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VOICE for FUTABA−Vol.4 《アーティスト/経営者編》前編「復興への想い/復興支援活動で感じること」

2022年度の最後のトークセッションとなるvol.4。今回は福島各地で復興支援活動を続けるアーティストのキャンドル・ジュンさんと、家業のガソリンスタンドを双葉町で復活させた吉田知成さんに、復興への想いや現在の双葉町に感じていることをお聞きしました。

[参加メンバー]
・キャンドル・ジュン
アーティスト/フィールドデザイン/ディレクター。1994年、キャンドル制作を始める。
「灯す場所」にこだわりさまざまなフィールドで空間演出を行い、キャンドルデコレーションというジャンルを確立。2001年、原爆の残り火とされる「平和の火」を広島で灯してからは「Candle Odyssey」と称し、悲しみの地を巡る旅を続ける。2011年、東日本大震災を受けて「一般社団法人LOVE FOR NIPPON」を発足し支援活動を始める。月命日の11日には、毎月福島各地でキャンドルナイトを行い、3月11日には「SONG OF THE EARTH 311 FUKUSHIMA」を開催。

・吉田 知成(株式会社伊達屋 代表取締役)
双葉町出身。ガソリンスタンド「伊達屋」を営む父母のもとで生まれ育つ。大学進学で上京して20年間双葉町を離れるも、2017年に家業の「伊達屋」を双葉町で再開。現在は双葉町エリアの工事現場を回って燃料の供給を行っている。

・髙崎 丈(ファシリテーター/KIBITAKI代表)
双葉町出身。元「JOE’S MAN 2号・キッチンたかさき」のオーナーで、2022年に「髙崎のおかん」をオープン。日本酒のお燗を広める活動を展開中。株式会社タカサキ喜画を双葉町に設立、その中でKIBITAKI プロジェクトを立ち上げて双葉町の再出発におけるさまざまな活動を企画・プロデュースしている。

・官林 春奈(ファシリテーター)
双葉町出身。ポストプロダクション・地方テレビ局勤務の後、株式会社omegane(映像制作会社)代表取締役を経て現在はフリーランスの映像ディレククターとして活動中。千葉県在住。

・五木田 隼人/町井 智彦
UR都市機構 東北震災復興支援本部 福島復興支援部 地域再生課
原子力被災地での持続的なまちづくりに向けて、関係人口の拡大や誘導による地域再生に取り組む。町内外のさまざまな人が関われるコトづくりを目指し、多様な主体との協働・連携を進めている。

・島野 賢哉
株式会社サムライジンガ 代表取締役/プロデューサー
ブラジル、台湾における芸術文化を中心としたプロジェクトに携わる。クリエイティブサウンドスペース『ZIRIGUIDUM(ジリギドゥン)』創設者。髙崎とともにKIBITAKI プロジェクトに参画し、さまざまな事業推進に携わっている。

それぞれの復興への想いとは

髙崎 まずは簡単に、お二人に自己紹介と復興への想いをお聞きしてよろしいでしょうか?

キャンドル・ジュン 私は一般社団法人のLOVE FOR NIPPONを主催しています。2011年3月14日からいわき方面で炊き出しを始め、最初は東北3県で活動をしていたのですが、2013年からは福島県にエリアを絞って復興支援活動を行っています。また、月命日である11日は毎月、キャンドルナイトのイベントを続けています。

私は東日本大震災以前から、原爆の残り火である「平和の火」をいつか消したいという目標を持って活動を続けてきました。日本は唯一の被爆国でありながら、“核の平和利用”という名目のもとで原子力発電所を稼働させているのはおかしいと感じ、震災前は原発反対運動を行っていました。その反対運動の結果に対する反省が、2011年3月11日から現在にいたるまでの活動につながっています。

どういうことかと言いますと、私自身が当事者意識を欠いていたんじゃないかと思ったのです。これは、9.11のテロの現場などでも言っていることですが、誰しもが常に誰かのせいにしている。誰かのせいにして棚上げにしているから解決にいたらない。これが本当の問題なのだと感じています。私も原発に反対していましたが、本気で「原発がなくなればいい」と思って活動していたかというと、そうではなかったと反省しました。反対運動をしているメンバーのなかで競争優位性を保ちたいとか、そういう気持ちで活動をしていた部分があったと思います。

震災後に炊き出しをしているときに、「原発はお前たち東京者のための電気をつくっていたんだぞ」と地元の人に言われ、私は謝りました。謝ることで自分ごと化したい想いがありましたが、同時に謝ればすむ問題かというとそうではない。福島の人たちといつの日か「原発はいらない」ということを日本中、そして世界に伝えないことには、自分の謝罪は終わらないと考えているし、「平和の火」を消すことなんてとてもできない。だから、「核の平和利用はできない」ということを、責任を持って伝えるアクションを続けていこうと思いました。そうした想いが復興支援活動のベースになっています。

吉田 私は双葉町で株式会社伊達屋という会社をやっています。私は双葉町で生まれ育ちましたが、2011年の震災当時は東京で会社員をしていました。大学進学で上京してからずっと東京で生活していたなかで、あの震災が起きたわけです。

