第67回ケア塾茶山を終えて

 10月9日(月)に第67回ケア塾茶山が開かれました。今回の会場は普段使われている場所(茶山kpハザ)ではなく、旧立岩真也邸の立岩真也氏の居室で行われました。著作は宮沢賢治ではなく立岩真也著『人命の特別を言わず/言う』を取り上げました。故人の生活空間で故人の著作を読む、追悼の意を込めた特別な会となった。
 案内役の西川氏の語りは、立岩氏との思い出からはじまり、立岩氏の語り口、文体についての特徴から叙述のスタイルについての指摘、そして内容へと順を追って進められました。また本書のなかで社会学者の本に対する態度を哲学者と対比して述べられている箇所に言及されていました。

 〔本を読んで〕だいたい言いたいことはわかったと思ったし、少なくとも私は読んで楽しめはしなかった。だから以後読まなかった。しかし、いつの間にかその人たちのような筋になってしまう話をどう考えるかという問題がある。それを考えるための材料として読まねばならないことになる。文学者や哲学者はどうか知らないけれども、社会(科学者)はそのように、つまりいやいやながら、本を読まなければならない。そんなことが多い。

 立岩真也『人命の特別を言わず/言う』、筑摩書房、2022年、p. 30。

 哲学と社会学のスタンスの違いについての指摘であるとともに、著者の学者としての問いの向き合い方が表れています。この箇所を引用して語ることで西川氏の哲学というものについての把握も表れでることになり、印象深い場面となりました。
 
 生きて在るものに区別を設け、その区別にもとづいて生きる価値を一部のものに限定するような立場への誠実な応答を、むすびに本書から引用しておきます。

 なぜその存在を消し去らないか。その存在の「世界」が在るからだ、その世界が存在するその存在の「内部」があるからだ。このように答える。その中に外界への能動性はむろん含まれているのだが、それだけではない。その存在において、体外や体内のことが、感覚という語がふさわしいのかわからないが、感じられている。〔中略〕誰かを尊重するというのには、その誰か(なにか)に固有の世界があって、その活動が終わる時にはそこに生起している世界もまた閉じる、そのような存在であることが含意されているだろう。そのように言うことのできるその範囲がどれだけであるかは確定しないとしても、その存在を毀損してはならないというとき、そこで想定される存在は、すくなくとも今述べたような存在である。
 そしてこのように存在しているものはたくさんあって、その状態は多様であり、その中に基準を作り、その基準に照らして高等/普通/…等々の階層を設定することはできようが、その一部だけを取り出して、例えば理性を有する高等な存在だけを取り出してそれだけを特別に扱わねばならない理由は、まずは見当たらない。

立岩真也『人命の特別を言わず/言う』、筑摩書房、2022年、pp.151-152。

 立岩氏の世界はこれからも存在し続け、多くのものの契機になり続けるでしょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?