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【ニンジャスレイヤー二次創作】ノー・プレイス・フィールス・ライク・ホーム

ニンジャスレイヤーの二次創作です。
オリジナル・ニンジャが出ます。



1


 トコロザワ・ディストリクト。その外れにはほとんど等間隔を保って邸宅が並んでいる。それらの意匠は城めいており、ネオンやホログラムもなく、奥ゆかしい漆喰にて飾られていた。

 まるで城《パレス》……。まさしく、そこはヤクザ・パレスであった。タイガーウィンド・ヤクザクラン。新進気鋭の、新興ヤクザクランである。否、で、あった。

「イヤーッ!」「アバーッ!」深夜の邸宅街に断末魔の絶叫が響き渡る。聡明なる読者の皆様は察していることであろう。然り。タイガーウィンド・ヤクザパレス邸内では、今まさに、血生臭い祭りが行われているのだ。

 BLAM! BLAMBLAM! 警戒色めいた黄と黒で彩られていたオヤブン・ルームは、今やドス黒い赤で染まっていた。応接スペースのローデスクには、辛うじて血飛沫を逃れた書類がある。それはまさしく、立ち退き勧告の書類であった。

 ナムアミダブツ! 血も涙もないヤクザクランに対し立ち退き勧告とは! となれば、この血飛沫はメッセンジャーのものであろうか? それにしては量が多い。あまりにも多い。まるで成人男性数人が失血死したかのような惨状である。

「ハァーッ! ハァーッ!」オヤブン・ルームの奥では、二つの影が対峙している。一方は、タイガーめいた薄黄色のストライプ装束を纏ったニンジャでありヤクザクランのオヤブン、タイガーウィンドその人である。

 そして、その眼前に立つのは。「……ナメたマネしやがって。改めて、アイサツだ、クソッタレ……」曇天めいた色合いのニンジャ装束。両脚と左腕は有機的な曲線を持つサイバネ。そして鼻から上を覆い、目元に縦スリットの入った異様なメンポ。

「ドーモ、ソウカイヤのアイロニーです」ニンジャは名乗り、カラテを構えた。ソウカイヤ。それはネオサイタマにおけるヤクザ組織の総元締めと言っても過言ではない。タイガーウィンド・ヤクザクランのオヤブンであるタイガーウィンドは、愚かにもオヤブンたるソウカイヤへファックサインを突きつけた形である!

 タイガーウィンドは血走った目でアイロニーを睨みつけたまま、喘ぐように糾弾した。「ナメてんのはテメェらだろうがよ、ソウカイヤ=サン。上納金は支払い済みだ。カネ払って出てけってか、エエッ!?」「立ち退き料じゃァ足りねぇかよ」

「メンツだ……ソンケイの問題だッてンだ!」「なら戦争するかい」アイロニーは両手を広げる。皮肉めいて笑いながら。「気張れよ、今のアンタにソンケイはねェぞ」「イ……」「……」ミシリ、と空気が軋んだ。タイガーウィンドは両手指を鉤爪のように曲げる! 「イヤーッ!」

 極度集中によるスローモーションめいた視界の中、タイガーウィンドの振り抜いた鉤手が真空を生み、空気の刃を作り出した。これはカゼ・ニンジャクランのカラテ、ソニック・カラテである! カミソリめいた危険な真空刃がアイロニーへ迫る! 「イヤーッ!」アイロニーは、左腕サイバネを盾に突き進む!

「バカな!」「イヤーッ!」「グワーッ!」蛇めいてしなやかなサイバネレッグから繰り出されるケリ・キックがタイガーウィンドを吹き飛ばし、壁へと叩きつけた。アイロニーが盾にした左腕のサイバネは火花を散らしていた。さらに体表には無惨な切り傷が刻まれ、血飛沫をあげている。彼はそれを己の筋肉で強引に止血した。

 タイガーウィンドは震えながら身を起こした。眼前にはアイロニー。ツカツカと歩き、左腕の内蔵ギミックから飛び出したカタナの柄を掴んでいる。「ア?」そして彼はそのまま固まった。タイガーウィンドはそれを見逃さなかった。「イヤーッ!」ブレイクダンスめいた回転で隙を殺し、タイガーウィンドは跳び上がった。背後の壁、天井を蹴り、タイガーめいたトライアングル・リープで空中から鉤手を繰り出す。

 無論、そのカラテは全てがソニック・カラテ。真空の刃がマシンガンめいて放たれるのだ! 「イヤーッ!」「イヤーッ!」アイロニーは壊れたギミックからの抜刀を瞬時に諦め、クロームの左腕と両脚を用いてそれらの刃を捌く。だが着実にダメージは蓄積していた。サイバネ義手の表面に、亀裂! 「勝機! ソウカイヤ恐るるに足らず!」タイガーウィンドは着地と共にバク宙で距離を取り、空中にてヒサツ・ワザ充填のカラテ演舞をーー

「イヤーッ!」「アバーッ!?」その胴体に何かが突き刺さった。何か? アイロニーのサイバネレッグである。足首と膝関節が柔軟に駆動し、タイガーウィンドはそのまま床へと叩きつけられる! 「グワーッ!」「上等だコラ……ナメやがって……遊びじゃねンだぞ……」アイロニーは独り言めいて呟く。

 タイガーウィンドは踠くが、サイバネレッグは重機のようにビクともしない。彼の目の前で、アイロニーは両拳を腰に添えた。ニンジャ第六感が警鐘を鳴らす。何かが……何かがまずい! 「ヒッ……イ、イヤーッ!」タイガーウィンドのソニック・チョップが、アイロニーの首目掛けて飛ぶ。

 それが命中する、直前! 「サップーケイ!」謎めいた邪悪なシャウトと共にアイロニーが両腕を振り上げ、タイガーウィンドの意識は真っ白に染まった。

   ……00101100101……

 タイガーウィンドは、視界が戻ると同時にブレイクダンスめいたウィンドミル回転蹴りで隙を殺し、転がるように立ち上がった。そして悲鳴をあげた。「アイエッ!?」彼の眼前には死体があった。それも、カタナによって壁へ磔にされたヤクザの死体である。コワイ! 「怖いか」

 酒焼けしたような嗄れ声は背後からであった。タイガーウィンドは隙を生まぬようカラテ演舞を交えて振り返る。立っているのは、アイロニー。そして彼の背にする壁にはまたしても磔死体! 「アイエエッ!?」「ヤクザの癖に肝の小せぇ野郎だ」アイロニーはゆっくりと両腕をあげ、粗野なカラテを構えた。

 タイガーウィンドの眼球は忙しなく動く。タタミ六畳ほどの小部屋。背中には壁。左右には扉と大窓。典型的なマケグミ・アパートの一室である。窓の外はホワイトノイズめいた豪雨だ。だが、いつの間に? タイガーウィンドは目を凝らす。床にも死体があった。墨汁めいて滲んだカタナで、胸を貫かれた女子高生。

 じり、と足を動かしつつ、タイガーウィンドは高速思考した。(つまりここは奴の作り上げたゲン・ジツか何かであり、精神的な揺さぶりをかけることが目的と見た。それで全ての説明はつく。そうとわかれば……!)タイガーウィンドは虎めいた前傾姿勢を取り、跳んだ! 「イヤーッ!」

 ソニック鉤手! 実際危険なカミソリめいた真空刃が眼前のアイロニーを……真空刃……? 「バカな!?」真空刃が出ない! 空中で大きな隙を晒したタイガーウィンドへ、大きく振りかぶられたアイロニーの拳が、直撃する! 「イヤーッ!」「グワーッ!」タイガーウィンドは背後の壁へ叩きつけられる!

「バカな……ゴホッ! ワ、ワシの刃が……」「そういうのは使えねェんだ、ここは」アイロニーは無造作に両手を広げ、皮肉めいて口元を歪めた。「カラテしようや」「ヌウゥッ!」タイガーウィンドは跳ね飛び、部屋の天井を蹴ったトライアングル・リープで視覚外から回し蹴りを打ち込む! アイロニーはその軌道を……見ている! 「「イヤーッ!」」

 タイガーウィンドとアイロニーの回し蹴りが衝突し、カラテ衝撃波がビリビリと室内を揺らした。カタカタカタ! 磔死体の顎が動き、笑うように音を立てる。タイガーウィンドは素早く着地し、身を沈め、アイロニーの左側へ滑るように動いた。狙いは左腕の破壊だ! 「イヤーッ!」連続鉤手! 「イヤーッ!」アイロニーは精緻な義手捌きでガード!

