見出し画像

「服を着るということ」から考える。


洋服。

アパレル業界には、
流行という概念が常に存在している。


流行、トレンドという概念は、
消費を促すためにも生まれたものだと考える。

去年買った服が1年後には、
「時代遅れ」なものになってしまうのは、
流行、トレンドというものが存在しているからだ。


なぜその服を着ているのですか?

という問いに対して、
あなたはどう答えるのだろう。

モテたいから。

そのブランドが好きだから。

安くて可愛いから。

機能性に惹かれて、、、。

様々な答えがあることだろう。

そこに対してどうこう言うつもりはない。


その答えは人それぞれで、
多様であるべきだとも思う。


むしろ、
その服を選んでいる理由があることは、
すごく素敵なことだと、ぼくは感じる。


考える。



その服を選ぶ理由は、
誰のためのものなのか。

私。人間。

ようは、使用者のための理由
なのではないだろうか。


人間と洋服の間には、

着る、着られる、
使う、使われる、というような、
確実な主従関係が生まれている。


それはそうだ。

人間は偉いのだから。

主従関係というものは、
上司と部下の関係を想像すると
わかりやすい。


仕事を教える上司と、教えてもらう部下とでは、
「教えてあげている」上司が偉いのは当然だ。


洋服だって、人間が「作ってあげている」のだから、
人間のために着られるべきものであって、
当然のことだ。

人間は偉いのだ。


理性をもち、学ぶことを知り、
成長、進化し続ける人間は、


偉くて強いのだ。


だからモノや洋服は、
人間の為に存在するべきだし、
使われて当然なのだ。




果たして、本当にそうなのだろうか。

一度、立ち止まって考えたい。


「洋服を着る」ということは、
人間のためにあるべき行為なのか?

「私は偉いのだから、君は使われて当然だ。
私のいうことをきいていればいい。」


そう言われると、きっと多くの人が
嫌な思いをするはずだ。


人間には感情があるからこそ、
そんなことを明からさまに言う上司は少ない。


相手が嫌な思いをすることがわかっているから。


でも洋服やモノには感情がない。


と言うよりは、
感情を表現する手段がない。


いや、もしかしたら僕たち人間が
モノや洋服たちの感情を
救い上げることができていないだけ
なのかもしれない。


それをいいことに、
人間は、モノや洋服たちに対して
主従の関係が生まれることが
当然のことだと思い込んでいる。


「洋服を着る」と言う行為、
洋服というものの存在価値自体が、
流行やトレンドという概念に縛られている限り、

洋服を救うことはできない。

洋服の気持ちを理解することはできない。


そこに生まれた洋服たちには、
意思を持つ権利さえも与えられずに
生み出されたのだ。


そんな洋服たちに、意思を持つ権利を、
生まれてきた理由を、意味を与えたい。


与えたい。と言ってしまうと
なんだか偉そうに聞こえるが、


ぼくと洋服との間にフラットな、
平等な関係性を持ちたい。


対等でありたい。


ぼくのために存在する、
人間のために存在する洋服なのではなく、

互いが互いのために存在し合える関係。


そこには、着る着られるという関係ではなく、
着させてもらってる、というような。

ましてや洋服は、
今まで人間に散々「着られていた」のだから
ちょっと洋服優位な関係でも文句は言えない。


「着てやられてる」「着させてあげてる」


洋服たちはそのくらい強気に出ても、
バチは当たらないだろう。


両手をひろげて、


「さぁ、お前たち人間は俺という洋服を
どう着て見せるのだ!!!」


そのくらいのことを言ってもいいのでは
ないだろうか。

モノを大事にしなさい。

幼いころからよく言われてきた言葉だ。

モノを大事にする。


果たして、人間にとって都合のいいような
大事に仕方は、モノや洋服にとって
本当に嬉しいことなのだろうか。


モノにとって、本当に嬉しい、
大事にされ方ってどんな状況なのだろうか。

モノだって、私である。

洋服だって、私である。





#日記 #デザイン #インテリア #インテリアデザイン #商業 #建築 #ことば #karehadesignterminal



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?