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悪しきを払うて、救けたまえ、天理王命 (天理教「みかぐらうた」 第一節)

天理教の「みかぐら」を拝読して、感想など綴らせて頂こう、と思って始めたこのnoteでしたが、なぜか一節からではなく、四節の「よろづよ八首」から始めてしまいました。
なので、仕切り直して、一節の「悪しきを払うて・・」を読ませて頂きます。

「悪しきを払うて救けたまえ、天理王命。(悪いことを払って、助けて下さい。天理王命様)」

この言葉は、人間の側から自発的に発せられた言葉ではないのです。
神が、人間に、こう言って私に頼みなさいよ、と教えた言葉なのです。
教えたからには、神の方は、助ける気マンマンなのです。
この通りに唱えたら、神が働くのです。
すごい言葉ですね。

さっそく詳しくみていきましょう。

先ず、「悪しき」とは、何でしょうか?
人間が考える「悪しき」と言えば、老病死、貧困、人間関係、自然災害、戦争、環境破壊・・・、沢山のことが含まれます。

けれど、これは神が人間に教えた言葉です。
「悪しき」という言葉に、神が込めた意味は、人間のそれと同じものなのでしょうか?

たとえば、親が、子供に「ごめんなさい」と言って謝りなさい、と教える場面を考えてみましょう。
子供は、ただオウム返しに、「ごめんなさい」と言うだけかもしれません。
けれど、親は、心がこもっていない言葉であっても、「謝罪の意」を、子供がキチンと表明した、と受け取るのです。

神は全知全能です。
人間が、何に困り、何を助けてほしいのか、ご存知です。
その神が教えた言葉なのですから、人間が助けてほしい事と、神が助けたい事は、同じ事柄を指しているはずです。
病気を治してほしい人にとって、「悪しきを払う」が「病気を治す」ということであると言っていいのだと思います。

ただ、「意味の深さが違う」のです。

そもそも、様々な「悪しき」は、どこからやってきたのでしょうか?
この世界の物事は、全て神が動かしています。
ならば、「悪しき」は、神が、わざわざ作り出したものなのでしょうか?
それとも、神の不手際から生み出されてしまったものなのでしょうか?
もし、「悪しき」が神由来のものであるなら、神に頼んで、神に払ってもらうしかないのです。

けれど、「みかぐらうた」の第四節、「よろづよ八首」の結論は、「神は、人間の心の通りに物事を動かしている」でした。
つまり、「悪しき」とは、人間が心で生み出さなければ、この世に存在しないものなのです。

人間の心は自由です。神様は、どんな制限も設けていません。その自由の心で、常に心を生み出しています。ただ、人間も無自覚に、その場その場で、心を使っているので、どんな心を使ってきたか見当もつきません。その結果、自分でも思いもよらぬ「悪しき」が現れてくるのです。

ということは、「病気」になって困っているので、「神様、どうか病気を治して下さい」と願うのは、少し筋が違うことになります。
自分では、病気の原因を心でどんどん作り続けているのに、その心の通りに病気を見せている神様に、「どうか病気を治して下さい」と、願っているのですから。
アマゾンにどんどん注文を出しておいて、荷物がどんどん届いたら、「なんでこんなに荷物が届くのだ? 困ったぞ、神様、救けて下さい」と、願うことはしませんよね。自分が、注文を出すのを、やめればいいのです。

では、自分で無自覚に生み出している悪しき心を、自覚的に生み出さないようにするには、どうしたらいいのでしょうか?

その答えも、「みかぐらうた」第四節、「よろづよ八首」の結論に説かれています。
「神が、人間の心の通りに物事を動かすことを分かって、喜び勇む心になればいい」のです。
喜び勇む心になったら、もう「悪しき」を生み出すことはないのです。

では、なぜ神様は「自分の心の悪しきを払います」と、唱えるように教えなかったのでしょうか?
なぜ、神様は、神様の名前を呼んで、救けて下さいと、願う言葉を、人間に教えたのでしょうか?。

まず、第一に、物事は、神様だけが動かすことができて、人間には何一つ動かせないからです。
第二に、すでに人間が生み出し、まだ形に現していない「悪しき心」の注文が、神様の方には山積みに蓄えられているからです。