 だがその有機的な曲線を持つクローム腕には、亀裂が入っているのだ。「イタダキィーッ! イヤーッ!」タイガーウィンドはライフル弾のように螺旋を描く掌底を、その亀裂へと叩き込んだ! KRAASH! サイバネ腕は無惨に砕け散る! タイガーウィンドは砕け散った左腕の先にあるものを見た。勝機? 否。……それは赤熱する、カタナの刀身であった。「……ア?」「イヤーッ!」「アバーッ!?」

 焼け付くような痛みと共にタイガーウィンドは突き飛ばされ、壁へと叩きつけられた。「ゴボーッ!」吐血。彼は胸を見下ろす。そこからは先ほど見たカタナ……ヒートカタナが生えている。「……助かったぜ、抜けなくて困ってたんだ」ツカツカと歩み寄る影。アイロニー。タイガーウィンドは呻き、両手を強張らせてアイロニーの眼球を狙う。それは容易く躱される。

「ア、アバ……ッ!」「安心しろちゃんとカイシャクしてやる。ハイクは詠むか?」「ザ、ザッケンナコ」「そうか。じゃあな」アイロニーは処刑人めいて無慈悲にカタナを捻った。「サヨナラ!」タイガーウィンドは爆発四散した。そのソウルが、意識が散りゆくと同時に、マケグミ・アパートの景色も薄れていく。

   ……110010010……

 アイロニーはゆっくりと振り返る。そこには祟りめいて真紅に染まり、文字の判読が不可能となった立ち退き書がある。彼はそれへ歩み寄り、ヒートカタナを突き立てた。瞬く間に血液が渇き、火が灯る。彼はそれを暗い瞳で見つめていた。十回に一回あるかないかの、ニンジャ案件のクエスト。性急なジアゲ。そして実際、ソウカイヤはその仲介をしているに過ぎない。

 だがそんな物思いは、銅鑼めいたダミ声によって破られた。「オイ! こっちは終わって……なんだまたブラッドバスかよ! また左腕ねェし!」「うるせェ」ダスターコートに飾り紐付き二丁拳銃の偉丈夫、ロックダウンという名の同僚である。大男は春風めいて朗らかに(凶悪な顔で)笑いながら、アイロニーの肩へ手を回した。「そんなにジジイが恋しいのか? 仕事のたびに壊しやがって」「脆いのがいけねェ」

 二人は炭と化した立ち退き書類を背に、ヤクザパレスの廊下を歩く。毛足の長い絨毯の上、至る所に体の一部が吹き飛んだ死体が転がっている。「報告は任せるぞ」「前も俺だっただろうが。口さえ動きゃ言い訳は出来るだろ」「鞘がねえ。……まだ上等こくつもりはねェんだが、お前はどうだ?」アイロニーの冷めた視線に引き攣った笑みが返る。「そういう博打は他所でやれ。んで野垂れ死ね」

 ヤクザパレス正面玄関には、黒塗りのヤクザリムジンが停まっていた。二人はそれへ乗り込むと競うように車載冷蔵庫へ手を伸ばし、瓶ビールを手に取った。首をへし折り、口をつける。「行き先は?」運転手クローンヤクザの問いに、アイロニーは炭酸でむせながら答えた。「先にサイバネ屋だ」「ヨロコンデー」外の景色が滑り始める。女へ連絡をとり始めたロックダウンを尻目に、アイロニーは懐からタバコを取り出した。残り三本だった。


2


 機械油と錆の匂い。リラックスチェアめいたサイバネティクス診療台へ仰向けになっているアイロニーは、UFO めいた手術用ライトに目を細めている。右手で、ゆっくりとタバコを吸い、不燃性のタイル床へ灰を落とす。「どうだ」「どうもこうもあるか。土台しか残ってねぇ。組み直しだ、若いの」

 アイロニーの横では、『マルチ』と呼ばれるサイバネ師が眉間に皺を寄せている。スパーク対策のサングラスめいた偏光グラスに火花が映りこんだ。「量産品なら手間ぁかからねんだがな」「バカ言え。何の為に通ってると思ってやがる」「ならもう少し丁寧に扱ったらどうだ。雑なんだよ」「性分でね」アイロニーはタバコを咥える。

 マルチはモータルだ。だが彼はソウカイヤ内でも名の知れたサイバネ師であり、ニンジャにも慣れている。マルチは左肩に増設した拡張腕でタバコを吸い、乱暴にモニターを叩く。アイロニーの周囲で鳴っている、金属製のカニの行進めいた音が止んだ。「終わりか」「代車に変えただけだ。組み直しと言っただろう」

 アイロニーはタバコを咥えたままゆっくりと上体を起こす。左腕は肩部を残して取り外され、両脚も歪で角張った土建用のようなサイバネレッグへ換装されている。「全部再調整だ。全部だぞ。その意味がわかるか」「ブッダの御心は偉大だってことだ」「ブッダよりマニーだよこのマヌケ」マルチは激しく椅子を動かし、戸棚や引き出しからパック詰の錠剤を手に戻ってくる。

「料金はいつも通りでいいんだな」「アア」「もっと気をつけりゃ金も貯まるだろうに」「金が寄り付かねェんだよ」アイロニーは錠剤を受け取り、一回分を水なしで飲み込んだ。タバコを床に捨て、踏み潰す。「試していいか」「……そっちでやれ。機材は壊すんじゃねぇぞ!」マルチの指差すデッドスペースらしきタタミ六枚ほどのスペースへと歩く。

 トントンとその場で跳ね、三度目の跳躍。「イヤーッ!」跳び回し蹴り。「イヤーッ! イヤーッ!」着地からの水面蹴り、跳ね上がるようなミドルボレー。「イイイヤヤヤヤヤッ! イヤーッ!」そして右腕のみを用いた連続突き、フィニッシュにストレート。アイロニーは納得したかのように軽く頷いた。三割と言ったところだった。じゅうぶんだ。

「どれくらいかかる」「組み直しだぞ、そんなに早く終わると思うな。……一週間だ。短くすれば質が落ちる。わかるな?」「ワカル、ワカル……」アイロニーはマルチと目を合わせることなく戸口へ向かい、シャッターフスマを引き開けた。その背中へ、マルチの酒焼けしたダミ声がかかる。「本来なら絶対安静だからな! わかるな!?」「ワカル、ワカル」アイロニーは外へ出た。

 闇サイバネ診療所は小綺麗な新築ビルの地下駐車場の端にある。薄暗い照明の中、停まっている高級車を値踏みしながら、アイロニーは歩く。スロープを上りきると、奥ゆかしい松の香りが彼を出迎えた。ネオサイタマにしては珍しく、強い日差しが天頂から注がれている。正午あたりだろう。アイロニーは鼻を鳴らす。ストリート育ちの彼にとって、松の香りは仇の香水にも等しかった。

 懐からタバコを探りながら、彼は路地を進んだ。高級住宅街を抜け、両足は自然と、自身のヤサがあるツチノコ・ストリートの方面へと舵を取る。脳裏にマルチの言葉がチラついた。絶対安静。「……一杯ひっかけて帰るか」手元の現金素子は心許ない。まずは同僚のロックダウンか、他の知り合いを辿った方がよさそうだった。路地を渡り、道路を横切るにつれ、人混みと広告音声の密度が増えていく。

「安い! 安い! 実際安い!」「アカチャン!」騒々しい広告音声にアイロニーは眉をひそめ、裏路地へと足を踏み入れる。配管から漏れネオンを反射する水蒸気、ゴミや吐瀉物に塗れたビル裏口、そしてボリュームを絞るように消えゆく喧騒。アイロニーは息を吐いた。饐えた匂いは、過去に置いてきた六畳間を思わせる。「……フン」アイロニーはタバコの箱を探った。最後の一本だった。

 彼はそれを咥え、ライターを探した。ない。いつもならば得物であるヒートカタナで着火するのだが、サイバネと合わせてメンテ中だ。その時、アイロニーのニンジャ聴覚は路地を駆ける足音を捉えた。軽く、乱れた駆け足。彼は振り向いた。墨汁のような黒色のセーラー服を纏った少女が、アイロニーの方へ走ってきていた。「……」少女は勢い余ってアイロニーへぶつかる。金の髪、青い瞳。

