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[7タイプ創作のベース]3語族 アーリア人

 
問 アーリア人って何者なのか?

人種➡元来コーカソイド

最広義
➡インド・ヨーロッパ語族
紀元前4000年~紀元前2000年までコーカサス山脈周辺で遊牧民をしていたが、紀元前2000年以降大移動し、ヨーロッパ、オリエント、イラン(原イラン多神教➡ゾロアスター教)、インド(バラモン教)へ拡散。

アーリア人」はインドに移住してきたインド・アーリア人、イランに移住してきたイラン・アーリア人およびそれらの祖先のみを指す場合が多い。
 

 私は自分でも異常だと感じるくらい、全てのはじまりを知りたいと思うのです。もし死を迎えた後フヨフヨと漂うなら、自動的にはじまりを探すモードで漂っていたいです。自分の意識は、自分の関心があることを周りから拾います。同じ本を読んでも記憶に残る部分は人それぞれです。もし人類がこの先絶滅したとしても、はじまりを探す旅に自分の理解力(振動数)では終わりはないと思っています。もし、死後長い間同じ状態(振動数)であるなら、はじまりを探す意識体(振動数)でいたいです。
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https://youtu.be/Pngs4UjYc8g 俺の世界史ch
https://youtu.be/3MAH5gBrP7o 神野ちゃんねる
紀元前2000年以降 コーカサス山脈北側周辺に居たインド・ヨーロッパ語族が移動
➡ヨーロッパ コーカソイド(不明な点が多い) ゲルマン民族など
➡オリエント ミタンニ人 ヒッタイト人
➡イラン・アーリア人
➡インド・アーリア人

https://music.tokoshie-jp.com/2018/10/07/ancient-persian-religions/ ムジカとむかし ②と違うので判断に困ります。

⚪第一波がBC10000~BC2000年頃、シベリアから大移動して、ヨーロッパやイランに定着。

⚪第二波が紀元前1700年~紀元前1300年バルト地方など北東ヨーロッパからカスピ海、コーカサス地方へ進出。ヒッタイト、ミタンニなどの古代王国を作る。

⚪第三波(BC850~BC650年頃)
中央アジアから移動してきたアーリア人が3つの王国の基礎をつくった。
BC850年頃、メディア人・・中央アジアから北西イランへ進出。BC750年頃、ペルシャ人・・中央アジアから南イランへ進出。BC650年頃、パルティア人・・中央アジアから北東イランへ進出。

根拠が
http://iranpoliticsclub.net/maps/maps01/index.htm
⚪東條真人(1957年 - )氏で、[日本の工学博士、占星術師。1994年にミトレーアム・ジャパンを設立し、イラン・クルド・欧米の同志グループとともにミトラ教の復興運動(再構築・現代化)を進めている。東京大学大学院博士課程終了。 ミトラ教、スーフィズム、東方神智学の研究などを行なっている。]そしてロシア貴族出身で神秘思想家の ヘレナ・P・ブラヴァツキー氏に影響を受けています。
すごく判断に困りますが③は片隅に置きつつ、②が一般的な流れとしておきます。

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~Wikipediaより~
アーリア人は、狭義と広義で対象が異なる。広義には※?中央アジアのステップ地帯を出自とし、南はインド亜大陸、西は中央ヨーロッパ、東は中国西部まで拡大したグループ。狭義には✳1トゥーラーンを出自としたグループを指す。

概要  前15世紀以降イラン集団(イラン・アーリア人)が拡大していったと言われる。その後はテュルク・モンゴル民族の勃興と中央アジア・北部インド・西アジア 支配によりさらに細かい複数の集団に別れそれぞれが次第に独自の文化を形成していった。

現存する近縁の民族としては✳2パシュトゥーン人、✳3ペルシア人、✳4タジク人、北部インドの諸民族などがあり、彼らはアーリア人の末裔である。また、広義には現存の彼らを指してアーリア人と呼ぶこともある。

この項では基本的にはイラン・アーリア人、またそれらの最も近縁な共通先祖を、もしくは広義においてはその現存の子孫をアーリア人と呼ぶこととするが、アーリアン学説ではより広い意味でアーリア人という言葉を用いており、インド・ヨーロッパ語族に属する諸語を使う民族全般の祖をなすと想定された民族を指す。アーリアン学説における意味でのこのアーリア人を、この項では、アーリア人と呼ぶのではなく、アーリア人種と呼ぶ事にする。

アーリアン学説によるアーリア人、すなわちアーリア人種は多くの民族を子孫とするとして想定された。この✳5アーリア人種は※?元々インドに住んでいたが、中央アジアやイランへ広がり、更にロシアや東欧まで拡散したという。これによると、アーリア人には以下の狭義と広義が存在することになる。

※?
元々インド??ドラヴィダ人じゃなくて?ステップ地帯周辺か中央アジア出では?

狭義のアーリア人
(諸民族に分裂する以前):イラン・アーリア人
広義のアーリア人(現存の末裔民族も含む概念):インド・アーリア人
狭義のアーリア人:ペルシア人・パシュトゥーン人・タジク人・北インド諸民族
最広義のアーリア人(アーリア人種):インド・ヨーロッパ祖語を話していた民族と、その子孫

 広義のアーリア人の内、北インド諸民族のほとんどがインド・アーリア人を祖先に持つものであり、それ以外の上述されている民族はイラン・アーリア人を祖先に持つ。ただし、北インドのアーリア系民族の中にも✳6パールシーなどのように、イラン・アーリア人を祖先とする民族もある。パールシーはサーサーン朝のペルシア帝国滅亡後にインドに移ってきたゾロアスター教を信奉する古代ペルシア人の子孫である。

 現在狭義におけるアーリア人は消滅したと考えられている。これは絶滅したという意味合いではなく、その後アーリア人たちが地理的な離散などによってより細かい集団に別れ、次第に文化や言語も分離してそれぞれが上述のインド・アーリア人やペルシア人などの独立した民族を形成(さらに古代ペルシア人からパールシーやパシュトゥーン人が分離)することにより、単独民族としてのアーリア人がいなくなったことを指す。 ただし、「イラン」という国名自体ペルシア語で「アーリア人の国」を意味し、イラン最後の皇帝であるモハンマド・レザー・パフラヴィー(1979年にイラン革命による失脚で廃位)は自らの称号を「アーリア人の栄光」を意味する「アーリヤー・メヘル」に定めるなど、現在もペルシア人は自らをアーリア人であると自認する者が多い。

 尚、最広義のアーリア人(またはアーリア人種)という概念や呼び方は、元来は単なる学術上の仮説として想定された概念であるが、後にオカルティズムやナチズムと結びつき、人種差別や優生学を生み出した。しかしナチズムが想定していたような、ドイツ国民こそ最も純粋なアーリア人であるとする見解は現在では疑似科学だと見なされている。本項で取り扱う狭義のアーリア人は司祭が社会的に重要な地位であった。 自然現象を神々として崇拝する宗教を持っていた。

語源と名称の変化
英語で借用されたアーリア人 Aryan(古くはArianとも)の語源は、サンスクリット語の「アーリヤ (ārya)」とされる。古代イランのアヴェスター語にはairyaがあ、いずれも「高貴な」という意味で、アーリア人が自称した。また、インド・イラン祖語の*arya-か*aryo-に由来する。古代ギリシア人のストラボンエラトステネスがトロス山脈から東はインダス川までをアリアナ地方 と記録しており、その頃には地中海東部地域でも既知の民族名だったと言える。ただし、古代ローマの大プリニウスによる博物誌 6巻23章においてはAriaという古代イランのペルシア王国の統治下にあった現代のアフガニスタンのヘラートに当たる地域と混同されている。

宗教 
イスラム教以前のイランの宗教は✳7マズダー教(及びその内の多数派であるゾロアスター教)である。マズダー教の特徴として世界を善悪の二つの神のグループの戦いとしてとらえる。善神がアフラと呼ばれ、悪神はダエーワと呼ばれる。これに対して、インドの宗教はバラモン教であり、バラモン教の特徴として世界を善悪の二つの神のグループの戦いとして描写する局面を含有しつつも、リグ・ヴェーダ以来インドで一般に神を意味する単語はデーヴァであり、悪神はアスラと呼ばれる。

バラモン教 
バラモン教は、インド・アーリア人が創り出した宗教である。

バラモン教が影響を与えた他の宗教 
仏教は、バラモン教の習慣、言語習慣を用いて教えを説いた。
ヒンドゥー教は、バラモン教を土台に、その他の宗教を取り込んで再構成されたものである。
ジャイナ教は、仏教と同時期にヴァルダマーナによって提唱された教えで、より徹底した不殺生を説く。なお仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教の三者は成立以降、互いに影響し合って発展してきた経緯がある。
シク教は、ヒンドゥー教とイスラム教の宥和を目指して構築されたもので、両者の教義を取り入れている。

