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恋の詩

天使の梯子 / 村山由佳

ストーリーの途中である一遍の詩が出てくる。
宮沢賢治の「春と修羅」の「告別」という詩。

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春と修羅 / 宮沢賢治

おまえのバスの三連音が
どんなぐあいに鳴っていたかを
おそらくおまえはわかっていまい

その純朴さ希みに充ちたたのしさは
ほとんどおれを草葉のようにふるわせた

もしもおまえがそれらの音の特性や
立派な無数の順列を
はっきり知って自由にいつでも使えるならば
おまえは辛くてそしてかヾやく天の仕事もするだろう

泰西(たいせい)著名の楽人たちが
幼齢弦(ようれいげん)や鍵器(けんき)をとって
すでに一家をなしたがように
おまえはそのころ
この国にある皮革の鼓器(こき)と
竹でつくった管とをとった

けれどもいまごろちょうどおまえの年ごろで
おまえの素質と力をもっているものは
町と村との一万人のなかになら
おそらく五人はあるだろう

それらのひとのどの人もまたどのひとも
五年のあいだにそれを大抵無くすのだ

生活のためにけずられたり
自分でそれをなくすのだ

すべての才や材というものは
ひとにとゞまるものでない

(ひとさえひとにとゞまらぬ)

云わなかったが、
おれは四月はもう学校に居ないのだ

恐らく暗くけわしいみちをあるくだろう

そのあとでおまえのいまのちからがにぶり
きれいな音の正しい調子とその明るさを失って
ふたたび回復できないならば
おれはおまえをもうもう見ない

なぜならおれは
すこしぐらいの仕事ができて
そいつに腰をかけてるような
そんな多数をいちばんいやにおもうのだ

もしもおまえが
よくきいてくれ
ひとりのやさしい娘をおもうようになるそのとき
おまえに無数の影と光りの像があらわれる

おまえはそれを音にするのだ

みんなが町で暮したり
一日あそんでいるときに
おまえはひとりであの石原の草を刈る

そのさびしさでおまえは音をつくるのだ
多くの侮辱や窮乏の
それらを噛んで歌うのだ

もし楽器がなかったら
いゝかおまえはおれの弟子なのだ
ちからのかぎり
そらいっぱいの
光りでできたパイプオルガンを弾くがいゝ

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天使の梯子は、「天使の卵」の続き。大切な人を10年前に亡くした夏姫と、教え子だった慎一の恋のお話。視線は慎一。

2人とも複雑な過去を持ち、読んでいると切なくて、途中で辛くてやめたくなってしまいそうだった。

そんな本編の中で、この詩は2人の思い出として出てくる。最初に出てきた時は「そういうことがあったんだ」くらいのエピソードになっているが、次に語られた時は、「慎一が夏姫さんに向けてまるで"告白"するかのように暗記して朗読した」という思い出が語られる。
そして、最後に
「もし楽器がなかったら
いゝかおまえはおれの弟子なのだ
ちからのかぎり
そらいっぱいの
光りでできたパイプオルガンを弾くがいゝ」

詩の中の"光りでできたパイプオルガン"と2人が見ている景色、満月の夜の雲間から射す光("天使の梯子"という現象)をリンクさせる場面になる。

全部で大きく3回のステップを踏んで出てくるこの詩は、本編の中では「なぜならおれは〜」から最後までしか出てこない。とても大事なシーンの導入部分に詩の途中が出てくるので、?から始まる。でもそれは、慎一も同じ印象を持つので、そこに読者をリンクさせたのだろう。
第2のステップで、慎一が"告白"のように朗読した詩が、最後に本のタイトルとリンクして出てくるので、私の中でこの詩は「恋の詩」だろうと思っていた。

でも、本当の詩は全く「恋」なんて関係なかった。
むしろ「どう生きていくか」「自分の持っている才や材をどうしていくのか」を説いている。
なぜ、夏姫はこの詩が好きなんだろう。
この本にだけフィーカスすると「恋」と「人の死」がキーワードになる。その中でこの詩が出てくるのは"違和感"だと私は思う。抜粋された部分だけならこの本に合っている。でも、この詩が出てくる意味はもっと他にもあるのではないか。

この後2冊続く中で、何か別の意味を持ってくるだろうか。

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