 よく見れば服装もセーラー服などではない。黒のアウタージャケットにスカート。どこにでもいる少女だ。「ごめんなさい!」彼女は謝り、また駆け出す。アイロニーはふと我に返り、瞬きした。……疲れているのだ。「チッ」舌打ちとともに、ぶつかられた時に取り落としたタバコを拾おうと手を伸ばす。「イヤーッ!」そして、暗闇から飛来した鋼鉄の星を掴み取った。

 刃のついた鋼鉄の星。即ち、スリケンである! 「なんだァ? てめェ」裂けた右手に一瞥もくれず、アイロニーはスリケンを捨てた。闇の中から歩み出るのは、鎖帷子と鋼鉄脚絆で身を覆った、鈍色メンポのニンジャであった。「……貴様、ボディーガードか? 面倒な」「アア?」「ドーモ、チェイスメイルです」厄介ごとだ。猿でもわかる。アイロニーはため息をついた。

 そして、後頭部を二回叩いた。ヤクザジャケットの内側に着込んだ装束から後頭部へクロームが伸び、彼の顔上半分を覆う。スリット付きスマートハーフメンポである! 「ドーモ、アイロニーです。てめェは」「イヤーッ!」アイサツからコンマ五秒、チェイスメイルは壁を蹴り、斜め上空から決断的チョップを振り下ろしていた。アイロニーの瞳は、極度に引き伸ばされた時間の中で、肉食動物が獲物から目を逸さぬように、その動きを追っていた。

「イヤーッ!」「バカな!?」「イヤーッ!」「グワーッ!?」両者の姿がカメラノイズめいて一瞬にしてブレ、砂埃が晴れた時には、アイロニーの右腕はチェイスメイルの顔面を掴んで壁へと叩きつけていた。ニンジャ動体視力をもつ読者の方には見えたであろう。アイロニーはチェイスメイルのチョップを左肩とメンポで挟んで止め、残った右手で相手の顔面を掴み、そのままサイバネ脚力を全開にして壁へ叩きつけたのだ。ワザマエ!

「てめェ傭兵か? それともそういう趣味か? 目的、話せや」「く、腐っても私はプロだ、話など」「イヤーッ!」「グワーッ! 待て、話せばわか」「イヤーッ!」「グワーッ! 答える! 奴の首には賞金が」「イヤーッ!」「グワーッ! 待て! ハンティングリストを確認してみろ! 嘘では」「イヤーッ!」「グワーッ! 何故! 全て話した! 全てだ!」アイロニーは手をとめた。

 チェイスメイルの叩きつけられた壁は蜘蛛の巣状にヒビ割れ、後頭部は激しく出血していた。飛び出しかかった眼球が、アイロニーを見る。「み、見逃してくれ……。奴には二度と近付かん!」「ダメだ」「何故!?」アイロニーは少し考え、皮肉めいて笑った。「……お前が、ニンジャだからだ」「ヤメ、ヤメローッ!」「イヤーッ!」「アバーッ! サヨナラ!」チェイスメイルは頭蓋を砕かれ爆発四散した。

 アイロニーは手を払い……逡巡するかのような足音の方を振り返った。そこには先ほどの少女がいる。両手には、純白のバイオ包帯。「そこの薬局で買ってきたの。怪我させちゃったし」「……」「治療は得意なんだ」「必要ねェ」アイロニーは右手の傷を筋肉で強引に止血した。少女は目を丸くする。裏路地を風が通り抜け、チェイスメイルの爆発四散パーティクルを吹き流した。アイロニーは舌打ちし、懐に手を入れる。タバコは空だった。

「ねえ」「……なんだ」「お礼させてよ。収まり悪いじゃん」「必要ねェって言っただろ」だが、少女は立ち去らない。どこかのオヤブンを連想させる意志の強い瞳はまっすぐにアイロニーを見ている。モノクロの六畳間がフラッシュバックする。アイロニーは目を閉じ、ため息を吐くと、「タバコ」と答えた。「タバコ?」「一箱でいい」少女はニンマリと笑い、アイロニーへ歩み寄ると手を引いた。「私、セリーナ。よろしく、アイロニー=サン」アイロニーは再びため息を吐いた。   


3


 ミリオン・ストリート。ネオサイタマにおける大繁華街のひとつだが、年末でもなく小規模イベントが突発的に開催されるだけの今は、適度な人垣と雑踏を提供してくれる憩いのスペースだ。アイロニーはカフェ店内奥の角にあるテーブル席で、三本目の『鎖骨』を吸い終わった。彼の目の前には、黒のアウタージャケットを半ばはだけ、健康的な白シャツにチョコを零しそうになっている女子高生が座っていた。セリーナ・ムゲン。厄介ごとの火種だ。

「それで、私だけ取り残されちゃって、命からがら逃げてたって感じ。わかった?」「……」アイロニーは紫煙を肺に溜める。返答は煙だ。セリーナ・ムゲン。新興暗黒メガコーポ、ムゲン・プロパティ CEO であるマックスウェル・ムゲンの一人娘。そして今やネオサイタマにおける高額賞金首の上位ランカー。野良ニンジャやアウトローが目指す金の山。「ニンジャは怖くねェのか」「NRS (ニンジャ・リアリティ・ショック) のこと? 大丈夫、事故った時の護衛もニンジャだったし、慣れてるよ」

 父親と娘が移動中に襲撃を受け、護衛ニンジャは父親を連れて撤退。生死不明の娘が取り残される。今どきどこの監督でもそんな筋書きを採用しない。暗黒メガコーポの上級社員でもない限り。「……フー……」アイロニーは五本目のタバコへ火をつけた。「お前は、気づいてるかどうか知らんが」カフェの外、ガラス越しに見える大通りを眺めながら、アイロニーは気怠げに呟いた。

「さっきのサンシタが言っていた通り、お前には高額の賞金がかけられている」「わかってるよ。というか護衛とはぐれたってことはそういうことじゃん? 追跡されそうなものはぜんぶ捨てたよ」「そうじゃねェ」タバコをつまみ、灰皿で捻って消す。唸るように、アイロニーは続ける。「テメェはこれからどうするつもりだって聞いてんだ」「帰るよ、家に」セリーナは澄んだ瞳でそう答えた。湖面のような、凪いだ瞳であった。「だから、できれば協力してほしいなって」

 そう言った時には、既に年相応の光を湛えた瞳に戻っている。アイロニーは灰皿を掴む。「俺ァ暇じゃねェ。それにプロだ」「隻腕なのに?」「休暇中なンだよ」「じゃあ休日料金だ。言い値で払うよ、私の会社が」それに、とセリーナは笑う。人懐っこく、懐に滑り込むような、ヤスリがけされたアイロニーの記憶に唯一残っている笑顔で。「護衛を受ける気がないなら、最初から助けないでしょ?」「……イヤーッ!」アイロニーは、掴んでいた灰皿を投げる!

 それはセリーナの頭部数ミリを掠め、店内入り口へ踏み込んだヨタモノの顔面を粉砕! 「アバーッ!?」アイロニーは立ち上がると、セリーナの首根っこを掴んで従業員出入り口へ駆け出した。「ワハハ! 乱暴!」「うるせェ、舌噛むぞ」アイロニーの前蹴りで従業員入り口の扉が吹き飛び、待機していたヨタモノを巻き込んで向かいの壁へとめり込んだ。「イヤーッ!」「アイエエエエッ!? ニンジャ!? ニンジャナンデ!?」待機ヨタモノ達はアイロニーの殺気に押され我先にと逃げ出す!

「報酬はテメェに掛けられてる賞金の三倍だ。それ以上はまけねェ」「……タバコ代は?」「引いとけ」アイロニーはセリーナを降ろし、先導するように歩き出した。「……厄日かね……」六本目のタバコに火が灯った。

   ◆

「電車ナンデ?」「一本のタバコを隠すなら、どこに置くべきかわかるか?」「エ? タバコなんて吸わなきゃいいじゃん。身体に悪いよ!」「……」「アッ、次だね。降ります降ります!」「騒ぐなバカ!」

   ◆

「イヤーッ!」「グワーッ!? 何故ソウカイヤの貴様がここに!」「今日はオフだ」「賞金目当てか。金でも積まれたか? 見合わん仕事だな」「ああ、リハビリにはもってこいだ」「ほざけ! イヤーッ!」「イヤーッ!」「アバーッ! サヨナラ!」

   ◆

「次どっちだ」「そこ右で、そうそこ! 中々オシャレでしょ!」「……ここに入るのか」「そうだよ」「他じゃダメか」「ダメだよ」「……」「ア、またタバコ」「一本、吸わせろ、いいな」「んー、じゃあ席とっておくね」

   ◆

「グワーッ!? 何故貴様がここに!」「今日はオフで、通りすがりで、厄介ごとだ。わかるか」「たわけたことを。女はどこだ!」「レディはシャワー中だ」「イヤーッ!」「イヤーッ! イヤーッ!」「グワーッ!」「イヤーッ!」「アバーッ! サヨナラ!」

   ◆

 ……数日後!