遺伝子 
アーリア人はハプログループR1a (Y染色体)が高頻度である。インド北部では48.9%、パシュトゥーン人に51%、タジク人に44.7%みられる。

アーリア人と関連した出来事 
⚪インド
紀元前2千年紀に、北西インド、パンジャーブでの牧畜が確認される。インド・アーリア人となる。

⚪中央アジア
イラン・アーリア人となる。
一部が古代アフガニスタンのアーリヤーナ(アーリア人の土地の意味)に興る。
中央アジアにはその後もアーリア人種が残り、後にスキタイ人が黒海からアゼルバイジャンまでの範囲に栄える。

紀元前2500年頃には、アーリア人種のものと思われる✳8アンドロノヴォ文化や類似する様式がアラル海やキプチャク草原、南西のトルキスタンで見られる。東✳トルキスタンでは紀元前4000年頃より遊牧が始められていた。
✳トルキスタン(西はカスピ海、東は中国、北はアラル海、イルティシュ分水界、南はアフガニスタン北部、イラン国境に及ぶ地域 (ロシア・トゥルケスターンあるいは西トルキスタン、今日のトルクメニスタン・ウズベキスタン・キルギス・カザフスタン・タジキスタン)、中華人民共和国の西北部の新疆ウイグル自治区 (シナ・トゥルケスターンあるいは東トゥルケスターン)、およびアフガニスタン北部の三地域に大別される。西トルケスタン、東トルケスタン、南トルケスタンとすることもある。面積は約150,000平方キロメートル。)

紀元前10世紀頃より、インド北西部から東のガンジス川に向かって移動するにつれ、宗教的な融合も始まる。後にアーリア人は、言語と宗教により認識されるようになる。

紀元前5世紀頃になり、ヴェーダが完成し、バラモン教の宗教的な形式が整えられる。

紀元前5世紀に成立した仏教がブラフミンの特殊性を否定したため、ブラフミンの支配を良く思わなかった王族クシャトリヤ階級に支持され、ブラフミンの地位は落ちて行く。

4世紀、新しい王の支持を受け、バラモン教を発展・継承するヒンドゥー教が作られる。
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✳1  トゥーラーン またはツランは、ペルシア語で中央アジア付近の地域のこと

概要  トゥーラーンとはイラン神話の登場人物トゥールに由来し、トゥールの土地という意味である。またトゥーラーン人はアムダリヤ川以北に住む民族で、イラン人と対比される民族である。トゥーラーン人はゾロアスター教の根本教典『アヴェスター』に登場するので、紀元前15世紀頃には居たようである。古代のトゥーラーン人はイラン系民族だったが、6世紀頃から7世紀ごろ、アムダリヤ川の北に居る✳9テュルク系民族を指す様になった。11世紀に書かれた『シャー・ナーメ』でもイラン神話を踏襲しつつも、文化的にはトゥールはテュルク系民族としており、中央アジアで古代のイラン人とつながりのないテュルク化が徐々に進んだという説もある。20世紀の西洋ではトゥーラーンは中央アジアを指すようになり、アルタイ諸語及びウラル語族(現在は支持されていないが、当時はウラル・アルタイ語族と呼んだ)系民族を表すイデオロギー的な用語として使用された。トゥーラーンは人名としても使用され、中東地域で一般的に見られる姓である。ジャコモ・プッチーニのオペラ「トゥーランドット」もこれに由来する。

用語  古代文学  アヴェスター 
トゥーラーン人に関し現存する最古の記録は約2,500年前 (言語学者推定) に構成されたアヴェスターのフラワシのヤシュトに見られる。「アヴェスター」には様々な部族の名前が記されており、彼らは互いに近い地域に暮らしていた。Gherardo Gnoli教授によれば、ヤシュト人、アーリア人、トゥーラーン人、Sairimas、Sainus、Dahisは繰り返し現れるイラン系民族である。アヴェスターの賛美歌によれば、形容詞形であるトゥールヤー はFraŋrasyan (シャー・ナーメではアフラースィヤーブと表記)のようなゾロアスター教の様々な敵と関連性がある。トゥールヤーという単語はガーサースには1回しか現れないが、アヴェスターの後半部分には20回も登場する。

トゥーラーン人はアヴェスターにおいて、SairimasやSainus、Dahisよりもより重要な役割を担っている。ゾロアスター自身はアーリア人に広く受け入れられたが、彼は周辺地域の他の部族にも説法をして回っていた。

メアリー・ボイスによれば、フラワシのヤシュト (143-144節) では、アーリア人 (彼ら自身のことをアヴェスター人と呼んだ) の間だけでなくトゥーラーン人、Sairimas、Sainus、Dahisの間でも、正しい男女のフラワシが褒め称えられている。また、彼らの個人名にはイラン系民族の特徴が見られる。トゥーラーン人とAiryaの間の敵対はフラワシのヤシュト (vv. 37-8)でも示されており、そこではフラワシはトゥーラーン人の集団に似たDanusに対する戦争の援助を提供していると言われている。従って、アヴェスターでは、ゾロアスター教を信仰するようになったトゥーラーン人もいれば、拒否した者もいた。

ゾロアスター教の古代の拠点と同様に、トゥーラーンの正確な地理や場所は不明である。アヴェスター後の伝統においては、トゥーラーン人はアムダリヤ川(4840 m流路: アフガニスタンタジキスタン・トルクメニスタン・ウズベキスタン)以北の地域に住んでいたと考えられており、アムダリヤ川はトゥーラーン人とイラン人を分け隔てていた。イラン人との絶え間ない抗争に見られる彼らの存在は、独立した国家や祖国の誇り、防衛に血を流す覚悟としてイラン人の定義を定める役割も担った。アヴェスターやシャー・ナーメに見られるトゥーラーン人の一般的な名前にはアフラースィヤーブやアグラエスラ 、ビデラフシュ 、アルジャスパ 、ナムフワストが含まれる。アヴェスターに現れるものを含めたイラン系民族の名前はアヴェスターに現れる個人名の語源に関した概説書「Iranisches Personennamenbuch, I: Die altiranischen Namen. Faszikel l, Die Avestischen Namen」の中で、Mayrhofer教授により研究されている。

サーサーン朝後期と初期イスラム帝国時代 
歴史における、遊牧系民族による北東部の境界への継続的な侵入によりトゥーラーン人の記憶が生き続けることとなった。6世紀後、他の部族により西へと追いやられたテュルク系民族はイラン系民族と近接して暮らすようになり、トゥーラーン人と認識された。テュルク系民族をトゥーラーン人と識別するようになったのは7世紀前半頃とされている。テュルク系民族は6世紀にイラン系民族と初めて接触した。

C.E. Boseworthは以下のように述べている。
イスラム時代初期、ペルシア人はホラーサーン北東部と、フェルドウスィーのシャー・ナーメではフェリドゥーンの息子トゥールに割り当てられた土地とみなされていた、トゥーラーンの地域にあるアムダリヤ川より手前にあるすべての土地を自分たちの土地と考える傾向にあった。トゥーラーンの住民にはテュルク系民族が含まれていた。彼らはイスラム帝国建設以降の4世紀の間は本質的にヤクサルテス川を超えた地域で遊牧生活を送っていた人々であり、彼らの領土をさらに超えた地域には中国人が住んでいた 。その後トゥーラーンは民族的、地理的用語として使用されるようになったが、この用語には常に曖昧さや矛盾が含まれていた。これは、イスラム帝国時代を通してトゥーラーンの土地はアムダリヤ川を超えるとすぐの地域であり、同時にその下流域はソグディアナ人やホラズム人のような、テュルク系民族ではなくイラン系民族である人々の故郷であったという事実から生じている。

テュルクという単語とトゥーラーン人という単語はイスラム帝国時代にほぼ同義語として使用されるようになった。シャー・ナーメ (王の書) では2つの用語を同等なものとして使用している。Tabariやハキーム・イーラーンシャーを含む他の作家もこれに続いている。はっきりとした例外としてアラブの歴史家アブル=ハサン・アリー・イブン・マスーディー がおり、彼は「アフラースィヤーブはテュルクの土地において誕生しており、歴史家や非歴史家が彼をテュルク人であるとみなす誤りを犯すのはこれが理由である。」と述べている。10世紀までに、アフラースィヤーブの神話はカラハン朝に取り入れられた。サファヴィー朝時代には、シャー・ナーメから続く使用法の伝統により、トゥーラーンという用語はサファヴィー朝と対立するウズベク・ハン国の領域を指す用語として用いられた。

複数の言語学者が、トゥーラーンという単語はインド・イラン語派の語根トゥーラ- (強い、速い、剣(パシュトー語)を意味する) に由来していると述べており、パシュトー語でトゥーラーン は「剣士」を意味する。他の関連として、古ペルシア語でトル (tor、闇や黒を表す) が指摘されており、これは新ペルシア語の「タール 、パシュトー語のトル 」との関連性がある。このケースでは、✳アールヤー に暮らすゾロアスターの「明るい」文明と対比して、中央アジアの遊牧民の文明を「昏い」文明であると表現するために用いられたと考えられている。

