真・プロジェクトX⑨~狼煙~前編

 建設工事現場の一日は全員参加の朝礼で始まる。
 新宿西口の地下鉄工事の場合、まず全作業員が一堂に会しての全体朝礼があって、その後土木、建築、電気、設備それぞれが個別で朝礼を行う。
 12月1日。全体朝礼が始まる直前に、井村が司会役の土木部職員に近寄って何事かを耳打ちしていた。
 後方で見ていた高橋がその職員を手招きして何を言われたのかと問うた。
 「皆に挨拶する時間を取ってくれないか?という事でしたが」
 今までのノラリクラリな調子からは随分な変わり様だが、先日の会長就任をきっぱり断ってきた辺りを考えると、高橋には漠然とだが胸騒ぎに似た予感があった。
 「いいだろう、挨拶させてやれ!」
 職員は頷いて最前列に戻って行った。

 朝礼そのものは月が変わろうと、これまで現場の主力を形成していた土木部の業者の大半が抜けてしまおうとも、大きな違いは無く淡々と流れて行った。
 そして問題の“挨拶”が始まった。
 井村はマイクを受け取ると、土木部の職長会会長が現場を卒業した穴埋めとして、副会長である自分がここから先の現場をまとめる事になった事を簡潔に告げ、一呼吸置いた後大きな溜め息を吐いた。

 「この現場は“失敗が約束された現場”らしい」
 そして、残り12ヶ月間で消化しなくてはならない仕事量が20ヶ月分も残っている事。ならば帝都建設お得意の物量作戦で遅れを挽回しようにも資材置き場として使える余剰スペースは何処にも無い上に地上の小滝橋通りは年がら年中渋滞していて、坑内に資材を投入するに必要不可欠な移動式クレーンを常時据えて置く訳にもいかない。
 作業員を増員するにもスペースが限られているので下手をすれば身動きが取れなくなる。
 「状況から考えて、これをひっくり返すのは無理だ。
 これは我々現場に詰めている人間ばかりではなく、直接的なのか間接的なのかを問わずこの現場に関わっている全ての人々の総意だろうと思う。
 皆も聞いてるだろ?お散歩感覚で現場を覗きに来る帝都建設の重役、役員様達が『こんなの間に合う訳が無い!失敗現場だ!!』と、まぁデカい声で言ってくれてたのを。
 人が仕事してる真横であんなの言われた日には、そりゃあやる気も失せるってモンさ。
 ……けどモノは考えようだ。
 元請けのエラいさんが『間に合う訳が無い』と言ってるって事は、本当に間に合わなかったとしても誰も文句言いませんという“御墨付き”を得たと思えばいい。
 あれだけデカい声でハッキリと『間に合う訳が無い』と言い切ったんだ。案の定間に合わなかったとしても『お前ら何やってるんだ』と言えた義理は無ェよな!」

 高橋は肝が冷えた。
 現場と違い東京本社の始業時間は午前9時であり、重役・役員の大半は社用車が宛がわれそれに乗って出勤してくるからこんな暴言を聞かれる心配は無いとはいえ、公共交通機関を使って出勤する者の中に誰がこの坑内に入って来ないとも限らないのだ。
 だが、井村の言葉を遮る気にもなれなかった。働く作業員の真横で『間に合う訳が無い』とか『失敗現場だ』など大声で言われ、高橋とて苦々しい想いを抱えていたからである。

 「まぁ、そういう風に考えなれない、拗ねた負け犬根性の持ち主があの便所の落書きを描いたんだろうけどな。
 成功する見込みが無い現場だから愛着も無い!自分が誇りを賭けるべき場所でも無いからどうでもいい、だからそれを穢しても胸も痛まない!!
 ……土木の高橋所長からは“イタズラ書きした奴捜し出して連れて来い”って言われたんだが、俺はそんなクソ野郎のツラなんぞ見たくも無いから捜す気も無い!捜す価値も無い!!
 戦う前から負け戦決め込んでケツ捲ってるような根性無しに構ってるヒマは無い!って話だ」

 後方で見ている高橋から最前列でマイクを持つ井村までは結構な距離があるが、それでも彼の目の中に異様な光が宿っているのは確かに感じられた。
 “戦う前から負け戦”とはこの現場の作業員全般に漂う空気を端的に表した言葉であって、そうした空気に毒されたお調子者がイタズラ書きの犯人なのだろう。
 だとすれば、その空気を払わない限り目先の実行犯を一人二人捕まえたところで、後に続く模倣犯が、それこそ雨後の竹の子のように出現するだけかもしれない。

 井村は言葉を繋いだ。
 「みんなは結果とか一年後を気にする必要は無いんだ。一年後、下馬評通りに開通までに工事が終わらなかったら、その時は土木・建築・設備・電気の四人の所長が責任を問われるってだけの話。
 所長ってのは現場のトップだが、一番偉いって事は言い換えれば“一番の責任者”って事だ。
 そもそも何故現場に所長さんが存在してると思う?
 いざという時に真っ先に、そして最終的な責任を負って『詰め腹を切らされる』為に存在してるんだよ」
 井村は、これまでに見せた来なかった残忍な笑みを浮かべた。



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