「やっとマルノウチ! ねぇこんなに遠回りする必要あった?」「バイオニューロンチップでのご到着で良ければもっと早かったんだがな」「ウェー、勘弁してよ。そこは冗談でも、お前と一緒にいたかったから、でしょう?」「ハッ、てめぇみたいなチンチクリンは願い下げだよ」

 二人はマルノウチ近郊のカフェで遅い朝食をとっていた。オキアミ・ホットサンドを食べ終えたアイロニーは手慣れた仕草でタバコに火をつける。相対するセリーナは慣れた手つきでポータブルファンを起動し、煙の流れを調整した。「お待たせしました、ご注文の品です」「アリガトゴザイマス!」

 セリーナはオキアミ・チョコサンデーを前に目を輝かせている。アイロニーは目を細めた。セリーナはよく食べ、よく寝て、よく笑う。今時の女子高生が全員こうなのか、アイロニーにはわからない。ざらついた風景がニューロンの片隅へ去来する。灰色のタタミ部屋。

 目的地が近く、警戒が緩んでいたか。それとも、セリーナに誰かを重ねすぎていたのか。それは誰にもわからない。だがその瞬間、反応が遅れたとはいえ、誰よりも早くニューロンを引き締めたのはアイロニーであった。「誰だテメェ」セリーナの斜め後ろに、長身の黒髪女が立っていた。

 紺と白の改造エプロンドレス。その裾は足元すら隠している。目つきは凪いでいた。落ち着いている、という意味ではない。嵐の前の静けさというやつだった。「ドーモ、アイロニー=サン」女は優雅なカーテシーで、頭を下げる。「ハウスキーパーです」「ドーモ、ハウスキーパー=サン。アイロニーです」

 二人がアイサツを交わし、空気が凝るコンマ1秒前、「マッタ! マッタ!」という声が彼らの間に響いた。声の主は、口一杯にオキアミ・サンデーを詰め込んだセリーナであった。「アイロニー=サン。彼女は敵じゃない。ハウスキーパー=サン、久しぶり」「お久しぶりです、お嬢様」ハウスキーパーは再度のカーテシーで応じた。

 アイロニーは椅子へ座り直し、鼻を鳴らした。襲撃を受けて、CEO の救助を優先したという護衛ニンジャはこいつだろう。とするならば、ちょっとした小遣い稼ぎは終わりだ。お互い家に帰るときだ。メガコーポのビルディングと、モノクロの六畳間に。

 ハウスキーパーはセリーナの斜め後ろに控えたまま、机の上へ封筒を差し出した。ムゲン・プロパティの社印が押下されている。それを見て、セリーナは「ハ」とアウトローのように息を吐いた。「やっぱり、お迎えじゃないんだ」「ええ、残念ですが」彼女達は睨み合う。「ア? どういうこった」アイロニーは封筒を手に取り、中身を確認した。

 それはオキナワへのチケットだった。それと、小切手がいくらか。「俺への報酬……ってわけじゃァなさそうだな」「無論です。それはセリーナお嬢様へ向けた、私からの精一杯の援助です」セリーナは疲れたように椅子へ背中を預け、片手で頭を支えると、深くため息を吐いた。「やっぱりね」

「パパは私が邪魔になったんでしょ。誰だってわかるよ、それくらい」「なンだ、じゃあ気を使う必要はなかったな」「アリガトね。まあ、私だけ置いてかれた時点で、察しはついてたんだけどさ。で、ハウスキーパー=サン。パパから受けた本当の命令を教えてくれる?」「教えれば、お嬢様は逃げてくださいますか?」「返答によるね。せいぜい脅してみてよ」

 ハウスキーパーは表情を引き締め、片膝をついた。セリーナと目を合わせるためだった。「貴女を排除しろと命じられました」「やっぱりね。じゃあ命令違反じゃん」「いいえ、排除です。お嬢様が会社からいなくなれば、CEO はそれで満足なされます」「なーるほど。そういうこと」

 水面に揉まれる木切れめいて、一瞬だけ表情が浮かび、沈んだ。それをアイロニーは見逃さなかった。自身にとって最も馴染みのある感情。それは憎悪だ。「また追い出そうとするんだ。ママみたいに」「お嬢様、それは」「知ってるんだから、私」セリーナは金髪をかきあげ、腕を組んだ。

「パパは後継ぎが必要だから、ママに産ませた。それで必要なくなったから追い出した。違う?」「……違います」「上級役員のマツノリ=サンが嘘をついたってこと?」「それは……ッ!」ハウスキーパーと額を合わせるようにして、セリーナは低く呟いた。「知ってるって言ったよ? 私は」

 その光景にアイロニーは舌を巻いた。ただの女子高生かと思ったら、次の瞬間にはニンジャを従わせる暗黒メガコーポの幹部へ早替わりだ。異質な才能だった。それ自体が、彼女の出生を裏付けているようなものだった。遺伝子に刻まれた、支配の才能。アイロニーはタバコをすり潰す。それは最もアイロニーと親しく、同時に憎むべきものだった。

「じゃあこうしよう。ハウスキーパー=サンの言う通り、ママが追い出されたんじゃなければ、大人しくオキナワに飛ぶよ」「……秘密裏に、CEO へ会わせろ、ということですか?」「そう。でも、もし私のいうとおりパパがママを追い出していたら、ハウスキーパー=サンは私について」セリーナは紙ナフキンを広げ、どこからともなく取り出したボールペンで簡易的な契約書を書いた。流れるような筆記体であった。

 彼女は親指の皮を噛みちぎり、そこへ母印を押下する。「セリーナ様!」ハウスキーパーの低く押し殺した声はもはや悲鳴のようだった。「ハウスキーパー=サン。貴女はさっき、不確かな情報で不義理を働く寸前だったの。これはその取り返し。さあ」ハウスキーパーはため息をつき、観念したように首を振ると、どこからともなく取り出したハンコで捺印した。

「証人」「オウ」指をさされ、アイロニーは片手を挙げた。恐ろしい手腕だった。これでどう転んでも、ハウスキーパーの罪悪感へつけ込んで、忠誠を揺り動かせるというわけだ。それに契約までの手引きも流れるようだった。こいつは将来化けるな、とアイロニーは思った。

 殺しておくべきか? という問いかけがあった。それは彼の中にあるヤクザとしての本能からだった。交渉の才覚というものは、翻って、地上げの才覚とも結びつく。ましてや相手は暗黒メガコーポ CEO の娘だ。然るべきところに出せば、ソウカイヤの脅威になるだろう。殺しておけ。

 だが彼は未だオフであり、得物であるヒートカタナも、特注のサイバネティクスも持っていないのであった。彼は鼻を鳴らし、タバコの箱へ手を伸ばした。

「よし、契約完了。じゃあ行こっか、ハウスキーパー=サン」「かしこまりました。車を回して参ります」ハウスキーパーはアイロニーへ背筋の凍りつくような視線を向け、その場を後にした。アイロニーは次のタバコに火をつけた。「肩が軽くなった」「何言ってるの。会社の敷地までは警護してもらうよ」セリーナはまたあの屈託のない笑みをアイロニーへ向ける。

 煙の向こうに見えるそれに、嘘や偽りはない。どちらもセリーナなのだ。アイロニーは肩をすくめた。「アイアイ。リトル・モンスター」「は? どこがモンスター。めちゃめちゃ可愛いでしょうが」「うるせェよ、チンチクリンが」アイロニーは一息でタバコを灰へと変え、席を立った。

   

4


 流線型のコーポリムジンはムゲン・プロパティ本社正門前でゆっくりと停車した。攻撃を仕掛けてくるような愚かなギャングも、敵対メガコーポもいなかった。だがセリーナ・ムゲンは、アイロニーの隣へ座っていた。リムジンが停車してからの数秒で、あらゆる感情が、車内の換気装置に攪拌され、吸い出されていった。