シャー・ナーメ 
ペルシアの叙事詩シャー・ナーメでは、イーラーンがアールヤー の土地を意味するように、トゥーラーンという単語 (トゥールヤー の土地を意味する) はイラン東部の境界、アムダリヤ川の対岸より先に居住する住民を表していた。シャー・ナーメに収録されている創世神話によれば、フェリドゥーン王は3人の息子を儲けた、サルムとトゥール、イーラジュであり、彼らは世界を三分し、小アジアはサルムにトゥーラーンはトゥールに、 イーラーンはイーラジュに与えられた。兄2人は1番年下の弟を殺害したが、彼らは弟の孫により復讐され、イーラーンの支配者となった。しかし、シャー・ナーメでは戦争は世代を超えて継続されたと記されており、トゥーラーンという単語は約150回使用され、イーラーンという単語は約750回使用されている。

シャー・ナーメには以下の文が記されている。
トゥーラーン軍の剣士の多くは砂、海、山脈を見たことがない人々だ。力強い肉体を持ったロスタムはトゥーラーン軍との戦いに赴いた、獲物を見つけたヒョウのごとく。

近代文学  地理 
20世紀初頭より、トゥーラーンという単語は西洋諸国の言語において中央アジアを表す一般的な用語として使用されてきた。トゥーラン・プレーンやトゥラン低地は 中央アジアの一部を表す地理学用語である。

言語 
現在はほとんど使用されていないトゥーラーン人という用語は以前はヨーロッパ人、特にドイツ人、ハンガリー人、スロバキア人の民族学者、言語学者、ロマン主義者により非インド・ヨーロッパ語族、非セム語派、非ハム諸語の言語。特にアルタイ語族、ドラヴィダ語族、ウラル語族、日本語、朝鮮語、その他の言語を話す人々を表す語として使用されていた。

フリードリヒ・マックス・ミュラーは、トゥーラーン人の言語系統を異なる語派に分類した。北部もしくはウラル・アルタイ系統としてツングース諸語、モンゴル語、テュルク諸語、サモエード諸語、バルト・フィン諸語に、南部方言としてタミル語、カンナダ語、テルグ語、マラヤーラム語などのドラヴィダ語族を分類した。コーカサス諸語はトゥーラーン語族からの派生言語に分類された。これらはミュラーの仮説であり、現行の言語学上の分類とは異なる。ミュラーは中国語は北部と南部どちらに属するかということも考察の対象とした。

ドラヴィダ語族、ウラル語族、アルタイ語族の間の主な関連性は類型的なものであると考えられている。ブリタニカ百科事典によれば、「言語の歴史的な研究において考察された語族については、文法構造に見られるある種の支配的な特徴を共有していることを挙げることで、極端に独立した言語分類と混同するべきではない」。現代の言語は類型的な特徴ではなく比較言語学的な方法に基づいて分類されている。ブリタニカ百科事典によれば、マックス・ミュラーの分類は、類似性の指摘が容易であったセム語派の場合にはほぼ成功しているが、初期の言語起源を仮定のみに基づいて同定したトゥーラーンの人々の言語においてはほとんどといっていいほど機能していない。トゥーラーン人という単語は言語分類を主とする学術会合ではもはや使用されていない。19世紀ヨーロッパ文学ではトゥーラーン人として話者区分を行ったウラル語族とアルタイ語族の間の関連性もまた不確かである。

イデオロギー (人間の行動を左右する根本的な物の考え方の体系。観念形態。俗に、政治思想。社会思想。)
ヨーロッパの見地からの研究では、トゥーラーンやトゥーラーン人という単語はある特定の精神面を表すことを企図して使用されており、例として都市化された農業文明に対する遊牧民的生活を指すという物がある。この使用法はトゥールヤーというゾロアスター教の概念との関連性が指摘されている。トゥールヤーは言語的、民族的な区分を目的とした単語ではなく、ゾロアスター教の教義に則った文明を認めない異教徒を指す言葉であった。

自然人類学の見地からは、トゥーラーン人の精神という概念は文化的な論争の余地が認められる。1838年、学者のJ.W. Jacksonはトゥーラーン人種を以下の形で表現した。

トゥーラーン人は物質の力が人格化したものである。彼らは最大集団の発展の中にあっては単なる1個の男にすぎない。彼らは本質的に野蛮ではないものの、根本的に蛮族である。彼は手が直接口に結びつくような獣同然の生活をしているわけではないが、真なる人間の持つモラルや知性を完全には持ち合わせていない。彼は労働し貯蓄を行うことができるが、コーカサス人のように考察したり志を抱くことはない。これら優れた人間生活の2大要素が欠けていることで、彼はその能力以上に想念に欠損がある。後者においては、彼は着想の創造よりも知識の習得に貢献するような人々に提供される。
イランの愛国主義的な詩人モハンマド=タギー・バハールによると、トゥーラーンという名前はアヴェスターのTau-Raodanに由来しており、これは川の遥か彼方を意味する (この表現に現れる「川」はアムダリヤ川を指すと考えられる。) バハールはテュルクという単語は中世ペルシア語で「戦士」や「騎手」を意味するテュールーク に由来しているとも語っている。

ポーランドの哲学者フェリクス・コネチュニは「トゥーラーン文明」という独自の文明が存在すると主張しており、この文明はテュルク系民族とロシア人のようなスラヴ系民族を包括している。この文明の特徴として軍国主義、反知性主義、支配者への絶対服従を挙げている。コネチュニはこの文明はラテン系民族 (西ヨーロッパ) の文明に本質的に劣ると見ている。

政治 
衰退期にあったオスマン帝国では、トゥーラーン人という単語はトルコの愛国主義者により汎テュルク主義 (別名:トゥーラーン主義) というイデオロギーとして使用された。現代において、トゥーラーン主義はトルコの政党である民族主義者行動党 (MHP) のイデオロギーの重要な側面を形成しており、党員は灰色の狼として知られている。

現代においてトゥーラーン人という単語は時に汎アルタイ主義 (理論上はテュルク系民族に加えて満州民族やモンゴル人を含み、日本人や朝鮮民族を含むこともある) として使用されることが有るが、汎アルタイ主義を全面に押し出した政治組織はまだ存在していない。

名前 
トゥーラーンドフト  はイランの女性名であり、ペルシア語でトゥーラーンの娘 (ドフトル) を意味する。ジャコモ・プッチーニ作のオペラであるトゥーランドット (1921-24) はこの名前から採られている。

トゥーラーンという人名 (トゥーラン、トゥラン) は中東地域で一般的に見られる名前であり、バーレーン、イラン、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、トルコなどで姓 (家族名) として使用されている。

古代イラン神話においてトゥーラーンの人々の祖先とされるトゥーラージュ  もまた一般的な名前であり、「闇の子孫」を意味する。イラン神話によると、トゥーラーンという名前はトゥーラージュの祖国に由来している。デフホダー辞書によると、パフラヴィー語におけるトゥーラージュの発音はトゥーズフである。同様に、広く用いられている名前イーラージュはシャー・ナーメにおいてトゥーラージュの兄弟とされている。トゥーラージュは又の名をザーラージュといい、これは金の息子を意味する。
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✳2パシュトゥーン人
  紀元前2世紀後半に北方からイラン高原の東部に侵入したと伝えられており、もともとの居住地は、カンダハール(アフガニスタン)の東にあるクーヒ・スライマーン山脈の近くにあったと伝承されている。

10世紀頃にイスラーム教を受け入れ、のちにイランのサファヴィー朝やインドのムガル帝国の支配を受けた。その一派は18世紀初頭にサファヴィー朝に対して反乱を起こし、1722年に首都イスファハーンを陥落させるが、アフシャール朝のナーディル・シャーに敗れた。ナーディル・シャーの死後、彼に従っていたドゥッラーニー族のパシュトゥーン人アフマド・ハーン・アブダーリーはアフマド・シャー・ドゥッラーニーを名乗りカンダハールでアフシャール朝から自立し、アフガニスタン国家の起源となるドゥッラーニー朝を建国する。ドゥッラーニー族が支配するアフガニスタンでは、パシュトゥーン人部族の有力者(貴族)が国家のあらゆる側面で力を持ち、国家を支配してきた。民族の居住地域が大きく分散していないにもかかわらず、2つの国家に分割されているのは、19世紀当時にアフガン戦争によってこの地域を支配下に置いていたイギリスが、保護国アフガニスタンと植民地インドとの境界を民族分布を考慮せずに引いたためである。1893年の国境線(デュアランド・ライン)の画定に伴い、パシュトゥーン人の居住地域は、アフガニスタンと現在のパキスタン北西部に分かれることとなった。
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✳3 ペルシア人
狭義の「ペルシア人」 もっとも狭義のペルシア人は、現代のイランにおける民族集団ファールスィーの訳語であり、またその直接の先祖であるとみなしうる現在のイランの領域で活動したペルシア語話者の定住民たちを指して用いられる。

