「分かりました…失礼致します」
　電話を切った土木部所長・高橋洋介は、その苦々しい表情を隠そうともしなかった。
　電話の相手は統括工事部長の東で、入社年次的には大先輩にあたる高橋に言葉遣いの上では立てているように見せて、言わんとする所は高圧的に「井村の邪魔だけはしてくれるな」というものであった。

　帝都建設には学閥政治が存在し、国立T大・私学のW大とK大OBのグループが順繰りに経営トップを輩出してきた経緯がある。
　高橋はT大卒で、東は同じT大グループの代表者である。
　帝都は東京、大阪にそれぞれ本社を構え、基本的には独立独歩で経営を行っているが唯一東が担う統括工事部長という役職だけは東京本社にのみ存在し、東京のみならず日本全国各地、それどころか海外支店に至るまで、およそ帝都建設の看板を掲げる全ての現場の最高責任者であり、最高権力者である事を示している。
　現状では役員ですら無いが、任期を満了すれば最低でも常務取締役就任が保証されているポストでもある。
　
　その東が“切り札”としてこの現場に投入した、と言われているのが星野工業の井村徹である。
　だが、彼が着任して2カ月。高橋はじっくりと観察し、時には部下や腹心の親方衆を使って様子見の挑発も試みてみたが、井村徹という親方は実に凡庸で茫洋とした男にしか思えなかった。
　確かに幾度かの挑発を柳に風と受け流し“捉え所がない”と言えばそれはある種不気味ではあるが、こちらが吹っ掛ける無理難題も「困りましたねぇ」と言わんばかりの苦笑いを浮かべるばかりで、それは“腹に一物”ともとれるし無為無策で本当に困り果てているとも解釈出来る。
　いずれにせよ東ほどの野心家がこの絶望的遅滞を引っ繰り返す為に送り込んだ“切り札”としてはキレも才気も無い、と断じざるを得ない。
　それでも東はこの期に及んで「井村のやる事に邪魔をするな」と念を押してきたのである。
　
　つい最近、建築部側の親方衆が作る組織『職長会』が正式に発足し想定通り井村が会長となった。
　だが、そうした肩書きが付いても彼の態度は変わらない。相変わらず感情の起伏が読み取れない曖昧な微笑みを浮かべこちらに対してくる。
　「凡庸で掴み所の無い男」
　それが高橋の井村評である。
　ところが、土木部にも建築部にも出入りしている旧知の業者数名に彼の事を訊ねると、
　「所長、それは良い人を得ましたな。現状を打破するにはうってつけ、と言うより彼をおいてそんな事が出来る人物は他にありませんよ。二、三の取扱い注意事項はありますけどね」
と絶賛し、高橋が祝福される程であった。
　気になる“取扱い注意事項”について訊ねると、
　「それは、彼の打ち出すやり方を邪魔しないで黙って見守る事。それに、絶対に彼を怒らせない事、ですよ。彼を怒らせた為に『いっそ殺された方がどれだけ楽か』という目にあわされた人間が何人も居ますからね」

　話を聞いても、高橋には得心がいかなかった。
　だが、この先、高橋はこの忠告が全くの嘘や誇張でない事を実感する事になる。