病気などの結果として現れてしまった「悪しき」と、まだ結果として現れる前の、神様がすでに受け取っている「悪しき」は、人間の心では、もうどうにもならないのです。

つまり、こういうことです。

私は、神様が、私の心の通りに物事を生み出すことが分かりました。これからは、いつでも喜び勇む心に切り替えて、もう無自覚に「悪しき」の原因を生み出すことをやめます。
ですから、今、すでに結果に現れている悪しきと、今まで私が生み出して神様に受け取られてしまっている「悪しき」を、どうか神様の力で払って下さい。

と願うのが、「筋が通った願い」なのです。

するとここで、「え? まだ現れていない悪しきが沢山あるの?」という疑問が湧きます。
これで、天理教が嫌われるのです。「因縁」の教えです。まだ現れていない悪しきを、自分が沢山抱えているという恐怖。天理教の話を聞かなければ、知らなかった恐怖です。
因縁が怖くて、天理教をやめられない、という人もいたはずです。
また、信者さんに献金させるために、脅し文句で使われることもあったかもしれません。(助けたいという善意で、献金させた、と言われるかもしれませんが。)

いずれにしろ、「まだ現れていない悪しきが、神様の方に沢山蓄えられているのだ」と、怖がる必要は全くないのです。

なぜならば・・・。

まだ現れていない悪しきが、神様の方に沢山蓄えられているのは、神様のせいだからです。
「みかぐらうた」第四節、「よろづよ八首」で、人間が神の胸の内を分からないのは、「今まで神の胸の内を説いて聞かせたことがないからだ」とハッキリ宣言しているのです。
神様は、人間をだまし討ちはしないのです。
神様の胸の内を分からない人間が、生み出している悪しきを、100%まるまる形に表したりしないのです。
神様は、人間の悪しき心を受け取ってしまったら、ほんの少しだけ結果を現して見せて、心を改めてくれることを願うのです。

神様の胸の内を分かって、「悪しきを払うて救けたまえ、天理王命」と唱えたら、神様が人間から受け取って抱えている悪しき、神様は現れる前に払ってくださるのです。
もちろん、既に、形に現れている悪しきも払って下さるのです。
神様が受け取ってしまっていて、まだ形に現れていない、いわば無形の悪しきと、形に現れてしまった有形の悪しきは、神様が自由自在に動かすことが出来るのです。
ただ、人間の心だけは、人間だけが自由に動かすことが出来るので、神様にはどうしようもないのです。

つまり、すでに現れた運命と、これから現れる予定の運命は、神様の側にあるので、神様が自由に動かすことが出来るのです。けれど、人間の運命を決定している人間の心は、神様が自由に動かせないから、人間が自分で改めなければならないのです。そして、人間が、神様の胸の内を分かって、これまでの悪しきを払って下さいと願ったら、神様はすぐに悪しきを払って下さるのです。

さて、天理教は、ある時期、燎原に火を放ったごとくに、全国に広がりました。それは、神様の名前を唱えれば、病気が払われたり、問題が解決したりして、本当に助かったからです。なので、全国にある百箇所以上ある大教会は、だいたい同じような歴史と規模を有しているのです。
ところが、最近は、天理教の勢いは下るばかりです。どこの宗教も似たような状況のようですが、それは、長く続く経済不況のせいでしょうか? 宗教団体が起こした大事件のせいで宗教離れが進んだからでしょうか?
さまざま理由はあると思いますが、一言で言えば、人が助からなくなったからです。
神様の名前を呼んでも、神様が助けて下さらなくなったからです。

なぜでしょうか?

人間はまだ、神様の胸の内をちゃんと分かっていないからです。燎原に火を放ったごとくに、天理教が広まっていった時は、本当に、何も分からないで、神様の名前を唱えるだけでも、人が助かったのです。
それはちょうど、親が子供に、「ごめんなさい、と言いなさい」と教えて、子供の方は、ただオウム返しに、「ごめんなさい」というだけでも、親は子供を許してしまうのに似ています。
今まで何も知らなかった子供が、「お父さんお母さん助けて」と頼ってくれるだけで、親は嬉しいのです。
けれど、いつまでもそれでいいのでしょうか?