ファールスィーは、ペルシア語で「ファールスの人」を意味するが、ファールスは古代イランにおけるパールサのことであり、「ペルシア」の語源となった地名である。したがって、現代ペルシア語のファールスィーと日本語を含む外国語の「ペルシア人」は語源からみてほぼ同一の語である。イランにおけるファールスィーすなわち「ペルシア人」は、1935年に同国が国名をイランと呼ぶことを正式に決定し、その国民はイラン人と呼ばれるようになったとき、これ以降、ペルシア語を語る国内の最大多数派の集団を呼ぶ民族名称として定着した用語である。定義次第で幅があるが、現在のイランの人口のうち約50%〜70%が「ペルシア人」である。そもそも民族識別自体が、言語をもとにしているので、方言的な言語をどの程度までペルシア語とするかによって幅は異なる。現代イランにおける「ペルシア人」の民族的特徴を最大公約数的にまとめれば、現代ペルシア語を母語とし、都市および農村で定住生活を送り、大多数がシーア派の十二イマーム派を信仰している、という点である。

前イスラーム期 
前イスラーム期の歴史叙述では、古典古代の諸言語における「ペルシア人」を受け継ぎ、ハカーマニシュ朝(アカイメネス朝)やサーサーン朝の人々に対する民族名称として「ペルシア人」が頻繁に用いられる。この文脈におけるペルシア人は、これら「ペルシア帝国」の主要な担い手となったパールサ地方の人々のみならず、ハカーマニシュ朝やサーサーン朝の民というような意味合いを帯びることもあり、この意味では、西方において半独立の辺境域の人びとでもペルシア人と呼ばれることがある。こうした傾向は古代ギリシャ語・ラテン語を主たる史料とするローマ帝国史のみならず、ペルシアそれ自体を研究するペルシア帝国史においても同様である。この事情は近代以降のヨーロッパだけではなく、ヨーロッパから歴史学を西洋史学として輸入した日本においても長らく同じであり、特にペルシア帝国史の専門研究の外に対しては「ペルシア人」の用法は深く定着しているといってよい。しかし、近年はハカーマニシュ朝史、サーサーン朝史の叙述では、それぞれの帝国にかかわった各集団を厳密に定義して呼び分け、全体を漠然とペルシア人ということは少なくなりつつある傾向がみられる。この背景には、研究の深化や、従来の近代ヨーロッパからの東洋研究において東洋と西洋を対置し、東洋を非普遍的なものとして位置づけるオリエンタリズム的な視点が関わっていたことへの批判の存在が指摘できる。一方、この時代の中央アジア方面のペルシア語系の言語の話者については、従来からソグド人やイラン系といった用語が日本の歴史研究では好まれてきた。東からの視点で「ペルシア」が叙述される際には、「ペルシア人」はサーサーン朝治下の人々を限定的に指すことが多い。こうした東洋史研究者の用例は、一般的な日本語における広義の「ペルシア人」の定着と比べるときわめて対照的である。東洋史研究において漠然とした「ペルシア人」の呼称が好まれない理由としては、西方の場合と同様に、広義の「ペルシア人」の用法がオリエンタリズム、あるいはその日本における特殊な形態であるシルクロードイメージと密接に関連するため、研究者の文脈では好まれないという背景が指摘できる。日本において東からの視点で「ペルシア人」を語る際には、例えば正倉院の中央アジア伝来の宝物に対するロマンチシズムと結びつき、はるかシルクロードの彼方から訪れた幻想的な人びと、「天平のペルシア人」といったイメージが付与されがちであり、古代の「ペルシア人」はシルクロードイメージと強く結びついてしまった。こうした古典的なシルクロードイメージは、かつて日本で盛んであった東西交渉史研究とも関係が深いが、現在の日本の中央アジア史や中央ユーラシア史、インド史研究からは、シルクロードの叙述は中国とローマ・ペルシア間の東西長距離交易を強調して中央アジアを単なる通過点とする視点に偏っており、実際にはオアシス間・南北交易も盛んであった中央アジア史の実際を誤ってとらえさせるものとする批判に耐えられなくなっている。このような事情により、現在の日本の東洋史研究では広義の「ペルシア人」はほとんど使われることがなくなってしまった。

イスラーム期 
勃興から短期間のうちにサーサーン朝の旧域をほとんど支配するにいたったイスラーム勢力のもとでは、当初サーサーン朝の地方行政組織が温存され、サーサーン朝の人々はゾロアスター教を信じ、ペルシア語を母語とするままイスラーム勢力の支配下に入った。初期イスラーム史で「ペルシア人」といわれているのはこうした旧サーサーン朝の人である。また、アラブ人は彼らを前述したようにアジャムと呼んだが、アラビア語史料上のアジャムも歴史叙述の上では「ペルシア人」と言い換えられることがほとんどである。アッバース朝革命でしばしば言及される「ペルシア人」は、こうしてアラブに対してアジャムと呼ばれたイラン高原周辺の人々であり、アッバース朝期にイランで成立した諸王朝が「ペルシア人の王朝」と呼ばれるのは、これらを建国した王家がアラブではなくアジャムの出自をもっていたからである。後の時代にこの地方の歴史の新たな担い手としてテュルク系の民族が流入してくると、歴史叙述上の「ペルシア人」はテュルクに対してイラン人あるいはタジク人と自称した人々を指すようになる。サファヴィー朝とシャイバーン朝のもとでのイラン世界の東西文化が進むと、歴史叙述で使われる「ペルシア人」はサファヴィー朝治下の、主にシーア派を信仰するペルシア人たちを限定的に指すことが増え、狭義の「ペルシア人」である現在のファールスィーに意味あいが近くなる。これに対して、シャイバーン朝以降の中央アジア方面では「タージーク」という記述が多くなり、中央アジアのペルシア語を語る人びとを「ペルシア人」と呼ぶことは相対的に減少する。ガージャール朝のころになると、日本語の歴史叙述ではもはや「ペルシア人」という呼称はあまり用いられず、もっぱら「イラン人」となる。現代の文脈では、イラン人のうち特に民族分類上「ファールスィー」に属する人を特に指したいときにのみ「ペルシア人」が使われていると言ってよい。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――✳4タジク人 は、タジキスタンに居住するスキタイ遊牧民であった東イラン系の人々を指す近現代的民族区分である。総人口約1650万~2550万人

起源 
タジック人とテュルクは元々古代から中央アジアに住み、中央アジアを起源にする。スキタイ遊牧民であったタジックはアルタイに住む遊牧民に多くの影響を与えた。もともとは古代から近世にかけての中央アジアやイラン高原といった中央ユーラシアの乾燥地帯において、住民を2つのグループに大別しタージーク(タジク)とテュルクと呼んでいたことに由来する。ここでいうタジクとは、ペルシア系の言語を使い、都市あるいはオアシスに住む人が多く、都市文化になじんだ諸集団に属する人々。一方テュルクとは、ペルシア系の言語の影響を強く受けたテュルク系の言語を使い、多くは都市やオアシスの間に広がるステップ地帯でに住む遊牧民の諸集団に属している人々の意味であった。

現在タジク民族とされている人々は、スキタイの遊牧民牧るバクトリア人、ソグド人、サカ人など、中央アジアの歴史に名を留める多くの民族の系譜を引いている。タジク民族の基となったタージークと呼ばれる諸集団の原型は、9世紀から10世紀に東イラン語を話していた古バクトリア人及びソグド人が西イラン語に属するダリー語(ファルシー語)を話すようになっていった9~10世紀に形成された。この地域の遊牧民の言語的、文化的テュルク化までには、この言語を話す人々は、ギンドゥクシャ北方及び南方の広範囲なオアシスに広がり、定住するに至っていた。

語源 
語源は不明。しかし一説に、ペルシャ語で「王冠」を意味する Taj に由来し、民族衣装のタジク帽の形状を表す。あるいは、アラブ系の部族であったタイイ人と同語源であるともいう。

人種 
ペルシア系(イラン系)に属するために、基本的にはコーカソイドでY染色体ハプログループとしてのR-Z94が高頻度~中頻度でみられる。そして、モンゴロイド起源の遊牧民であるテュルク系諸族の遺伝子ハプログループC2がみられる特徴がある。

宗教 
現在のタジク人の宗教はイスラム教であるが、宗派はスンナ派が主流であり、少数派の中ではイスマーイール派が多い。これはイランにおける狭義のペルシア人が主に十二イマーム派であるのとは対照的である。

言語 
西イラン語群に属するペルシア語系の言語(アフガニスタンではダリー語、タジキスタンおよびウズベキスタンではタジク語と呼ばれる)が主流で、少数の集団は東イラン語群に属するパミール語(中国ではこの系統の言語がタジク語と呼ばれる)やヤグノビ語などを話す。