「寝てるのか」「起きてます〜。ちょっと……キアイ込めてただけ」「ヤサへ帰るのにキアイがいるか? スシ食ってシャワー浴びて、上等なシルクに包まれる重労働が待ってンのか?」アイロニーは片目でセリーナを見た。彼女は皮肉めいて口元を歪めていた。下手くそな笑いだった。だがそれが、彼女本来の笑いであると、アイロニーは直感で悟った。

 ドアがノックされる。窓ガラスの向こうに映るのは、改造エプロンを着た長身の影だった。ハウスキーパーだ。「セリーナ様」「わかってる」セリーナは深く息をついた。ドアが開く。荘厳なアーチ上の正門の向こうでは、鏡面加工の超高層ビルが聳え立っている。別世界への入り口だった。

 セリーナはゆっくりと振り返り、アイロニーを見た。……年相応の、子供の瞳で。「ねえ、アイロニー=サン。もし真っ当な報酬を用意できたらさ、私のヨージンボになるつもりはない?」「企業に飼われるのはゴメンだね」「企業じゃないよ、私個人に」セリーナはじっとアイロニーを見ている。「ダメ?」「ダメだ」

「表社会の人間が、ヤクザものを引き抜こうとしてんじゃねェよ。さっさと帰りな、お嬢ちゃん」「……ダメかァ」セリーナは眉尻を下げ、それでいて何故か嬉しそうに、笑った。「そっかァ、ダメかァ」彼女はさっとアイロニーに背を向ける。未練を断ち切るように。「……アリガトね、アイロニー=サン。バイバイ」アイロニーは無言で手を振った。

 セリーナの小さな背中が正門の向こうへと飲み込まれていく。ハウスキーパーが車内へと顔を覗かせた。「このリムジンは自動運転でトコロザワ・ディストリクトまで向かいます。その後はご随意に」「オウ」「報酬は口座へ振り込ませていただきました。それでは、もう二度と会うことがないよう願っています」「こちらこそ」ドアが閉まる。リムジンはゆっくりと走り始めた。

 キャバァーン! アイロニーは端末を確認した。報酬の額を見て、彼は肩をすくめ、視線を外へ投げた。「ゼロが一個多いぜ、嬢ちゃんよ……」リムジンはハイウェイへ乗り、アルファルトを踏みしめて加速を始めた。

   ◆

 ムゲン・プロパティ。新興の不動産メガコーポ。あらゆるものを寄せ付けない攻性ファイアーウォールめいた法務部門と、外堀どころか城ごと埋め尽くす勢いのジアゲ工作によって、数年でたちまち頭角を表した会社だ。アイロニーがその名前を聞いたのは、不可思議な子守りの体験から数ヶ月経った後だった。

 その名前は考えうる最悪の形で彼の元へ届けられた。「暗殺?」「ウム」眼前で<六門>の刻印が頷く。……シックスゲイツ、ガーランド。そでん屋のテーブル席。ソウカイ・ニンジャの最精鋭であるシックスゲイツから呼び出されることなどそうそうない。アイロニーの嫌な予感は見事に的中していた。「現 CEO へ体制が変わり、ソウカイヤと折り合いが悪くなった」

「だからって、暗殺たァ穏やかじゃねェ」「そう思うか?」ガーランドは懐から取り出したマキモノ型デバイスを開く。トコロザワ・ディストリクトの地図。その周辺が真っ赤に染まっている。「今やこれだけの土地が奴らに押さえられている。無論、名義は異なるが」アイロニーは絶句した。客の喧騒がフィルターをかけたように遠くなる。

 それはたった数ヶ月で可能な範囲を遥かに超えていた。世界規模の暗黒メガコーポや、狂気じみた天才でもいない限りは……。「……」アイロニーは奥ゆかしく黙り込んだ。まだ決まったわけではない。だが、なぜ自分が呼ばれたのかという理由に行き着いた時点で、彼の思考は完全なる袋小路へ入り込んだ。「……で、その CEO の名前は?」

 ガーランドは片眉を上げる。「健忘か?」巻物に表示される名前と顔写真。見覚えのある金髪。そしてセリーナ・ムゲンというミンチョ体。「後は任せる。……好きにやれ」ガーランドは席を立ち、カウンターへ素子を置くと、店から去った。アイロニーはヤスリがけされたような瞳で、マキモノの写真を眺めていた。

   ◆

 薄暗い六畳間。石材が剥き出しの床にはカーペットめいて様々なケーブルが敷き詰められ、壁に吊り下げられたファイアウォール機材がビカビカと LED 光を放っている。アイロニーは部屋の最奥にある机の前に立っていた。眼前には、複数のモニタと、UNIX 機材。「探れって言われても……何を?」「全部だ」

 モニタ群の向こう側で、細身の影が上体を逸らした。バーガンディの LAN ケーブルヘアに、紫エナメル風テックブルゾン。刈り込みを入れた頭部の後ろには、複数の生体 LAN ソケットが開いている。アイロニーと同時期にソウカイヤへスカウトされたハッカーニンジャ、ジェラスは、両手をホームポジションにしたままアイロニーを見つめ返した。

「全部って言っても、データすごい量だよ? せめてピックアップーー」「構わん。やれ」「……アイアイ。時間かかるよ」ジェラスは UNIX と LAN 直結し、高速論理タイピングを開始する。そのまま、伺うようにアイロニーを見上げてくる。「ずっと突っ立ってるつもり?」「……」「なんか変だよ。いつもより」「だろうな」「訳アリ?」「かもな」

 アイロニーはタバコを取り出す。その前に、細い指がずいと伸びてくる。「前金の代わりにしてあげる」「『鎖骨』だぞ」「スモークイーターは好き嫌いしないのだ」分け与えたタバコに火をつけてやり、アイロニー自身もタバコを咥える。紫煙が UNIX ライトを受け、幻惑的に形を変えた。「……新しい女?」

 口を開いたのはジェラスだった。「なんでだ」「アンタが落ち着かなくなるの、それぐらいでしょ」「そうでもないさ」「心停止してもフラットラインしても動揺しなかったアンタが?」ジェラスは口の端だけで笑う。皮肉のように。「昔からそうだよ。昔から……」キャバァーン! UNIX ライトが明滅した。処理が終わったのだ。

「意外と早かったな」「……そうだね、ちょっと、おかしなくらい」ジェラスは嗜めるようにモニタを睨みつけ、「ワオ、ワオ」と口を動かした。「またヤバい女と関わったね、アイロニー=サン」「……」「前 CEO の暗殺、組織の簒奪、強引な内部統合、それでいて業績はウナギ・ライジング。ヤバい。絶対ヤバい」「……データを」「アイアイ」

 アイロニーはジェラスから受け取ったデータチップを首後ろのソケットへ差し込んだ。ダム決壊めいた情報の奔流を俯瞰し、断片組織から人物像を組み上げていく。行動パターン、私生活、そして暗黒メガコーポ CEO らしい裏の顔。それは彼の知るセリーナ・ムゲンその人であった。彼の知っていた彼女は、膨れ上がった大きな怪物の、一部に過ぎなかった。

 それでも脳裏に蘇るのは、風に靡く金髪と、陽光のような笑顔であった。それはセリーナのものであり、今はなき女のものでもあった。自らの手で息の根を止めた、唯一の肉親……。「……フン」アイロニーは口の端を歪めて笑った。「全くもって、俺むきの仕事だな」彼は一息でタバコを吸いきり、ジェラスの示した灰皿へと放り投げた。

「サポートは?」「いらん。呼べば出てくる。そういう仲だ」「ア、ソ……」アイロニーはケーブル類をよけつつ、UNIX 部屋を後にする。「……」ジェラスのため息が聞こえた。彼らはそういう仲だった。アイロニーは今度こそ皮肉めいて笑い、部屋を出た。仕事道具を受け取りに行かねばならなかった。

   

5


 焦げたカラメルと、煮たったコーヒーと、排気ガスと、タバコ。それに生活用水特有のすえた香り。目の端でドブのような川を眺めながら、アイロニーは歩く。新品同然のオーダーメイド・サイバネレッグが、繊細なスプリングを震わせながら、小石を踏み締めた。

