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どういう結果になるのか確かめるために書く

どういう結果にしたいのかを予め考えて建設的に書く、という手法のほうが人気だろう。
ただし、それでは言葉という道具の使い方を限定してしまっていないだろうか。
道具が道具として最も力を発揮するのは、未開の地を探検するときではないだろうか。
ならば、私は今ここを探検中だとして、言葉は役に立っているだろうか。
それが「結果として」無駄な一文であろうと、文字を書き進められているという事実によって、最低限の有効性は確認できる。
言葉の有効性に、そもそも最低限や最高など、程度の差があるのだろうか...と、上の一文を書いて、この行を書く間に思ってしまった。
そうか。有効性を判断するには基準が必要。で、無駄な文でも書ければOKというコンテクストでは、アウトプットが少なくともナンセンスな文でなければ「言葉の有効性あり」と判断できるわけだ。
ナンセンスかそうでないか、つまり、0か1かの判断しかない。
したがって、1の側の集合に含まれる文たちに、有効性の序列を作る/作らないというのは、また別の判断となる。
こうして複数の判断基準を無自覚にも一緒くたにしてしまっていたことに「文章を書き進めることによって」気付くことができた。
これははじめに「このことを確認してみよう」と想定していたゴールではない。
よって、どういう結果になるか確かめるために書く、ということを達成できたようだ。

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