各国のタジク人 
⚪アフガニスタン 
現在のアフガニスタン北部に居住するタジク人は、ドゥッラーニー朝の創設者アフマド・シャー・ドゥッラーニーにより王朝支配下の構成集団に編入された。これが近代国家として認識されるようになる、近現代アフガニスタン国家の国民として、タジク人が含まれるようになる起源である。それ以来、パシュトゥーン人の統治者は、国の統治に当たって、タジク人を考慮に入れざるを得ず、1936年まではタジク人が使用するダリー語が唯一の公用語だった。

ただし、アフガニスタンのような中央ユーラシア世界では、テュルク系を主体とする遊牧勢力が、得意とする騎馬軍事力を基に軍事力、王権、政治を担当し、都市文化に精通し、文書事務を得意とするタージーク勢力が拠点都市で文書行政を担当するという構図は、中世から近世にかけては普遍的なものであった。アフガニスタンの場合にも、この時代の遊牧軍事勢力としては珍しく、テュルク系ではなく、インド・イラン語派の言語を使用するものの、遊牧騎馬軍事勢力たるパシュトゥーン系の王権勢力が、自らは騎馬軍事、王権、政治に専念し、文書行政を都市やオアシスを拠点とするタージーク勢力にまかせ、タージーク勢力の言語を行政公用語として採用するという事自体、中央ユーラシア世界の文化状況としてはごく普通の現象であった。

また、1776年、アフガニスタンの首都は、パシュトゥーン人の優勢なカンダハールから、タジク人が優勢なカーブルに移転された。これも、テュルク系集団やパシュトゥーン人のような遊牧軍事勢力が都市内と都市外近郊を移動しつつ軍事と政治の中枢を独占し、文書行政事務は、タージーク勢力が、その拠点都市の行政機関に居を置いたり、移動する宮廷に随伴して担当するという、中世から近世にかけての中央アジアの政治・行政状況の一般形態と共通した現象と見ることもできるし、王権中枢勢力とある意味対等な側面を有する他のパシュトゥーン人諸集団は、必ずしも王権中枢を構成するパシュトゥーン系勢力にとって安定的に忠誠を期待できる安全な存在ではなく、王権に忠誠を誓う官僚集団を輩出するタージーク勢力の方が王権中枢のパシュトゥーン系勢力にとっては信頼が置けたという側面も考慮できる。

現在、タジク人は、ヘラートのオアシス、ヒンドゥークシュ山脈の南斜面のパンジシール州、ゴルベンド及びサラングの峡谷並びに北東辺境のバダフシャーン州の3大地域に集中している。

タジク人は、平野人と山岳人の2つのグループに分けることができる。平野人は、比較的早期にパシュトゥーン人君主に服従した。平野人の大部分は、スンニー派である。平野タジク人は、伝統的にパシュトゥーン人統治者に忠実であった。パシュトゥーン人は元来遊牧集団の常として多核的で非中央集権的な集団構成原理を持ち、王権に対して分派活動をとる者達も出てくることが稀ではない。そのため平野タジク人は、他のパシュトゥーン系集団の蜂起を鎮圧する際に、王権中枢を構成する集団以外のパシュトゥーン系集団への対抗勢力としての兵士として利用され、その上層部は王国において文書行政官僚のみではなく、軍人貴族をも形成した。

山岳タジク人は、非常に独立精神に富み、かつ好戦的であり、パシュトゥーン系王権に反抗的で、アフガニスタンの歴史を通して、反乱や戦争が絶えなかった。山岳タジク人は、主としてスンナ派とシーア派に分かれ、バダフシャーン州ではニザール派に属している。ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻や、その後の内戦の際には、アフマド・シャー・マスード等のような有能な野戦指揮官を多数輩出している。

⚪タジキスタン 
1929年12月5日、タジク・ソビエト社会主義共和国が設立された。タジキスタン共産党初期の要員は、南部人、カラテギン(沿パミール地区)、パミール及びクリャーブの一部の代表者から形成された。ボリシェビキの政策は、山岳人が閉鎖的な生活様式を変える契機ともなった。カラテギンだけはイスラム教の影響下に残され、タジキスタンの現状にも影響している。1937年、最初にタジク革命政府を樹立した南部人は、完全に粛清された。第二次世界大戦後、ホジェント出身者に権力が移った。ホジェント(旧レニナバード)は、イスラム神学のエリート、ホージャの領地である。その規律と互助は、彼らが80年代に至るまで権力を維持することを助けた。しかし、パミール人とクリャーブ人も、権力闘争に加わり始めた。最南部地域のクリャーブは、イスラム保守主義に晒されず、迅速に新しい価値を受け入れたが、その代表者達は、党指導部において常に二次的な役割に甘んじ、地区自体は常に最貧地区の1つだった。ゴルノ・バダフシャン自治州の住民であるパミール人は、他の地域とは異なる民族、文化、言語を有し、宗教的にはイスラム教シーア派の一派であるイスマーイール派に属する(タジク人の多くは、スンニー派)。タジキスタンにおける科学と文化は、サマルカンド及びブハラ出身者が担った。

⚪ウズベキスタン 
1929年12月5日のタジク・ソビエト社会主義共和国設立時、約140万人のタジク人がウズベク領内に残されて、ウズベキスタンの人口の5%を占めている。

⚪中国 
今日の中国領版図内では、タジクの人々は、伝統的にタリム盆地(新疆ウイグル自治区)西部の都市やオアシス集落を拠点としてきた。宗教はタジキスタンと異なり、住民のほとんどがシーア派のイスマーイール派(7イマーム派)に属する。また、言語もパミール語系のサリコル語やワヒ語を用いる。

中国では、清代から民国期にかけ、新疆を「回疆」(「ムスリムの土地」の意)、その住人達を「回部」(「ムスリムたちの集団、組織」の意)と称し、同君連合的構成原理を持つ清朝属下の諸種族を「五族(満・蒙・回・蔵・漢)」と総称する際には、タジク系諸集団を、テュルク系の諸集団とともに「」の概念で一括してきた。

辛亥革命後、中華民国では、近代的国民国家としての体制を確立するため、建国直後より、旧清朝属下の諸政権に属する国民を、歴史的に古代以来の中国国民である「中華民族」なる固有の民族であると、政治的に定義し、その構成要素たる五族共和を謳った。さらに中国共産党が政権を奪取し、中華人民共和国が成立すると、その内部を言語や文化の差異にもとづいて民族別に区分する民族識別工作を行い、漢族と「55の少数民族」とに区分した。タジク系諸集団は、この措置によって、「タジク族(塔吉克族)」として、独立したひとつの「少数民族」としての地位を獲得した。
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✳5アーリアン学説、アーリア人種論 は、インド・ヨーロッパ語族の諸言語を使う全ての民族を、共通の祖先アーリア人から発生したものとする学説。この場合、アーリア人という名前は拡大解釈される。この拡大解釈された意味でのアーリア人をアーリア人種と呼ぶことがある。学説としての根拠に乏しく、アーリア神話とも呼ばれる。

インド・ヨーロッパ語族の発見 
アーリアン学説は、インド滞在中のイギリスの法学者・言語学者ウィリアム・ジョーンズの諸言語の比較研究を端緒とする。彼は1786年にイギリス植民地下のインドのカルカッタに高等法院判事として赴任し、サンスクリット語の研究を手掛けた。サンスクリット語の語彙の豊富さや文法構造を称賛し、それがギリシア語やラテン語をはじめとするヨーロッパ諸言語と非常に類似していることを指摘した。ショーンズはこの事実から、それらの言語のほか、ゴート語、ケルト語、ペルシャ語などインドやヨーロッパの諸言語が全て「ある共通の源」から派生したという学説を立てた。後に考古学者のトーマス・ヤングが同学説を支持し、インドやヨーロッパの諸語は共通する起源をもつ言語の集合であるとして、「インド・ヨーロッパ語族(印欧語族)」と名付けた。この時点では、あくまでこの研究は言語学の「言語類似性」の問題で、「人種」や「民族」に関連する議論ではなかった。

アーリア人種仮説へ フリードリヒ・マックス・ミュラー
 この学説は、多くの学者によって継承・展開され、比較言語学におけるヨーロッパの諸言語の起源への問いは、徐々に「ヨーロッパ文明の起源」そのものへの問いに移り変わっていった。ヒンドゥー教の聖典『リグ・ヴェーダ』を翻訳したドイツ人のマックス・ミュラーが、この潮流に大きな役割を果たした。ミュラーは、インドに侵入したサンスクリット語を話す人々を、彼らが自身を「アーリア」と呼んでいたという理由で、「アーリア人」と呼ぶべきであるとした。インド・ヨーロッパ諸語の原型となる言葉を話していた住民は共通した民族意識を持ち、彼らがインドからヨーロッパにまたがる広い範囲を征服して自らの言語を広めた結果としてインド・ヨーロッパ諸語が成立したとする仮説を唱えた。ミュラーは、アーリア人はインドから北西に移住していき、その過程で様々な文明や宗教を生み出したと主張した。