「よお」「……よお」廃自動車やスクラップがそこかしこに散らばる河川敷。土手沿いの階段に、金髪の少女が座っている。紺色をしたシックなダブルのスーツ。両耳の後ろには軍用グレードの生体 LAN 端子まで装備している。すっかり CEO の格好だ。その笑顔以外は。「待たせたか?」「ぜんぜん。それに、命の恩人の呼び出しだもの」

 アイロニーは皮肉めいて笑い、セリーナの隣へ腰掛けた。懐からタバコを取り出し、左腕のサイバネで火を点ける。「カッコイイね。フル装備?」「アア、仕事の時は大体これだ」「私にもちょうだい、タバコ」「いいぜ。安物で悪いが」アイロニーはセリーナへタバコを咥えさせ、火を点けてやる。

「……フーッ」「てっきり、お小言でもあるかと思ったが」「まさか。今はもう私が主人だもの」アイロニーは横目で後ろを見やる。そこにはクラシカルなエプロンドレスに身を包んだハウスキーパーが立ち、俯いている。アイロニーは汚れた川面に視線を戻した。紫煙が、形を変えながら二人の間を漂った。

 セリーナが躊躇うように灰を落とし、呟く。「ねえ、アイロニー=サン」「……くだらねェこと言うんじゃねェ」「フフ、ワカルか」「アア、ワカル」アイロニーは一息でタバコを吸いきり、階段ですり潰した。「ワカルだろ?」「……うん、ワカル。残念だけど」アイロニーはゆっくりと立ち上がる。

 河川敷の中央まで足を進め、アイロニーは振り返る。ハウスキーパーがセリーナへと一礼し、こちらへ歩いてくる。二人はタタミ三枚の距離で向かい合った。「ドーモ、ハウスキーパー=サン。アイロニーです」「ドーモ、アイロニー=サン。ハウスキーパーです」ゆっくりと風が流れ、クソッタレの郷愁を引き起こすフレーバーをシェイクした。

 瞬間、空気が凝り、砂利が爆ぜた。「イヤーッ!」アイロニーは左腕のサイバネ機構からヒートカタナを抜き放ちつつ、脚部ブースターを点火して初速から最高速で踏み込んだ。タタミ三枚の距離が一瞬で縮まる。だが眼前には、銃口! 「イヤーッ!」BLANM! 散弾が迫る!

 アイロニーは一瞬たりとも目を逸らさず、更に踏み込む! 「イヤーッ!」「グワーッ!?」……ザァ、と砂利が降り注いだ。アイロニーはヒートカタナを振り抜いた姿勢のまま、ハウスキーパーを睨みつける。彼女の左手には小型のショットガンが握られていた。それは銃身が真っ二つに切り裂かれ、さらに小指と薬指がケジメされている。「強引な方ですね」「ヤクザってのはそういうもんだ」

 アイロニーはカラテをこめる。バイタルゾーン以外に埋め込まれていた散弾が、血液と共に押し出され、砂利に混ざった。彼は散弾の中を、ヒートカタナを正中線へ沿うように構えて突き進んだのだ。急所は守り、それ以外の痛みは殺す。なんたる非凡なニンジャ耐久力に任せた力技か!

「……」「……イヤーッ!」ハウスキーパーの右手が突き出され、指の先端から 9mm 弾が発射される。それは泥の中を進むバイオミミズめいて遅い。アイロニーは銃弾を躱しつつ、ヒートカタナを引き摺り、駆けた。ハウスキーパーが跳び下がる。勝機。ブースターを点火し、空中でケリを……。「!?」

 研ぎ澄まされたニンジャ第六感は、数秒後の死を鋭敏に感じ取った。その脅威は下からであった。ハウスキーパーのロングスカートから転がり出たもの。三つの指向性破片手榴弾! 「イヤーッ!」アイロニーはヒートカタナの剣先で三つの手榴弾を次々に打ち上げた。そして全力で横へ飛ぶ! KRA-TOOOON!!

「グワーッ!」全身に赤熱した破片を浴び、アイロニーは砂利の上を転がった。だがニンジャ第六感は未だに警鐘を打ち鳴らしている! 「「イヤーッ!」」アイロニーはゴロゴロと転がるワームムーヴメントからフリップジャンプ。その一瞬後、彼がいた地面が爆発した! グレネード弾だ!

 アイロニーは爆煙と土煙の向こうを睨みつけた。右腕からグレネードランチャーをポップアップさせたハウスキーパーが、フリップジャンプの着地点をしっかりと見定めている。(ここだな)アイロニーはニューロンの速度で呟いた。「イヤーッ!」グレネード射出! 弾頭は狙い違わず着地点へ迫る!

「イヤーッ!」アイロニーは片足で着地し、ヒートカタナを振り抜いた。グレネード弾を打ち返す! 「ッ!?」 KABOOM!! ハウスキーパーの姿が爆炎と砂煙に飲まれた。アイロニーはヒートカタナを構え直す。パラパラと雨のように砂利が落ちてくる。ゆっくりと煙が晴れ、……左腕部のポップアップ・シールドを展開した、ハウスキーパーの姿が現れる。

「お強いですね」「そうでもねェさ。CEO の護衛一人も満足に殺せやしねぇ」「ご謙遜を」両者はゆっくりと間合いを図る。そして、アイロニーはカタナを振り上げた。「イヤーッ!」砂利の礫が散弾めいてハウスキーパーへ向かう。それと同時に、アイロニーは連続側転で側面へ回り込む。

 ハウスキーパーの視線はマシーンめいて正確にアイロニーを追う。砂利の礫を左腕のポップアップ・シールドで弾きながら、右腕の指先が執拗にアイロニーを追跡している。アイロニーは残像が生まれるスピードで腕を振るった。金属音。スリケンが撃ち落とされた。アイロニーはまたしても連続側転で側面へ!

「ちょこまかと……!」ハウスキーパーは正確にアイロニーを追い続ける。身体を回す。片足が砂利から離れる。アイロニーの目が光った。「イヤーッ!」ジャイロ回転を描くスリケンはシールドをすり抜け、ハウスキーパーの足元へ突き刺さる。今まさに着地しようとした片足の真下へ! 「グワーッ!?」

 それはまさしく非人道兵器マキビシめいた、針の穴を突く一撃である! 「クッ!?」体勢を崩したハウスキーパーへ向かい、アイロニーは脚部サイバネのブースターを点火し加速した。この一撃で決めるつもりなのだ! 「イイイヤアアーッ!」長ドスめいてヒートカタナを構え、突進する!

「イヤーッ!」BRATATATATATA! 9mm 弾の掃射を受け、血飛沫が舞い、メンポが歪む。だがアイロニーは怯まなかった。その瞳には目の前の相手を殺すという意思しか存在しなかった。それがアイロニーの全てだった。今は、ただ。「コロス!」

 しかしその時、ハウスキーパーの片足が霞んだ。ニンジャ第六感がゼロコンマの速度で警鐘を鳴らした。アイロニーは咄嗟にガード姿勢を取る! 「イヤーッ!」「グワーッ!」ヒートカタナが折れ、左腕のサイバネティクスフレームが歪む、ディストーションのかかった衝撃音。アイロニーはメンポの奥からそれを見ていた。クロームの左腕にめり込む流線的なサイバネレッグを。

 それはハウスキーパーのロングスカートの下から伸びていた。アイロニーと同等の、オーダーメイド・サイバネレッグ。「イヤーッ!」そのブースターが点火される! 「グワーッ!」加速した衝撃にアイロニーはうめき、吹き飛ばされゴロゴロと砂利の上を転がった! 顔を上げる! グレネード弾の着弾は……今! KRA-TOOOON!! 「グワアアアーーッ!!」

 砂利が降り注ぐ中、アイロニーは身体を横に丸め、薄れる視界を必死に繋ぎとめる。ジャリ、ジャリッ。小石を踏みしめる音。TATATA! 射撃音と衝撃。アイロニーの身体が小刻みに跳ねる。だが痛みはない。そんなものはとっくの昔に『殺して』おいたのだ。白く霞む向こう側から、ロングスカートが見え隠れする。

「……これだけ撃っても爆発四散しないとは、何かのジツですか?」「……」「テック?」「……」「まあ、どちらでもよいことです」ブゥン……。重い何かを振り上げる音。聞き飽きるほどに聞いてきた音だ。カイシャクのストンピングを、振り上げる音。「ハイクは詠みますか?」「……あ、い……」