いつでも喜び勇んで、その心通りに、何事も自由自在の守護を神様から頂いて、人の手本になるような人間が、天理教の中から現れてきたでしょうか?
当時の勢いのあるときに、心を改めることが出来たら、そして、その喜び勇んだ心の通りの結果を、神様から頂いて、同じような幸せな人が、どんどん天理教の中から生まれて来たら、天理教の勢いは、とどまるところを知らなかったはずです。
ところが、病気や問題が解決することだけを目的としたり、教団が大きくなることで、自分たちの幼さに気づくことがなければ、どうでしょうか?

神様は、頼ってもらえたら、嬉しいから一時は助けて下さるでしょう。けれど、相変わらず、悪しきの原因を、どんどん生み出し続ける子供に、二度目、三度目のお慈悲は、ないのです。

なぜなら、本来、悪しきは、自分の心で、どうにでも出来るのです。自分が、原因を生み出さなければ、新たな悪しきは製造されないのです。あとは、今まで生み出した悪しきが、種切れになれば、喜びだけが残るのです。
それは、全部、人間の心一つだけで、出来ることなのです。

けれど、それを分かろうとせずに、神様に、助けて下さい、助けて下さい、と繰り返すのは、あまりにも幼いとしか言えません。
その良い例が、「お金を献金すれば、助かる」などと教えることです。
全く、悪しきの心を改めることなく、良い結果だけがほしい、という考え方です。
「教祖のようにはとてもできません・・・」と言うのも同じことです。謙虚なように聞こえますが、心を改めずに、結果だけが欲しいと、言っているのと同じです。
不相応なものを欲しがるのが、欲という悪しきです。、
きちんと喜びの心を自分が生み出せば、欲しがらなくても結果を頂けるのです。
それなのに、原因を作らずに、結果だけ欲しがるのは、欲の心なのです。

なぜ、こんなに明らかな神様の胸の内が、伝承されなかったのでしょう?
それは、あまりにも鮮やかに人が助かり過ぎたからなのです。
当時、もう神様の力は、疑う余地がなかったのです。
だから、みな、天理教に走ったのですが、形に目を奪われ、誰も心を改めなかったのです。

ゆえに、今の天理教の勢いのない姿は、必然の結果なのです。

この世界で、最も力のある教えを有していながら、宝の持ち腐れをしているのです。

別に、教団など無くても、もともと人間は神様の世界に所属しているのです。
誰もが、もっとも安全で安心な頼れるところに所属しているのです。それが、この世界です。
教団など無くても構わないのだという大きな心になれたら、天理教教団も再生するかもしれません。
私は、教団の人間ではないので、暖かく見守るだけですが。

では、神様は、こうなることを予想できなかったのでしょうか?
きっと神様は見抜いておられたことでしょう。けれど、こうして天理教が大きくなったおかげで、私など教団外の人間が、書物で簡単に、神様の胸の内を知ることができるようになったのです。
神様が、胸の内を分からせて、世界中の人間を助けるという、神様の仕事は、着々と進んでいると言えるのです。

話が横道にそれました。

神様の胸の内を分かって、喜び勇む心になって、「悪しきを払うて救けたまえ、天理王命」と唱えたら、どうなるのでしょうか?

はじめは、困っていた問題が解決したりして、神様の言っていることが本当だということを、神様は知らせて下さるでしょう。
けれど、だんだんと、チョコチョコと問題を、見せて下さるようになるのです。

それは、「悪しきを払って下さい」と、自分が神様に願ったからです。
だから、神様は、本当に、悪しきが払われるように、力を貸して下さるのです。
自分が、二度と悪しきを生み出さない心になれるように、鍛えて下さるのです。

どんな運命が現れても、「自分の心が生み出した悪しきが今現れて、掃除されているのだ」と心を治めて喜び勇んでいたら、何事も自然に治まっていくのです。
本当に、そういう人間になれるように、神様も力を添えて鍛えて下さるのです。

いや、もう分かったのだから、いいでしょ?、と思うかもしれません。

けれど、人間の心というのは、ちょっとやそっとでは、分からないのです。
神様が、「よし、もう大丈夫だ」と言うところまで、心を磨かなければ、いつ悪しき心に戻ってしまうか分からないのです。
それが、私という人間の偽らざる姿なのです。

