦闘機としての素質の高さを見せています。

逐次改良も施されており、ベテランのパイロットが操縦する本機なら、これらのアメリカ機とも十分に渡り合えました。
 
 事実、21機撃墜のエースのニール・カービィ大佐が操縦するP-47D型や、同じく38機撃墜でアメリカ全軍第2位のエースのトーマス・マクガイア少佐が操縦するP-38L型を撃墜し、両名を戦死させたのは、共にベテランが乗った「隼」でありました。
 
 このように日本陸軍の「隼」は、同時代の世界の軽戦闘機の中でも、ズバ抜けて優秀な機体だったことは間違いありません。

それではその優秀な機体「隼」の製作までの苦難から「隼」という愛称がつくまでの歴史をご紹介いたします。


■一式戦闘機の製作までの苦難


日本陸軍は1937年12月に制式採用された中島製の全金属製低翼単葉機、九七式戦闘機(中島キ27)は主脚に固定脚を採用した保守的な設計かドッグファイト向けの戦闘機で、採用当初は世界最強のドッグファイターと目されるほどでした。

登場当初の九七式戦闘機は速度・上昇力・旋回性に優れた優秀機でありましたが、この頃になるとヨーロッパでは、金属製単葉で引込脚を備える、ドイツのメッサーシュミットBf109、イギリスのスーパーマリン・スピットファイアといった戦闘機が主力となり、配備が急速に進めれられていました。

設計面で将来性が乏しい九七式戦闘機自体に限界を感じていた陸軍は、金属製単葉で密閉式コックピットと引込脚を備えた次期軽単座戦闘機キ43の開発を、再び中島飛行機に指示しました。

略して「軽戦」と称される軽単座戦闘機の名称からもわかるように、本機には高いドッグファイト性能が求められていました。

陸軍の要求は、次の通りとされています。

最大速度 - 500km/h、上昇力 - 高度5,000mまで5分以内、行動半径 - 800km以上、運動性 - 九七戦と同等以上、武装 - 固定機関銃2挺、引込脚を採用という過酷な内容でした。

というのも、当時の日本陸軍はノモンハンの戦いでの九七式戦闘機の活躍から軽戦を評価していたからです。
 
 とはいえ、日本陸軍も欧米式のヒット・アンド・アウェーで戦う戦闘機の将来性を軽視していたわけではないので、
そちらは重単座戦闘機と称して別に開発を進めていました。
 
 キ43の初飛行は1938年12月12日。テスト飛行の結果、九七式戦闘機と比較して最大速度が30km/hほど上回るものの、運動性が劣り、ドッグファイト性能は前作の九七式戦闘機のほうが上でした。

その後、翼面積の変更、エンジンの換装などいろいろな改修がおこなわれ、
昭和15年9月までに13機が完成しましたが、格闘戦至上主義の軍を納得させることは出来ませんでした。

 余談ですが一式戦闘機「隼」の空力部分については糸川英夫技師が設計を行いましたが、糸川技師は戦後、AVSA班を立ち上げ、日本のロケット開発の先駆者となりました。

小惑星 25143 には日本の探査機「ハヤブサ」により調査とサンプルリターンを行う予定であったために、JAXAの関係者が小惑星 25143の発見者であったアメリカの研究グループLINEARにお願いして「イトカワ」と命名してもらいました。小惑星探査機「イトカワ」に「ハヤブサ」と名付けたことについてJAXAは戦闘機(隼)と直接関連付けることについては否定していますが、命名の理由の一つではあるようです。


■「隼」という愛称がつくまで


キ43性能向上第二案の開発が続けられる間にも、日本とイギリス・アメリカの関係は悪化の一途を辿っていました。

参謀本部では南方侵攻作戦でシンガポール攻略には船団を援護する大航続力の戦闘機が必要と考えており、不合格のレッテルを貼られる寸前のキ43に、遠距離戦闘機として活路が見いだされたのです。

同年11月、『キ43遠戦仕様書』が中島に示され、翌1941年3月に改修機が飛行実験部実験隊戦闘班に引き渡され再度試験が進められました。

そして一式戦闘機は1941年5月に制式化されます。

制式化されたのが太平洋戦争の開戦直前だったため、1941年12月の太平洋戦争開戦直後は、わずか40機しか実戦部隊に配備されていませんでした。

しかし、南方作戦においてこれらの一式戦は空戦において喪失比で約4倍の数を、対戦闘機戦でも約3倍の数の連合軍機を確実撃墜し、陸軍が想定していた以上の華々しい戦果を挙げ、1942年3月には「隼」の愛称が与えられました。

■軍神と謳われた撃墜王「加藤建夫」


太平洋戦争時に最も活躍したのが、加藤建夫少佐率いる一式戦闘機の部隊が加藤隼戦闘隊です。

加藤建夫少佐の総撃墜機数は18機以上といわれ、戦闘機隊指揮官としての優れた資質から生前より「軍神」と称えられました。

この活躍は、「加藤隼戦闘隊」のタイトルで映画化されて大ヒットし、戦時中、陸軍戦闘機「隼」は、海軍の零式戦闘機よりも国民に知られた存在でした

また旧陸軍の戦闘機でもっとも優秀な機体は何か、と空中勤務者の操縦士や地上勤務者に尋ねると以外にも『一式戦』と答える人が多かったといいます。

それは信頼性・運動性能の高さからくるもので実際、ベテランパイロットほど評価は高かったと言われているくらいです。

陸軍のエースパイロットで戦後ジェットパイロットの職人と言われたは黒江康彦はこう語っています。

「軍用機とはいくら数値上の性能が良くてもダメ、実戦において絶対的な要件となるのは信頼性である。一式戦が旧式呼ばわりされながらも最後まで使われたのは信頼性があったからだ。それが軍用機である」


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