真・プロジェクトX⑥~転機~

 9月の頃に井村は怪我をした。
 コンクリートに含有されている薬品によって両脚脹ら脛(はぎ)の皮膚が深く肉の方にまで達する程溶かされたのである。
 業界用語ではこの現象を「コンクリ(ート)に喰われた」というが、病院では「化学熱傷(化学薬品によるヤケド)」という病名が付いた。
 担当の女性医師からは即座に「入院一ヶ月」と宣告されたが、今は大変な現場に入っていて一ヶ月も抜けてはいられない事を説明し、毎日通院する事を条件に入院を免れてもいた。
 入院の代わりの日々の処置は苛烈を極める。
 傷口にへばり付いたコンクリートと薬品に汚染された皮膚をピンセットで剥いていくのだが、汚染された皮膚自体は“死んでいる”ので痛くもないが、ピンセットが傷口に触るので、
 「いッて~ッ!」
と思わず声が出る。
 すると「男のくせにいちいち煩いわね!ちょっとぐらいガマンしなさいよ!!」と叱責され、
 「こういうのはね、おっかなびっくりチマチマ剥いてちゃダメなのよ!勢いよく一気に剥きさらないと!!」
と言ってピンセットを操る医師の“他人事”を絵に描いたような勢いで、

 バリッ!

と音を立てるときが、結構な頻度である。
 「おいッ!今バリッていったぞ?!健康な皮まで捲ったンと違うんか!?」
 「ちょっと勢い余っただけよ!そのくらいの勢いでないと汚染皮膚の除去なんか出来ないの!!」
 「ちょっとって血ィ吹いとるやないか!」
 といったような罵り合いが毎回繰り広げられるのである種の名物となり、井村が診察室に入ると手の空いた病院スタッフがワラワラと集まるようになった。
 「二人、結婚すればいいのに」
 「嫌じゃ!あんなドS顔のくせに口のきき方からやる事まで全部、心技体三拍子揃ったドSなんて三日と保たんぞ!!」
 そして、とある看護師から何処の現場なのかを訊かれた時に、新宿駅の新しい地下鉄を造っていると答えると、看護師達が一斉に目を輝かせた。
 「あの地下鉄、いつ出来るんですか?私達、あれが出来ると助かるんです」
 井村が通っているのは会社の寮がある近くの大学病院の分院だったのだが、その病院スタッフの大半が新宿区にある本院と日替わりで掛け持ち勤務をしているのだそうで、あの地下鉄新線が開業すると通勤がかなり楽になるのだそうだ。

 建設工事の作業員にとって、例えば分譲マンションの購入者、商業施設であれば消費者といった所謂“エンドユーザー”の声を聞く機会というのは無いに等しい。
 
 地下鉄開通を心待ちにする人がいる

 その事実は、井村の心境を一変させるに十分な力を持っていた。

 しかし、同様に彼の心境を変えさせる事実がもう一つ、ネガティブな面で存在した。
 新宿駅地下の現場は西新宿の高層ビル群にある帝都建設東京本社から至近距離にある。
その為、本社に詰めている重役や役員が文字通り“お散歩感覚”で訪れては、作業中の人間の真横で、
 「今こんな有り様じゃ開通に間に合う訳が無い。失敗だよ、この現場は失敗!」
と声高に言い捨てているのだ。
 額に汗して作業している人間の横でそういう事を平気で声高に言うのも言語道断だが、その言葉通りこの現場が失敗すれば、社会的関心の高い一大公共事業だけに帝都建設の社会的信用は大きく傷つく事になる。
 そうなれば誰が一番困るのか?言うまでもなくその重役、役員達ではないか。それをさも他人事のように呼ばわるのはどういう了見なのか?!

 怒りは反発心を生む。反発心は時に人を歪ませる事もあるが、とてつもない力を生み出す事もあるのだ。


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