19世紀には、「アーリア人」は、上記のような想定された祖民族という趣から進んで、「インド・ヨーロッパ語族を使用する民族」と同じ意味に使われ、ヨーロッパ、ペルシャ、インドの各民族の共通の人種的、民族的な祖先であると主張された。通常、「アーリアン学説」と呼ばれるのはこの時代の理論である。ミュラーは晩年、自身の学説が根拠に乏しいことを認めているが、「諸文明の祖」であるアーリア人という魅力的なイメージは、多くの研究者や思想家によって広まっていった。ナチズムを研究する浜崎一敏は、「アーリア人種」 とは、「もともと言語学の概念であったものを生物学的人種論領域に移し替えて捏造した言葉」であると述べている。

アルテュール・ド・ゴビノー
宗教学者の大田俊寛は、拡大されたアーリアン学説の典型的な例として、フランスの作家アルテュール・ド・ゴビノーをあげている。彼はアーリア人種の優越性を説いた人種論の祖として知られる。『人種不平等論』(1853-55年)で、人類を黒色人種・黄色人種・白色人種に大きく分け、黒色人種は知能が低く動物的で、黄色人種は無感動で功利的、白色人種は高い知性と名誉心を持ち、アーリア人は白色人種の代表的存在で、主要な文明はすべて彼らが作ったと主張した。

この理論はイギリスとドイツで特に盛んに主張されたが、その背景は大きく異なっている。イギリスの場合はインドの植民地支配において、「イギリス人によるインド人支配」を正当化するために利用された。インドがイスラム教徒により支配される前はヒンドゥー教徒が支配しており、ヒンドゥー教徒の支配階級はアーリア人またはアーリア人との混血を起源としていたためで、イギリス人は支配階級のヒンドゥー教徒とイギリス人が同じ民族であると主張する事で、自己を支配者として正当化しようとしたのである。

ドイツでは、作曲家ワーグナーなどが、アーリアン学説を肯定した上でドイツ人が最も純粋なアーリア人の血を引く民族であると主張する事で、近代になって形成されたに過ぎない自民族の権威付けに用いた。ゴビノ―のアーリア人種至上主義は、ヒューストン・ステュアート・チェンバレン(ワーグナーの娘エヴァの婿)の『十九世紀の基礎』(1899年)に継承され、そこでは理論はさらに先鋭化され、アーリア人種の中でもゲルマン人こそ最も優秀な民族であると主張された。『十九世紀の基礎』はドイツでベストセラーになり、彼の理論は後にナチズムのイデオロギーを支える重要な柱となった。20世紀初頭のドイツ人は、「アーリア人種」という神話を「民衆思想の一部」となったといわれるほど広く受け入れ、「金髪、高貴で勇敢、勤勉で誠実、健康で強靭」というアーリア人種のイメージは彼らの理想像となり、アーリア人種論はヒトラーの思想形成にも影響を及ぼした。ドイツ民族こそがアーリア人種の理想を体現する民族であり、ドイツ的な「精神」が「アーリア人種」の証とみなされた。アーリア人種はドイツ民族と同義語になり、人種主義はドイツ・ナショナリズムを統合するものになっていった。

アーリア人種至上主義への展開  
 また、ミュラーの理論をはじめとするアーリアン学説に大きな影響を受けた神秘思想家の ヘレナ・P・ブラヴァツキーは、自身が創始した近代神智学において、アーリアン学説を宇宙的進化論を描く壮大な世界観に取り入れ、現代の人類は、大西洋にあったアトランティス大陸の「第四根源人種」から進化した「第五根幹人種」という段階にあり、その人種はアーリア人種であるとした。

神智学では、やがてアーリア人を超える新しい人類が誕生するとされており、アーリア人種中心史観や優越論の傾向はあっても、アーリア人種至上主義ではなかったが、オーストリアやドイツで神智学とアーリア=ゲルマン人種至上主義が広まると、両者が結びついて「アリオゾフィ(アーリアの叡智)」という、アーリア人種至上主義を神智学の世界観で再解釈した思想が生まれた。この思想はグイド・フォン・リストやランツ・フォン・リーベンフェルスらによって提唱され、アーリア人こそが神人であると主張された。アリオゾフィーはもともとイェルク・ランツ・フォン・リーベンフェルスが1915年に使い始めた造語で、ランツは自らの教説を「神聖動物学」とも「アリオ=キリス教」とも呼んだ。一方、グイド・フォン・リストは自分の教義を「アルマニスムス」と呼んでいた。アリオゾフィの歴史やナチスにまつわる現代のオカルト神話について研究した秘教史家ニコラス・グドリック=クラークは、アリオゾフィを広くアーリア人至上主義的なオカルト人種論を指す言葉として用い、ランツとリストの両名をアリオゾフィストの括りに入れている。20世紀初頭に始まったアリオゾフィの思想運動は、ドイツやオーストラリアで徐々に勢力を拡大した。

大田は、この思想運動がナチズムの源流の一つを形成することになったと述べている。この運動において、アーリア=ゲルマン人種の純粋性と至高性を追求する結社が広く興り、同時に劣等人種とされる対象がユダヤ人に集約されていき、ユダヤ人による「陰謀論」が語られるようになっていった。アリオゾフィの宗教結社としてよく知られるものに、ナチスと直接影響関係にあるトゥーレ協会がある。

ナチズムへの影響 
ヒトラーは『我が闘争』で、人種は大まかに三段階に分けられ、最上位がアーリア人種で、中でも雑種化していない純粋民族であるゲルマン民族が最も上等であるとした。アーリア人種、ゲルマン民族は唯一文化を創造する能力を持つとし、「文化創造者」と呼んだ。ユダヤ人をこの対極にあるとして「文化破壊者」とした。ヒトラーは、ゲルマン民族を純粋民族として保ち、存続させるために国家が存在すると考えた。ナチスドイツは、数世紀の歴史を持つ反ユダヤ主義(ユダヤ人はイエス・キリストの殺人者)が人種主義と結びついた「反セム主義」を元に政治的経済的イデオロギーを形成し、「アーリア・北方人種」に対するユダヤ資本主義の脅威という強迫観念となった。ユダヤ人を経済活動から排除する「脱ユダヤ化」と共に、ユダヤ人資産のドイツ人への移譲とその活用を目指す「アーリア化」が行われた。ナチス政権下でユダヤ人や左翼のジャーナリストは粛清され、さらにジャーナリストを国家資格とし、資格規定で非アーリア人が排除された。政治学者の石井貫太郎は、ヒトラーが著書『我が闘争』で述べた生存圏(レーベンスラウム)思想と、ゲルマン民族を中心とするアーリア人種優越論に基づいて、世界大戦とユダヤ人虐殺が遂行されたと述べている。『我が闘争』で語られた、アーリア人種以外の諸民族を奴隷化し、ドイツ人がその上で王侯貴族のような生活を送るというヒトラーの夢が叶うことはなかった。

ナチスドイツはユダヤ人絶滅のために強制収容所を作ったが、これと対極的に、アーリア人増殖のためにレーベンスボルンという収容所を設けた。ここではドイツの未婚女性の出産が奨励・保護され、同時に優良民族の身体的特徴を示す子供たちが占領地から拉致されて集められ、教育が行われた。また、あまり知られていないが、ハインリヒ・ヒムラーなどのナチスの高官の一部はアーリア人がアトランティス人の末裔だと本気で信じており、それを証明するために世界各地で調査を行った。

多くのナチス党員は、インド人をアーリア人であると考えたため、大勢のインドのヒンドゥー教徒がナチスドイツを支持した。シーク教徒を含む多くのインド人がナチスドイツで軍役に服し、優秀な兵士はナチスドイツ親衛隊の一員として働いた。

アーリア人種説の拡大 
ドイツと同盟関係にあったハンガリー人と日本人は、しばしば「名誉アーリア人」と呼ばれた。因みにナチスの御用学者であったハンス・ギュンターの『北方人種』によれば日本人もアーリア人であり、遥かなる太古においてはドイツ人と日本人は同族だったとされているが、これは現在、当時の日独同盟政策との整合性を持たせるためのこじつけであると考えられている。

トルコ・ナショナリズムの一潮流トゥラン主義や汎トルコ主義を標榜した右翼知識人ジェヴァト・ル・ファト・アティルハンは、1934年にナチス・ドイツの反ユダヤ主義者ユリウス・シュトライヒャーに招かれてミュンヘンを訪れ、ナチスの人種論や反ユダヤ主義を流布するプロパガンダ手法などを学んだ。翌年帰国してイスタンブールで、トルコで初めて自らを明確に「反ユダヤ的」と形容した「国民革命」を創刊。人種論に基づく汎トルコ主義を唱えたヒュセイン・ニハル・アトスズのような汎トルコ主義知識人たちが寄稿する論壇となった。同時にフランスのゴビノーやその思想を受け継いだイギリスのチェンバレンらの論説、20世紀初頭のヨーロッパで広まっていた反ユダヤ主義に関する文章や論考が頻繁に掲載され、「純血」「純粋な種」「純粋トルコ人」といった人種概念がトルコに持ち込まれた。

