誰かを気遣ったら、今よりちょっといい日になる

本を読むとき、誰の目線に立って読みますか?

私は、主人公目線に立ってしまうことが多いです。特に今回の本は、主人公目線だったからこその感動でした。

「天使の柩 / 村山由佳」

「天使の卵」,「天使の梯子」,「ヘヴンリーブルー」の最後の一冊。
目線は、茉莉。

最後の一冊なので、もう一度「歩太」目線で語られるのかと思っていたが、全く新しい、歩太とは約15歳も離れた女の子の目線で語られるとは予想外だった。そしてもう一つ予想外だったのは、歩太が "恋" ではない形で前に進んだことだ。

茉莉は、特殊な家庭環境で年少期を過ごす。どことなく影のある佇まいに気づいた歩太は、始め"心配"という形で茉莉を見ていたのだろう。そこからだんだんと"心配"から、"守りたい存在"に変わっていったのではないだろうか。

茉莉がある時、春妃と同じような口調で「ありがとう」と言うシーンがある。それに対して歩太は

"息を呑み、口を半開きにしてあたし(茉莉)を凝視した。というより、あたしを透かして後ろの何かを凝視しているみたいだった"

と、春妃と茉莉を重ねて見たのだろう。また、最後のほうに

"もし、あのとき生まれていたら、今頃はきみの一つ下だった"

と言うシーンがある。歩太にとって茉莉は、2重の重なりを持って今度こそ守りぬきたい人となったのだろう。しかし、「代わり」として大切にしようと歩太が思ったわけではない。茉莉が歩太に生まれることのできなかった子供が居たことを知ったとき

"あたしはその子の代わり?とか、そんなのんきな感傷なんか入りこむ余地もないほどの事実の重み"

と感じている。歩太は、茉莉は茉莉として大切にしていたからこそ、茉莉はこう思ったのだろう。

この本は、歩太がやっと春妃ではない大切な人を見つけることができたことを喜ぶことができる。また視点が茉莉だからこそ、歩太が前に進もうとしていることを外から見ることができる。歩太目線だったら、読む人それぞれで感じ取り方が変わり、もっと負の感情も生々しく書かれることになり、重くなっただろう。
天使の卵から約10年間、歩太がどう過ごしたかはどこにも明らかにされてない。私たち読者が想像して楽しむことができるようにもなっているんだろう。

しかし、それだけではない。

茉莉は、歩太をはじめ夏姫や歩太の母親が自分に親切にしてくれることを「裏切られたことがないからそういうことができるんだ」と始めの頃は思っていた。しかし、本当はそうではないと気づく。
みんなそれぞれ知らないところで何かしら辛い過去を持っている。周りに本当に優しい人は、逆の体験をして、それを乗り越えたからこそ...本当の優しさを持つことができるのだと。そして、

"誰もが、誰かを気遣っている"

ことによって、1人では近くに居るほんの数人しか温めらることができなくても、それが連鎖することで大きな温かさになる。茉莉は、歩太を中心としたその心の温かさによって、辛い状況から助かることができたのだ。

難しいことは考えずに、自分のそばにいる人たちに気遣って、自分とほんのちょっと周りにいる人たちが笑顔になれるよう日々を過ごしたら...きっと、今よりちょっといい日が来る。

この記事が参加している募集

コンテンツ会議

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?