こども

私の友人の考え方が素敵だったので紹介します。

彼は、例えば「優先席になぜ座らないの?」というような質問に対して、「もしこれが自分の子供から聞かれたら、どう答えればいいのだろう🤔」と考える人で、生活に根ざした率直な立場でものを見ている人なんだなぁ、とよく思います。

私はとても身勝手な人間です。我が身可愛さに他者を犠牲にすることが少なくありません。キャンプで誰かが処分しなきゃいけないゴミを誰が持って帰るか決めるときとか、できる限り目立たないように、息を潜めて存在感を殺しています。

けれど、彼はそこに対してとても自省的であり、「俺も確かによくそういうことやりがちだけど、でもこれが自分の子供が側にいたら、持って帰らない理由が言えなくなる」と、深く物事の社会的な側面を無視せずに考えて、できるだけ納得のいく答えを見つけ出そうとします。

一応言っておくと、彼には子供どころか恋人もいません。未だ架空の存在です。「こども」なら誰のこどもでもいいわけではなくて、「自分の子供」だからこそ、都合の悪いところを隠したり、学校で習うようなキレイゴトでその場を収めたりできない状況に、彼は自分自身を追い込んでいます。

はたから見たら、そりゃあ「そんなに複雑に考えなくても答えがあるじゃないか」と思うことは多々あります。しかし、私たちが建前と本音を使い分けることを学んでいく過程で、「どうして人はこんなに残酷で身勝手なのか」という厭世観を一度は抱えたことがあるのではないでしょうか。

もういい歳をした大人ですが、それでも「今は考えないでおく」ことと「それが正しいことだと思う」ことは明確に違います。彼は、そこを「今まで考えるのをやめてきたことに、改めて向き合ってみようとしている」のではないのでしょうか。私はその姿勢がとても好きです。

社会はたまに冷たい顔を見せます。辛くて寂しくても、我慢をしなければならない夜が数え切れないほどあります。少しでも弱音を吐けば、振り落とされてしまう間柄の人たちの中で、彼はきっと「自分の子供だったら」と接し方を考えてくれそうな気がします。

きっとこの先、その心根の優しさに付け込まれて、彼は少なからず傷つくことだと思います。どうしようもなく傷付いてしまう日が誰のもとにもやってくるから。けれど、そんなとき、彼からもらった優しさを、今度は彼に返していく人たちも少なくはないはず。

そうやって優しさのバトンが回っていくと、いいなと思いました。

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