 アイロニーは両腕を身体に沿わせ、横ざまに倒れたままハウスキーパーを見上げた。変わらぬ殺意が宿ったままの瞳で。「……間合いってのは、大事だよなァ」「ッ……イ--」ハウスキーパーの動きはスローモーションのようだった。ニンジャアドレナリンの過剰分泌だ。今のアイロニーには全てがクリアに見えた。彼は、クロームの踵が振り下ろされるコンマゼロゼロ秒前に、皮肉めいて笑い、両腕を振り上げた。

「サップーケイ!」

   

6


 それはニューロン速度でコンマゼロゼロ数秒の空白。あるいはソーマト・リコールに近い景色であった。ハウスキーパーはセリーナの背後に立っていた。開けた視界には、荘厳なる CEO デスクと、その向こう側に立つマクスウェル・ムゲンその人。コーナー・ルームの窓からは、竹林めいてビルを乱立させているムゲン・プロパティの敷地が見渡せる。

「こいつをつまみ出せ、ハウスキーパー=サン」「その前に、答えを聞かせて。パパ」セリーナの声には天命を告げるような威厳がある。彼女は CEO として、人の上に立つものとして持つべき全てを手にしている。天賦の才だ。マクスウェルはきっとそれを把握している。だからこそ、セリーナをムゲン・プロパティに関わらせまいとしていたのだ。ハウスキーパーにはそれがわかる。マクスウェルとは違う視点で、彼女も、セリーナを関わらせまいとしていたからだ。

 セリーナは片足を踏み出し、重い声で命じた。「ママをどうしたの?」「お前の母だった女は消えた」「追放したの? 邪魔になったから?」「……いや。ああ、結果的にはそうか。……お前の母はもう死んでいる」ハウスキーパーはマクスウェルを見た。それが嘘であることは、誰よりもハウスキーパー自身がわかっていた。かつて愛した男。ボディガード時代……かつて、ニンジャとなる前の過ち。それは墓まで持ち込むべき記憶であった。

「殺したって……こと?」マクスウェルは重々しく頷いた。薄情で、冷酷な人。それは永遠に変わらない、マクスウェルの持って生まれた性質だろう。冷たく青い瞳は、ハウスキーパーを射抜いていた。「何も喋るな」と。セリーナはふらつき、ハウスキーパーへと背を預けた。テックによって増幅されたニンジャ聴覚は、セリーナの鼓動を捉えた。平時と何も変わらぬ脈拍を。

 セリーナは俯いたまま、取りこぼすように呟いた。「私も、殺すの?」「出て行かぬのであれば、いずれは」「もう既に見殺しにしようとしたじゃない。どうせ出て行ってもすぐに刺客を送ってくるんでしょ。ここにも」フ、とハウスキーパーに触れていた温もりが消える。彼女が守ろうとした小さな命が、憎悪を纏った瞳で、彼女を見上げていた。「いるしね」

「お嬢様、私は」「契約はどうしよっか。私を守ってくれるってやつ。この場合、ママは誰かに殺されたわけだから、自分から消えたとも追放されたとも取れるよね」「契約だと?」マクスウェルの瞳に、初めて疑念の種が宿る。ハウスキーパーのニューロンが加速する。セリーナを止めねばならない。だが、どうやって? 「契約は契約だよ。パパがよくやってるやつ。ハンコで人生を、運命を縛るやつ」

 セリーナの鼓動は変わらない。全くもって震えない。ハウスキーパーは戦慄した。ここに連れてきた時点で、セリーナの策は成っていたのだ。「ハウスキーパー=サン、貴様」「旦那様、確かに契約は致しましたが、その条件は」「セリーナの口から語られたことが全てだろう。違うか?」「そうだよ」ツカツカとセリーナが進む。 CEO デスクの前で、ルーレットテーブルへオールインするように、少女は身を乗り出した。

「どうせ殺すんだったら、パパがやったら? それなら確実だよ」「バカを言うな。何を」「私は本気」ハウスキーパーは目を見開く。同時に、ニンジャアドレナリンが吹き荒れ、周囲の景色が鈍化した。セリーナはチャカガンを手にしていた。恐らくは、護身用にあのチンピラニンジャが買い与えていたものだろう。セリーナは今の今まで、それを隠し通していたのだ。

 銃口がマクスウェルへ向けられる。それと同時に、 CEO デスクの防衛機構が起動し、ポップアップしたアサルトライフル二丁がセリーナの眉間へ突きつけられた。アレは論理制御されている。更に、コーナールーム内へ仕掛けられた他機構の蠢く気配が重なった。これらは CEO が死なない限り止まらない。そうプログラムしたのは、誰であろう、ハウスキーパーその人であった。「イ--」彼女は叫んだ。

 セリーナの引き金は遅い。弾丸射出前に腕部を破壊し、CEO 殺害を止めることは可能だ。可能なのだ。「--ヤ--」マクスウェルの瞳には様々な感情が渦巻いていた。驚愕や敵意、諦観、そして疑念。疑いの視線はハウスキーパーを貫いていた。その忠誠心を。愛憎の天秤の均衡を保っていた、大きな重石を。「--ーッ!」

『CEO のバイタル停止を確認したドスエ。社内隔壁を緊急閉鎖するドスエ』電子マイコ音声と荒い呼吸音、緊急アラートの騒音が、コーナールームに響いていた。ハウスキーパーは、右手指の隠しピストルと左腕のポップアップ・シールドで、セリーナを銃火から守っていた。セリーナの持つチャカガンからは薄く硝煙が立ち上っている。マクスウェルは CEO チェアへと座り込んだ。眉間に穿たれた空洞からは、損傷した電脳の火花とドス黒い血液が噴き出している。撃ったのは、重金属トリプルコート弾だろう。

 ハウスキーパーは温もりを感じた。セリーナがもたれかかってきたのだ。彼女はピストルを取り落とし、ゆっくりとハウスキーパーを見上げた。「やっちゃった……」セリーナは笑った。「これで会社は私のもの《ホーム》だ……」それは迷子の子供が見せる、弱々しい微笑みであった。

   ◆

 ハウスキーパーは首を振り、視界に纏わりつくハレーションを振り払った。「……何?」そこはモノトーンの世界であった。墨絵のような白黒。淡い線で構築されたマケグミ・アパートの六畳間。窓の外はノイズめいた大雨で、前後の壁には磔になったヤクザやニンジャ。そして部屋の中央には……。「悪趣味な」「そう言うな。……こいつは俺の妹だ」

 部屋の中央。仰向けになり、血まみれで死んでいる黒セーラーの女子高生。その死体を挟んで向こう側に、満身創痍のアイロニーが立っている。ハウスキーパーはニューロンの速度で戦況を把握した。何らかのジツにより、強制的にワンインチへと隔離されたのだ、と。

「名前も顔も忘れちまッたが、妹だったことは覚えている。不思議なもンだな」「そうですか、それが?」「アイツな、セリーナ。ありゃアンタの娘だろ。違うか?」ハウスキーパーはフクロウめいて音もなく腰を落とし、身構えた。「ニンジャに子は出来ませんよ」「じゃア、ニンジャになる前の子だ。懐かしいんだよな、アンタら。懐かしいんだ……」

 何の前触れもなく、アイロニーが踏み込んでくる。歪んだサイバネの左腕がぶらりと揺れ、分銅めいて勢いをつけた逆の腕が迫ってくる。ハウスキーパーは左のシールドを構えて突進した。「イヤーッ!」「グワーッ!」六畳間が揺れる。アイロニーは盾と壁でプレスされている。ハウスキーパーは右腕の指先をアイロニーへ向ける。

「イヤーッ!」軟体生物めいて跳ね上がった片脚が、ハウスキーパーの右手に絡まった。「クッ……!」「イヤーッ!」ボギン! 「グワーッ!」ハウスキーパーは右手首から先をパージし、跳びのいた。鉄の軋む音。アイロニーの脚部サイバネが顎門のように右手を咥え込み、押し潰す。二者は再びカラテを構えた。右手と左腕、互いに隻腕のカラテである。

 アイロニーが踏み込む。木人拳めいたコンパクトな掌打のコンビネーション。ハウスキーパーは盾を用いて捌き、「イヤーッ!」おお、ナムアミダブツ! ケジメされた右手の断面でアイロニーの顔面を狙う! 「イヤーッ!」アイロニーはひしゃげた左腕を掲げ、それを防ぐ! 隻腕などではなかった。四肢として動作するのならば、それすら用いるのがニンジャのイクサなのだ!

