世界の崩壊 「才能を発揮してはならない」 2
「本当に誰も傷つかないだろうか?」
止まった美奈子の時間の中に、もう一度問いかけが投げ込まれた。
いつもの彼女なら「もちろん、誰も傷つかないわよ」とすぐに返していた。
でも、今は違う。
相手の声はもはや自分の一部になっていた。
本当に誰も傷つかないだろうか?
私が引き下がることがいいことなのだろうか?
誰かが引き下がることがいいことなのだろうか?
勝ちもしない、負けもしない世界がいいのだろうか?
そもそも私は、どうして?
どうして、勝ちたくないんだった?
負けたひとが傷つくからよね。
そう、それは間違いない。
妹の、友達の、怒りと敵愾心に満ちた泣き顔が浮かぶ。
あの顔を見たくないのだ。
そう思った瞬間に、相手がまた言った。
「その顔を見ないですむ代わりに、別の顔も見られなくなると思うけど」
別の顔???
「あなたが才能を発揮した、その先に待っている人たちの喜ぶ顔」
あ!
とたんに、がしゃーんと何かが壊れたような気がした。
壊れたのは、狭い狭い自分の世界を囲っていた壁だ。
なんという、近視!
なんという、狭い近い世界!
時間軸のほんのちょっと先しか見ることができていなかった。
この世界に存在するごくわずかの人しか見ることができていなかった。
私が勝たないように自分を抑えることは、世界の損失なのだ。
私が誰かに勝たないで欲しいと願うことは、世界の損失につながることなのだ。
だから、私も他人も勝たないように生きることは、間違いなのだ。
でも、妹にわかってもらえるだろうか?
これからも勝ち続け、妹よりももっともっと先へ行こうとする私を彼女は許すだろうか?
喜んでくれる人がたとえもし、ものすっっごくたくさんいたとして・・・妹ひとりの気持を踏みにじる私は、ひととしてありなんだろうか。
勝手に傷ついてるのはあの子の方、なんて、言い捨てていいんだろうか?
一体、私たちは何を争っているのだ、そもそも?
世界の成長をとどめてまで、何を?
美奈子の思考はここまで一気に駆け抜け、そして止まった。
そうか。
存在・・・価値、か。
私たちは存在価値を争っているのだ。
「より優れている方が、より存在する価値がある」
そんな思い込みがあるのだ。
だから、みんなで横に並ぼうとしていたのか、私は。
全員に価値があることにしようと。
それなら、妹に「偽善者」だと言われたのも無理はない。
「わざと」負ける私はどこかで「勝って」いたのだ。
そして「全員一緒に並ぼう」と提案することで、自分自身が負けるリスクをヘッジしていたのだ。
嘘などではなく、美奈子は本当に、妹や友達が傷つくのを見るのは嫌だった。
でもそれなら、「勝たない」以外の、もっと別の道をとればよかったということに、美奈子は今、気づいた。
「傷つくのを見たくない」という本音をたてに、「負けて傷つきたくない」という気持ちを自分自身からも上手に隠して、私と言う人間は・・・
どこまで、自分の存在価値を低く見積もっていたのか!!!
でも、そう気づいても自分の存在価値をただちに無条件に認めることができない。
それを知っているから、美奈子の思考は行き止まりにぶつかって、止まってしまったのだ。
しばらく真っ白な空間に停止したままいた後、美奈子はとても素直に助けを求めた。
「困ったな。ねえ、私、どうしたらいいのかな」
「自分の存在価値を認める者、すべてを手放せばいい。自分の価値を上げてくれるとあなたが考えているもの、すべてを手放せばいい」
相手はなんでもないことのようにそう言った。
以前の美奈子なら「そんな簡単に言うけど」と色々と理由をつけて言い返したかもしれない。
でも、今は思考があまりはたらかないようだった。
「すべてを手放す」
美奈子はゆっくり復唱した。
スローモーション再生のように、自分自身の声が低くゆうっくり内側と外側に染み込むのを感じた。音は響かずに吸い込まれていく。
「怖いかな?」
相手の声には美奈子をすべて包み込むような大きさと、やわらかさと、ほどよい温もりがあった。
美奈子は正直に答えた。
「変ねぇ。怖くないみたい。いると思っていたものをすべて捨ててもなお、私はきっと、そこに存在している。その時に何が起きるのかを見てみたい」
「よかろう。ではいきなさい」
相手が指差した先に、ちょうど美奈子が通れるくらいの高さの光り輝くドアが浮かんでいた。
いい感じだ。こういう不思議な場面に現れるのは、光り輝くなにかなのだ。
それが「ドア」なのは新しい世界が開く象徴だろう。
行きなさい?
じゃなくて、生きなさい、かな。
美奈子は、自分が自分に手こずるだろうこともどこかで予感しながら、ドアに向かって歩き出した。
いま、通り抜ける。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?