私たちのまち「小倉(こくら)」を考える #2
来園されたお客様から「おぐらじょうの入口はどこですか」とお尋ねいただくと、少し悔しい気持ちになります。「こくら」の知名度をもっと上げていく必要がありますね。頑張ります。
奈良時代までの小倉の地
前回は奈良時代までの小倉(こくら)についてお伝えしました。万葉集にある「企救の浦」が小倉の語源という説をご紹介しました。
私の不勉強で、奈良時代以前の資料等からは「小倉」という文字を見つけることはできませんでした。ぜひ、小倉の文字を発見されましたら、ぜひご教授ください。こちらの記事を加筆修正し、ご紹介いたします。
「小倉」の初出
私が北九州の歴史を確認するために、いつも参考にさせていただいているのが、こちらです。名著『北九州の歴史』(葦書房)です。米津先生の文章が好きです。
北九州市の小中学校であれば、少しくらいは授業で取り上げても良いのではないかと思う内容です。北九州に生まれたことを誇りに思う、そんな文章です。学校の先生方、ぜひ探求の時間にいかがでしょうか。
今回、私たちの街”小倉”を考えていくために、ご紹介するのは『北九州の歴史』第Ⅱ章「中世」からの資料になります。書き出しから面白くなっております。
全て紹介すると長くなりますので一部にしますが、ワクワクさせるスタートですよね。
この本で小倉という文字が初めて出てくるのが「北九州の荘園分布推定図(平安末期)」という図になります。
と、書かれています。宇佐の荘園として紹介されています。海沿いというよりは、内陸のようにも見えます。
700年代から1000年代までのどこかで小倉という名前が付けられたと考えるのが自然でしょうか。
源平の戦い、蒙古襲来、尊氏上洛
北九州は歴史の舞台として重要な位置を占めています。海に囲まれた日本において海運が重要な観点であり、波の穏やかな瀬戸内海が大きな役割を果たしてきました。その外海と内海の結節点が、関門海峡です。いわば、日本と大陸のクロスロードです。
北九州は、大陸からの文化が最も早く流入する地域のひとつでもあり、人と文化が交差する場所であったとも言えます。
日本を統治するという観点から見ても、関門海峡の覇権を握った勢力が日本を制すると言っても良いのではないでしょうか。源平の戦い、蒙古襲来、尊氏の上洛など、日本における重要な戦いがこのエリアでも多く行われているのは、皆様もご存知のことでしょう。まさに「血に彩られている」北九州です。
為政者が変わり続けるということは、文化も変わり続けるということ。そのようにして変化を続ける価値観に対応し続けなければならなかったことが、小倉らしさだと言えるのではないでしょうか。
世界の中の小倉
中央の勢力が九州を統治するという観点に伴い、小倉が発展を遂げていきます。北九州の歴史にもこのように書かれています。
また、世界の中で「小倉」という都市が認知されたことを表す資料が、小倉城の近くにあるゼンリンミュージアムさんに展示されています。イグナチオ・モレイラという人が1590年頃に来日し、その後描いた地図に「COSURA」という文字が見えます。
小倉という街が重要な拠点になり始めています。戦国時代には多くの勢力が奪い合う、激動の小倉となります。(#3に続く)
追伸:ゼンリンミュージアムも必見
前述のイグナチオ・モレイラの地図画像は、ゼンリンミュージアムさんで見ることができます。以下のサイトでも閲覧できますので、ぜひご覧ください。
ゼンリンミュージアムホームページ~常設展「ここにしかない日本」~世界の中の日本
ゼンリンミュージアムさんの展示は、とても面白いです。北九州を代表する企業のひとつでもあるゼンリンさんの博物館です。小倉城に来られた際にはぜひ合わせて寄られてください。ゼンリンミュージアムさんの中にあるカフェから見る小倉の港も綺麗ですよ。
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