神智学協会の創始者ヘンリー・スティール・オルコットと共にスリランカの仏教の復興を図ったアナガーリカ・ダルマパーラは、アーリアン学説を19世紀のスリランカに流布した。現在多くのシンハラ人たちが、自らをスリランカに最初に住み着いた「ライオンの子孫ウィジャヤ王子」の末裔で、仏教を信奉し守る使命を持つ民族であり、アーリア人種であると信じている。スリランカ研究者の間では、この3つを結びつけて今日のシンハラ人の民族的アイデンティティを形成したのはダルマパーラだとされている。アーリア人種の概念は、長年にわたるスリランカの民族紛争に影響を与えた。

科学的な批判 
しかし、近年になって言語学を初めとする各分野から科学的な反証が行われ、アーリアン学説自体がその信憑性を大きく失いつつある。明確にアーリアン学説を疑似科学であると厳しく批判する学者が大勢を占めた今日では、ほとんど棄却された仮説と言える。

現在、「アーリア人」はインドに移住してきたインド・アーリア人、イランに移住してきたイラン・アーリア人およびそれらの祖先のみを指す場合が多い。インド・イラン語をかつて話していた、また話している諸民族はしばしばアーリア人と呼ばれる。言語学・音声学研究者の神山孝夫は、この呼び名を「印欧人」全体の意味で用いるのは誤りであり、民族社会主義者が1930年代と40年代にユダヤ人に対して非ユダヤ人を敵対させるために用いたものであるから、なおのこと利用すべきではないと述べている。

アーリアン学説の研究史 
どのようにアーリアン学説が作り出され、隆盛し、ヒトラーのアーリア・ゲルマン賛歌になったのか、またその前史がいかようなものであったのか、全容は長らくつかめないでいた。ユダヤ系ロシア人のレオン・ポリアコフが、1971年に多くのエビデンスを伴う『アーリア神話 ヨーロッパにおける人種主義と民族主義の源泉』を著し、この問題の研究に大きな方向性を与えた。編集者の松岡正剛は、この研究は1966年にサセックス大学のコロンバス・センターで、ノーマン・コーン主導で開始された「なぜ人種主義や民族主義は大量虐殺の歴史を演じてきたか」をめぐる研究の恩恵を多く受けたもので、本書はその討議と研究成果の最大の結実だったと述べている。
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✳6パールシー、パールスィーとは、インドに住むゾロアスター教の信者である。

概要  サーサーン朝の滅亡を機にイランのゾロアスター教徒のなかにはインドのグジャラート地方に退避する集団があり、現在、インドはゾロアスター教信者の数の最も多い国となっている。今日では同じ西海岸のマハーラーシュトラ州のムンバイ(旧称ボンベイ)にゾロアスター教の中心地があり、開祖のザラスシュトラが点火したと伝えられる炎が消えることなく燃え続けている

インドでは、ペルシャ人を意味するパールシーと呼ばれ、数としては少ないが非常に裕福な層に属する人や政治的な影響力をもった人々の割合が多い。インド国内で少数派ながら富裕層が多く社会的に活躍する人が多い点は、シク教徒と類似する。インドの二大財閥のひとつであるタタは、パールシーの財閥である。

寺院はマハラシュトラ州のムンバイとプネーにいくつかあり、ゾロアスター教徒のコミュニティを作っている。寺院にはゾロアスター教徒のみが入る事が出来、異教徒の立ち入りは禁じられている。神聖な炎は全ての寺院にあり、ペルシャから運ばれた炎から分けられたものである。寺院内には偶像はなく、炎に礼拝する。

ロシア人オカルティストのヘレナ・P・ブラヴァツキーに始まる近代神智学に相当大きな影響を受けている。

インド国内のゾロアスター教徒のほとんどはムンバイとプネーに在住している。またグジャラート州のアフマダーバードやスーラトにも寺院があり、周辺に住む信者により運営されている。

歴史  936年(716年説もあり)に、イランから移住した。4つあるいは5つの船に乗ってイランから、インドのグジャラート州南部のサンジャーンにたどり着き、現地を支配していたヒンドゥー教徒の王ジャーディ・ラーナーの保護を得て、周辺地域に定住することになった。船の大きさや乗っていた人の数などの詳細は伝えられていない。神官団はサンジャーン定住5年にして、使者を陸路イラン高原のホーラサーン州に派遣し、同地のアータシュ・バフラーム級聖火をサンジャーンに移転させたという。アータシュ・バフラーム級聖火は、イラン高原では三大聖火につぐ第二ランクの聖火であったが、インド亜大陸にはこのランクの聖火しか招来されなかったので、インド・ゾロアスター教最高の聖火としての尊崇を一身にあつめることとなった。この火は現在では八つに分祀され、ボンベイ、スーラト、ナヴサーリー、ウドワーダーに安置され、その中でもウドワーダーのアータシュ・バフラーム級聖火が特にイーラーン・シャー(イランの王)と呼ばれ、八つの聖火のなかでも本流と位置づけられている。

パールシーの共同体の伝承では、グジャラートのマハラジャとの間で次の様なやりとりがあった。

パールシーの代表者がマハラジャに定住の希望を伝えるが、マハラジャは「あなた方のための場所は残っていない」と答えた。代表者はコップに一杯のミルクを希望した。ミルクをコップに注いだあと、スプーン一杯の砂糖を溶かしこむが、コップからは一滴のミルクもこぼれることはなかった。そうして、「このように私達がこの地に溶けこみ、地域を甘くすることが出来ます」と述べた。この話に感銘したマハラジャは、布教を行わないという条件で定住を許可した。
ゾロアスター教徒は、ゾロアスター教の父を持つものだけという条件である。女性を嫁がせてゾロアスター教徒を増やすことはできない。パールシーの一団はグジャラート内で素朴な農民としての暮らしを始めた。

イギリスがインドに進出した後に、理由は知られていないが、イギリス人がパールシーのサポートを始めることになる。理由として考えられているのは、インド国内でマイノリティーであるパールシーとその他の勢力の間に闘争を作り出し、分割統治を行いやすくすること。パールシーがインドで混血していないのでヨーロッパ人に近い外見をもつのでパールシーをイギリス人とインド人の間に置いて、パールシーに命令する地位を持たせることなど。また、混血していないアーリア人である事などが推測される。

更に、東インド会社によりパールシーの位置は高められて、ほとんどのパールシーはグジャラートからボンベイ(現在のムンバイ)に移住した。主に貿易によってパールシーは財力をつけて行くことになる。伝わる話によれば、イギリス人がアヘンの貿易により中国から追放されたあと、イギリス人のサポートの元にパールシーがアヘンの貿易を行っていたという。この結果、インドの独立時にはパールシーは強い経済力と、支配的な地位や人々の上に立つためのノウハウを身につけていた。

神智学協会の影響  パールシーは、1875年にロシア人オカルティストのヘレナ・P・ブラヴァツキーとアメリカ人ヘンリー・スティール・オルコットが設立した神智学協会の神智学から相当に大きな影響を受けている。また逆に、1879年に神智学協会がインドに進出してマドラスに本拠地を置いた当初には会員の半分がパールシーだった程、神智学協会におけるパールシーの勢力も大きく、オルコットは神智学協会が説くオカルト科学とゾロアスター教は一致した内容を持つと考えていた。パールシーと神智学協会は共にゾロアスター教の教義が時代遅れでないことを証明しようとした。近代化に反発するパールシーは、神智学協会の反物質主義的な思想を歓迎した。神智学協会によるパールシーの宗教儀式への秘教的意味付けを、儀式を無意味であるという批判への反論を可能にするものとして歓迎する人もいた。また、神智学協会は善・悪の二神を人間心性の二傾向として理解し、ブラヴァツキーは人間を導く天使と悪魔はその人の心の上位自己と下位自己であるとしたが、改革派パールシーはこれを受けて、善神アフラ・マズダを上位自己、悪神アンラ・マンユを悪しき欲望、下位自己であると考えた。

両者の関係は、キリスト教宣教師によるゾロアスター教への攻撃、イギリス統治下でのパールシーの経済的成功からパールシー社会に広まった拝金主義と宗教的無関心、パールシー司祭階級の堕落への危機感といった背景がある。神智学協会は、ゾロアスター教は一神教であり輪廻転生の教義を持つと考え、菜食主義などゾロアスター教と関係のない習慣もパールシーに持ち込んでおり、パールシーの伝統と思想を脅かすという懸念も少なくなかった。パールシーの神智学徒たち(パールシー神智学)は、開祖ザラスシュトラを神智学の「知恵のマスター」たちよりもさらに偉大な神的存在であると考えた。また、オルコットがフリーメーソンに入会していたこともあり、フリーメーソンの支部がパールシーに作られ多くの知識人が入会した。

