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居ることが自然にできる場所、バリ島

日本は好きだし、素晴らしい国だと思うけれど、時々日本を離れて別の空気を吸いたくなる時がある。

体がこの日本にない物を欲する感覚に近いかもしれない。インドネシアのバリ島には吸い寄せられるように何度も行っている。

バリでは何もしていない人が道端にたくさんいる

バリでは、道端で何もせずに座っている人々をよく見かける。

複数人集まれば談笑もしているが、一人で座っている人もいる。彼らはただ座っているだけで、何か特別なことをしているわけではない。

田んぼがあって道があって人がただ座っている。特に何もしていない人がそこに存在している。日本ではあまり見かけない風景で最初は不思議に思ったが、次第にその光景に心が落ち着きを感じるようになった。

バリでは店員も店頭でご飯食べたり、レジの横で赤ちゃんがスヤスヤ寝ていたりする

日本では、お店で従業員がごはんを食べていたり、レジの横で赤ちゃんが寝ていたりしない。バリでは、それらが当たり前の風景、店員としてその店に居る。

人々の営みとして、店があり、食事があり、子供がいて子供が道端で遊んでる。本来それらはつながっていて自然なものなのに、特に日本の都会はきっちり分かれている。

自然と「店頭で店員がごはんを食べてはいけない、職場に赤ちゃんを連れてきてはいけない」などの禁止事項が日本人の中に組み込まれていっていたのだ。

日本人に無意識に組み込まれたその禁止事項が不自然だと無意識に感じて、私の中で澱(おり)がたまってしまうのかもしれない。

バリではマナーが悪い人がいて困っても、また別のそこに居る誰かが助けてくれる

日本人は礼儀正しいと言われているかもしれないが、それは礼儀正しくマナーは間違えないように絶対に守らなければならないという呪いもあると思う。

人はいつも完璧ではいられないので、マナー違反をしてしまうこともあるが、バリでは「人はいつも完璧ではいられない」ところの許容範囲が広いと感じる。

実際こんなことがあった。バイクを道に停めていたところ、戻ってきたらその横にぴったりと車が停められていた。自力ではバイクを外に出せないので困ったなと思った瞬間すぐに、その道端で特に何もしていない知らないおじさんがバイクを救出してくれた。

マナーが悪い人がいて困ったとしてもまた別の誰かが助けてくれる。マナー違反がないか常に神経を張り詰めて生活するより、そこは人間だから完璧は無理、困った人がいたら助ける・助けられる流れのほうが自然だ。


「ただ居るだけ」を意識してやっていく

これらのことからも私がバリに時々行きたく理由が分かってきた。日本に居ると「ただ居るだけ」が難しい雰囲気がある。誰かに何かを言われるわけでなくても、自分の中で居心地の悪さを作り出してしまう。

本来なら「ただ居るだけ」は人々の営みの中で自然なこと。

「居るだけが難しいと感じたらバリに行く」のは難しいけれど、かわりに日常から少し離れ、自然や静寂の中に自分をおくと、ただ居るだけが少しだけしやすくなるかもしれない。


1日本当になにもしないバリの風習、静寂の日「ニュピ」についての記事を以前書いたのでこちらもどうぞ。


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