 白黒となったブースターの炎がチラついた。ハウスキーパーは咄嗟に片脚を掲げ、膝蹴りを防ぐ! 「「ヌゥーッ!!」」互いのサイバネレッグを挟んだ鍔迫り合いだ! クロームが熱を持ち、火花をあげ、両者のこめかみに血管が浮き上がった。「「イヤーッ!!」」一瞬のカラテ衝突の後に跳び離れ、逆脚を振り上げる!

「イヤーッ!」「イヤーッ!」両者の右脚が互いの左側面へ衝突する! 軋むクロームの騒音! ハウスキーパーは左のシールドで、アイロニーは歪んだ左腕で、相手の上段蹴りを防いでいた。だが……! 「イヤーッ!」「イヤーッ!」CRAAASH! 互いに、もう一撃の右上段蹴り! 互いの凝視が火花を散らす!

「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」

「「イイイイイヤアアアアアーーーッ!!!」」SMAAAASH!! 危険なブースター点火上段蹴りが互いにクリーンヒットし、ハウスキーパーは玄関脇のシンクへ叩きつけられた。ガラスの割れる音が響く。アイロニーが窓を突き破り、ベランダへと叩きつけられたのだろう。ハウスキーパーは顔を上げた。使命のために。

 帰るんだ。あの子の元へ。ハウスキーパーは震える脚を殴りつけ、立ち上がる。サツバツとした風が吹き込み、彼女の精神をヤスリがけするかのように削り取った。帰るんだ。……どこへ? 視界が滲んだ。ノイズめいた雨を背に、隻腕の人影が立っていた。それはいつかの自分だった。今まさに、過去が、追いついたのであった。

「イ--」「イヤーッ!」「グワーッ!」左腕のシールドが砕け散り、破片が頬を裂いた。アイロニーのリーチは長かった。砕け、捥げ落ちた自身の左腕を、鈍器のように振るっているのであった。「イヤーッ!」「グワーッ!」返す鈍器の左腕が顎を割り、ハウスキーパーはよろめいた。掠れた視界の中、時間を巻き戻すように窓が修復されていく。

 風も、雨音も、カラテシャウトも掠れて消えた。ハウスキーパーは踏み込んだ。その腹へ、アイロニーのケリ・キックが突き刺さり、彼女は再びシンクへ叩きつけられた。視界の先では、黒いシルエットとなった片腕のニンジャが、棍棒を振りかぶっていた。過去の情景。ヤスリで削られ、散っていく。ニューロンの彼方。

 滲み、散り散りになるような衝撃が幾度も響いた。やがて音が戻ってきた。それは荒い息遣いであった。「……ハァーッ、ハァーッ……ハイクは……ハァーッ、詠むか?」「フフ……アハハ……」ハウスキーパーは、どす黒く染まり、端の白く染まった景色で、それを見ていた。最後に残った記憶を。

「誰が、詠むものか……。ムゲン・プロパティ、バンザイ。……サヨナラ」ハウスキーパーは自爆プロトコルを実行した。体内のジェネレーターが暴走し、熱と死が胸の奥から駆け巡ってくる。アイロニーは右腕を振り上げている。ハウスキーパーは笑った。そうして、最後に残った記憶も消えた。

   

7


 セリーナ・ムゲンにとって、人間とは駒と同義であった。生まれてから、24 時間連続で、同じ人間と過ごしたことがなかった。人々はかわるがわる現れ、セリーナに必要な物を提供し、そして去っていった。本当に必要なものは、誰一人として与えてくれなかった。実の父親でさえも。

 物心ついた頃に彼女の担当となったのが、ハウスキーパーであった。彼女は優秀で、ほとんど常にセリーナへと付き従った。だがそれは『ほとんど』であった。ハウスキーパーは CEO 直属の護衛であり、セリーナ専属の従者というわけではなかった。それに、セリーナが求めいたものは従者ではなかったのだ。

 それは彼女と共に歩み、時に争い、和解し、喜びや悲しみを分かち合い、そして最後には、共に家の門をくぐる者。セリーナがセリーナである限り、手持ちの駒では絶対に見つからないモノ。……見つけたが、手に入らなかった者。だがそれらも全て、過去のことだ。

 セリーナは顔を上げる。誰よりも早く、結末を知るために。

   ◆

 視界を埋め尽くす白色がかき消え、アイロニーは一歩、二歩と踏み出した。砂利を踏む音。戻ってきたのだ。左腕は失われ、両脚のブースターも損傷。右腕もジェネレータ摘出時に大火傷を負い、全身は傷を負っていない部分を探す方が難しい状態であった。だが、生きていた。

 アイロニーは階段を見やる。そこにはセリーナが腰掛けている。少女はおもむろに立ちあがり、階段を駆け上がっていく。「……クソ。往生際が悪ィぞ」アイロニーは両脚を引きずるようにして歩き、這うように階段を上がっていく。それでもニンジャの速度だ。階段を上がったところで、セリーナが道端の車へ駆け込むのが目に入る。

 その車は生体 LAN インターフェースを備えた、見るからに場違いな高級車だった。こんな土手沿いに停まっているはずのない車だ。アイロニーは視線を走らせる。近くの屋台に持ち主らしきハッカーの姿が見える。バーガンディの LAN ケーブルヘア、見覚えのあるテックブルゾン……。「……クソが!」アイロニーは走った。

 車へと辿りついたとき、セリーナは LAN ケーブルを車のポートへ差し込んだところであった。その瞬間。「アバババババババーーーッ!?」セリーナの体は仰け反り、生体 LAN 端子が火を吹いた。目鼻からは血が流れ、失禁によるアンモニア臭が広がる。アイロニーは舌打ちと共に、毟り取るようにして LAN ケーブルを引き抜いた。

「……オイ」軽く肩を揺する。痙攣がおさまると、セリーナは薄く目を開いた。「……ア、アア」「……なンだ」「……アイロニー=サン、じゃん……オカエリ……」瞳孔は、ゆっくりと広がっていく。アイロニーは何も答えなかった。ただその心音が尽きるまで、彼女の体を支えてやっていた。

 ……後ろからの足音に、アイロニーは電撃的速度で反転し、右腕でスリケンを構えた。「オイ」ゴリ、とこめかみに冷たく固いものが押しつけられる。後部座席で気配を殺していた、ロックダウンの銃口だった。「オイオイ、オイ。エエ? テメェ、今、何しようとしやがった?」アイロニーは足音の主を見る。ハッカーニンジャのジェラスがそこにいた。

「ジェラスから聞いてな、テメェが面倒を起こすんじゃねぇかと思って見にきてやったんだ。そしたらどうだ。助けようとしたのか?」「……だったらなンだ」「ケジメが必要だろうが」撃鉄を起こす音がした。車内の空気がどろりと濁り、アイロニーの右手に力がこもった。……やがて、それは搾りすぎて破れた布のように、解けて散った。

 アイロニーがスリケンを落とすと、後部座席からは大きなため息が聞こえてきた。「ソウカイヤクザにゃ情けは無用だ。それはオマエが一番わかってんだろうが」「アア」「妹にでも似てたか?」「……」アイロニーは運転席を一瞥する。血と涙でぐしゃぐしゃになった、セリーナの顔を。「……いや」アイロニーは皮肉めいて笑った。

「……例によって、後の報告書とかは俺らの方でいいように仕上げといてやる。マージンは貰うからな」「アア」「さっさとサイバネ直してこいよ。次の仕事が待ってんだ」「アア、先に行っててくれ。……さすがに疲れた」「ア? こっちも気苦労が絶えないぜ、クソ野郎」車体が軋む。二つの気配がゆっくりと去っていった。アイロニーは沈み込むように助手席へ体重を預けた。

 ボロボロの右手で懐を探り、タバコの箱を取り出す。最後の一本だった。「……ハ」アイロニーはそれを咥え、火を探した。車にはシガーソケットがなく、またマッチもライターも見当たらなかった。「……」アイロニーは、隣で火花をあげ続ける LAN 端子に目をやった。それはまるで、焼け散ってゆくニューロンの瞬きのようで……。

「……フー……」紫煙が揺蕩い、様々な形を作り上げる。錆びつきそうになった関節をなんとか動かし、アイロニーは車を降りた。「……帰るとするさ」彼はぎこちなく、ゆっくりと歩き出す。運転席からは、まるでセンコのように、薄い煙が立ち上っていた。

【ノー・プレイス・フィールス・ライク・ホーム 終わり】

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