故郷が被災地となり、原発でも事故が起きてしまって。そんな様子を複雑な想いで見ながら、東京で生活を送っていました。そうしたなかで2014年ごろから双葉町で復興事業が始まり、燃料を販売していた父の会社にも依頼が来るようになりました。私の実家は震災前まで双葉町で伊達屋というガソリンスタンドを営んでいましたが、父や義兄がやっていたので私はまったく関与していなかったんですね。でも、高校の同級生からも誘いがあり、1年間熟考して、結局は私が実家の伊達屋を継ぎ、双葉町で営業を再開する決断をしました。そして再開の準備に入り、2017年6月にガソリンスタンドの営業を再開しました。

営業を再開してから5年半が経ちました。その間に双葉町の様子も変わりましたし、実家が近所の髙崎くんが壁画プロジェクトを進めていくのも間近で見てきました。私は当初、「壁に絵を描いてなんの意味があるのかな?」と疑問視していたのですが(笑)、今では双葉町を訪れた人たちがみんな、その壁画の前で写真を撮っています。被災地である双葉町にひとつ火が灯ったような感じがしていて、本当に良い企画だったと思っています。

私はまちづくり会社であるふたばプロジェクトの理事も務めていますし、双葉町のエリアを盛り上げていきたいという想いがあります。私は普段から双葉町にいるので、私にできることがあればみなさんにぜひ声をかけてもらいたいですね。

島野 吉田さんは現在、単身赴任中ですよね。完全に移住される予定などはあるのでしょうか?

吉田 家族が東京で暮らしていて、子どもが今小学3年生なんですね。月に2回しか私は東京に戻れないなかで、子どもが最近ようやく「なぜ自分の父はいつも家にいないのか」を理解してくれるようになりました。私が双葉町に完全に移住するとしても、子育てが終わってからかなと考えています。ただ、うちの子どもも双葉町にすごく興味を持っていますし、双葉町での仕事を手伝ってくれたりもしています。そういう点はすごく良かったですね。

キャンドル・ジュン 子どもに関連して言うと、私は被災地で育った子どもたちは特異性のある子どもに成長している気がします。親の大変さとか支援のありがたさを間近で見ていますし、一方で復興の不条理な部分とかもみている。被災地で育った子どもたちに「将来なにがしたいですか?」と聞くと、「人の役にたつ仕事がしたい」と答える子が多くいます。そういう点が他の地域とは異なりますよね。


キャンドル・ジュンさん主催のLOVE FOR NIPPONが、
2022年3月11日に双葉町の原子力災害伝承館で開催したキャンドルナイト。

復興支援活動で感じること

島野 お二人が復興支援活動で感じていることについてお話しいただけますか?

吉田 これは正直に話してしまっていいのか迷うのですが、本格的な復興は進んでいないと私は思っています。もちろん、きれいな役場ができたり、産業交流センターができたりしていますし、駅の西側にはどんどん新しい住宅も建っています。しかし、町全体として大きく変わったかと言われると非常に難しいですよね。町の大半のエリアでは震災時の瓦礫が残ったままです。当時のままの住宅もたくさんあります。きれいになって再生が進んでいるのは、本当に駅の周りの限られた部分だけです。

私は工事現場に燃料を提供する仕事をしており、瓦礫が残ったままの光景を目にする機会が多いので余計にそう感じるのかもしれませんが、まだ双葉町は震災時のままというのが私の率直な印象です。まずは瓦礫などをしっかり片付けないことには、新しい双葉町について考える段階にはないのかなと思います。

キャンドル・ジュン 双葉町の帰町宣言が一番遅かったので、最も復興が遅れている町というのは間違いないですよね。そして、宣言したとしても、まだ宣言しただけの状態です。しかし、逆説的に言えば、最も復興が遅れている双葉町だからこそできることがあるはずです。また、「双葉町は原発があったからお金があるんでしょ?」と思う人もいるのですが、原発の税収は全て大熊町に入っていました。それはすごくかわいそうな話ですが、だからこそ原発に対して反対の姿勢も取りやすい。双葉町は原発だけでなく津波の被害にもあいましたし、その被災状況も伝承館に行けばすぐわかります。そして、なぜか双葉町の町民だけが震災直後に県外に避難をさせられた。そうした多様なマイナス要素を持ち合わせているのは双葉町だけ。被爆した町として広島が圧倒的に認知されているのと同様に、双葉町は東日本大震災の悲惨さを伝える町として際立った存在になっていけると思います。

島野 官林さんはどのように感じていますか?以前、双葉町の町民の間でも被災に対する補償額に差があるという話をうかがったりもしているのですが、元町民としてジュンさんのお話を聞いていかがですか?

官林 確かに補償金の格差みたいなのがあって以前は元町民同士でもお互いに複雑な感情があったりしたのですが、現在はそうした感情が解消されたのではないかと思います。なので、10年経ったことで逆に想いをひとつにできる状況になったと感じています。

キャンドル・ジュン LOVE FOR NIPPONの活動に対しても賛同してくださる仲間がどんどん増えてきています。10年経って復興支援活動が風化するどころか、逆に活動が活性化してきているのかなと私も肌で感じていますね。

髙崎 ジュンさんがおっしゃっていたように、双葉町は復興が最も遅れた分だけ自由度が高く、可能性を秘めた町ですよね。だからこそ、若い子たちが活動しやすい町にしてあげることが大切だと思っていて、そのための環境づくりに力を入れていきたいと私は考えています。


後編に続く

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