神様の胸の内を分かって、自分自身の喜び勇む心を磨き上げようという目的が、大切なのです。
そうでなければ、神様が私を認めて、「よし、心を鍛えてやろう」と働きはじめた途端に、「なんだか、いろいろ面倒なことが見えてきた。やっぱり神様も頼りないなあ」と思ってしまうことでしょう。
となると、神様の胸の内が分かったなどとは、言えないのです。

自分で自分の心を評価出来ません。
やはり、神様の目を頼るしかないのです。
神様が、もっと鍛えた方がいいとお思いなら、喜んで鍛えてもらえばいいのです。
病気などの悪しきは、もはや自分を滅ぼすために現れているのではないのです。
悪しきが現れるのは、神様に十分守られた中で、自分自身を掃除するため、心を磨くためだけに現れているのです。

そうして、盤石な心が出来上がったら、それが、世界を助ける元の原因となるのです。

神様のつとめ、神様の仕事は、人間を作り、世界を作り、人間が楽しく暮らせるようにすることです。
けれど、神様は、形を、自由自在に作ったり動かしたり出来ますが、人間の心だけはどうにも出来ません。
神様の仕事は、神様だけでは完成しないのです。

天理教のおつとめのことを、神様は「天理王のつとめ」と名付けています。
それは、人間が「なむてんりおうのみこと」と、神の名前を唱え、神を呼び出すからだ、とも考えられます。
確かに神様の名前は、「てんりおうのみこと」ですし、人間や世界を創造する神様のつとめに、人間は関わって来なかったのですから、天理王命という神は、人間とは別の存在だと考えていいわけです。
だから、神名を唱え、神を呼び出し、神を頼ることを、「天理王のつとめ」と、理解していいのだと思います。

けれど、神だけでは、神のつとめは完成しないのです。
形を創造する神と、心を生み出す人間が、揃って、つとめをするから、「天理王のつとめ」が動き始めるのです。

もともと天理王命とは、1人の神様ではないのです。元の神である月様と日様、そして八柱の道具主、合わせて十柱の神様を総称して「天理王命」と言うのです。

すでに、人間創造と世界創造を成し遂げた神様の今の仕事は、人間の心の通りに物事を動かすことです。
そして、神様の胸の内を分かって、喜び勇む心を常に生み出す人間が現れたら、人間の喜びの世界を創造する「天理王のつとめ」が、動き出すのです。

「天理王命」とは、一種の会社みたいなものです。
それぞれが、それぞれの役目をもって、天理王命の仕事をするのです。

月様や日様や道具主たちは天理王命の一員なのです。同様に、人間もまた天理王命の一員になれるのです。
神様の仕事ができる者は、もう神と同じです。
人間は、天理王のつとめをすることで、神の仲間入りをするのです。

すごい話ですね。

すると、「みかぐらうた」第4節、「よろづよ八首」の「このところ大和の地場の神館と言うていれども元知らぬ。この由来を詳しく聞いたことならば、どんな者でも恋しくなる」と歌われている意味が、とてもよく分かるのではないでしょうか?

世を救い、人を助ける神の仲間入りをすることが出来るとなれば、そんなつとめの場所が、恋しくならないわけがないのです。

しかも、神の仕事は、大和の地場だけでつとめるものではないのです。世界全体が、神のつとめの場所なのです。
人間が、喜び勇む心を生み出し、神がその心通りに物事を守護し、人間が楽しく暮らすなら、そういう人間がいる場所が、天理王のつとめの場所なのです。
人の数だけ神のつとめが存在するのです。

私達人間は、今、この場から、天理王のつとめに参加し、世界を助ける神の仲間入りをするのです。

世界を助けると言っても大げさな話ではないのです。例えば、奥さんが洗ったお皿を、旦那さんが拭いて棚にしまうと、奥さんは助かります。もちろん、奥さんがお皿を洗うことで旦那さんが助かることは言うまでもありません。この時、この場において、全知全能の神であっても、それ以上の助けは出来ないはずです。つまり、自分の目の前の人が、喜んだ時、人間はもう神そのものなのです。

今や、天理王のつとめの内容は、明らかにされ、世界中の誰もが、世を救い人を助ける天理王の仲間入りを出来る時代になったのです。

これが、「みかぐらうた」第一節、「悪しきを払うて助けたまえ、天理王命」という言葉の意味なのです。

つづく

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