世界同胞思想、反植民地思想を持つ神智学協会には社会思想・社会活動としての面があり、W・P・Wadiaが設立したインド最初の労働組合など、現実的な問題に関心を向ける進歩的なパールシーと共に行った社会活動も少なくない。

パールシーによるゾロアスター教的オカルト運動、または神智学をゾロアスター教化したものとして、エルメ・フシュヌームがある。

現状  少数派の民族として生き残るために、パールシーは共同体ともいえるネットワークを作り出し、お互いに協力している。イランから持ち運ばれた火の燃えるパールシーの寺院はムンバイとプネーにいくつかあるが、異教者の入場は認められていない。パールシーは裕福な層が多く、教育や文化度が高い。

2010年現在、6万1千人程のパールシーがインド国内にいるといわれるが、数は減少傾向にある。10年ほど前には6万9千人だった。理由は、現在もパールシーはグジャラートのマハラジャとの約束を守っていることにある。父親がゾロアスター教でなければ信徒となれず、女性が異教徒と結婚した場合は、信仰を捨てなければならないからである。

パールシーは数世代前までは子供は5人程度もつのが一般的であった。しかし最近はその生活水準の高さから、結婚や子供の数が欧米や日本のような少子化傾向になっている。1人かせいぜい2人、場合によっては一生を独身のままで子供を作らない男性もいる(その宗教的背景から女性の結婚は増加に寄与しない)。この結果、年々パールシーの数は減少している。タタ財閥の相続が行われた際に、タタの名字をもつ相続者は1人しかいなかったといわれている。

インド独立運動にかかわったパールシーの政治家フェーローズ・ガーンディーは、後年インドの初代首相となったジャワハルラール・ネルーと親しくなって、ネルーの一人の娘でありのちにインドの第3代首相となったインディラ・ガンディーと結婚した。ただし、ガンディーの家族名はグジャラート出身者に多い名前で、必ずしもパールシーだけの家族名ではない。

著名な人物 
⚪フレディ・マーキュリー-イギリスのロックバンド・クイーンのボーカリスト、当時イギリス領だったタンザニア・ザンジバル島でパールシーの両親の下に生まれ、子供時代にインドへ移住した。
⚪ズービン・メータ - インド出身の指揮者。
⚪カイホスルー・シャプルジ・ソラブジ - イギリスの作曲家、ピアニスト
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✳7 マズダー教 
ザラスシュトラ(紀元前18世紀?~紀元前7世紀?)は、ゾロアスター教の開祖。古代アーリア人の宗教の神官。その生涯については謎が多い。

ニーチェ『ツァラトゥストラはこう語った』の影響で「ツァラトゥストラ」としても有名だが、これはペルシア語での呼称をドイツ語読みしたものである。日本語では英語名の転写ゾロアスターの名で知られるが、これは古代ギリシア語での呼称であるゾーロアストレースに由来する。

経歴 
ザラスシュトラはハエーチャスパ族の神官一族スピターマ家に生まれた。15歳で聖紐クスティーを身にまとい、✳「原イラン多神教」とも呼ばれる宗教の神官階級として教育を受けた。20歳のときに原イラン多神教に反旗を翻し、一族を離れて旅に出た。いたるところで原イラン多神教の神官たちから嫌われ、一箇所に定住することができず、部族から部族を行き巡ったという。

原イラン多神教と嘴形注口土器 足立拓朗著 PDF
https://music.tokoshie-jp.com/2018/10/07/ancient-persian-religions/ ムカジとむかし 確認

30代ごろにザラスシュトラは2人の妻を得て6人の子供に恵まれたが、原イラン多神教神官たちの妨害を受けて信徒獲得はできず出身部族を離れ、トゥーラーン人を布教対象にした。しかし彼らの王を怒らせ追放されてしまう。その後ライバルのマズダー教神官と対決したり、ダエーワを崇拝する王にアフラ・マズダーを崇拝するよう迫ったが10年余り信徒獲得はならなかった。

40歳の時、従兄マドヨーイモーンハが帰依してザラスシュトラは待望の弟子を得た。ここから彼の布教活動は好転し、続いて「スィースターンの賢者」サエーナーが100人の弟子を引き連れてザラスシュトラの教団に加わった。

42歳の時、オラナタ族の王カウィ・ウィーシュタースパによって取り立てられ、世俗権力の後ろ盾を得た。これによって原イラン多神教の神官団は追放され、ザラスシュトラは生活の糧と宗教権力を手に入れた。さらにザラスシュトラは宰相フラシャオシュトラ・フォーグマの娘を娶り、フラシャオシュトラの弟ジャーマースパ・フォーグマに自分の娘を嫁がせ、権力基盤を固めた。このようにして行われたザラスシュトラの「宗教改革」によって、新たに倫理観に裏付けされた二元論・終末論を軸とした一神教的な「原ゾロアスター教」と呼ばれる信仰体系が誕生した。周辺の部族はオラナタ族が怪しげな新興宗教に改宗したことに反発し、何度か戦争が行われたが、オラナタ族が勝利してザラスシュトラの正しさが証明されたとされる。その後、ザラスシュトラは礼拝中に暗殺されたとも伝えられている。既存の宗教・政治勢力を覆したため恨みを買う要素は大いにあったと思われる。ザラスシュトラの死後も教団は世俗権力の後ろ盾のもと、娘婿のジャーマースパに引き継がれた。ジャーマースパは原ゾロアスター教の急進的な教義をより原イラン多神教寄りに修正した。

年代・地域の比定 
ザラスシュトラがいつどこで生まれたのか詳細は分かっていない。ナポリ大学教授ラルド・ニョリは伝承からザラスシュトラの在世年代は紀元前620年 - 紀元前550年であると想定した。また、アヴェスター語が古層から新層への発展にどれだけの歳月を要したのか、アヴェスター語とサンスクリット語の発展にどれほど対応関係があったのかという非常に曖昧な手掛かりから紀元前1700年~紀元前1000年のいずれかに生きていたとする説もある

ザラスシュトラの故郷については以下の説がある。
⚪バクトリア - ギリシア語文献による。19世紀の有力説
⚪アゼルバイジャン-テヘラン間 - パフレヴィー語文献による
⚪ホラズム - 言語学的見地から(後に否定)
⚪スィースターン - アヴェスターの記述から推定
⚪カザフステップ - アヴェスターの記述から推定
⚪タジキスタン東部 - アヴェスターの記述から推定

教え 
ザラスシュトラ本来の教えは、イランの神話的聖典『アヴェスター』内の「ガーサー(韻文讃歌)」部分の記述が近いと考えられる。しかしガーサーに使われたガーサー語は非常に難解で、現代では『リグ・ヴェーダ』を参考になんとか意味を割り出せる程度にしか解読できていない(そもそもガーサー語は宗教言語であり、ザラスシュトラ自身はソグド語の祖語を母語としていたという説もある)。

一神教を最初に提唱したともいわれるが、ガーサーには「アフラ・マズダーとほかのアフラたち」という表現も見られ、唯一神の存在を主張していたわけではない。またセム的一神教と異なり超越的な神が預言者を通じて人類にメッセージを送ることはなく、人間がアフラ・マズダーに呼びかけるために聖呪を用いる構造となっている。

また、ガーサーは本来呪文に過ぎず、後代の編集によって一定の世界観が作り出されていると推定されている。

ザラスシュトラはアフラ神群とマズダー(叡智)を結び付け、アフラ・マズダーとして唯一の崇拝対象とした。また、アフラ・マズダーは宇宙に秩序をもたらそうと努力していると説き、これが後に二元論に発展した。また、アフラ神群の神々を天使とし、ダエーワ神群を悪魔とみなした。

ザラスシュトラ伝説 
ゾロアスター教の衰退後、ザラスシュトラへの崇敬はイスラム教徒に引き継がれた。ゾロアスター教の狭義とは別の隠された「光の叡智」を唱えた神秘的な存在として、大いにイスラム教徒たちの間で尊敬された。この虚構のイメージは東ローマ帝国やルネサンス期の西ヨーロッパに伝わった。

ルネサンス期、新プラトン主義者にとっては、ゾロアスターはプラトン主義哲学とキリスト教信仰の源流となる人物であるとされた。さらに2世紀の偽書もゾロアスターの著作とされたことで、「バビロニア占星術の大家、プラトン主義哲学の祖、キリスト教の先駆者、マギの魔術の実践者」という荒唐無稽なイメージが付与されることとなった。このようにオカルト化されたゾロアスター像は肥大化し、様々な知識の最高の体現者とみなされ、人智学にも影響を与えた。18世紀、パールシーたちの伝えてきた文献がヨーロッパにもたらされたことで、知識人たちはゾロアスターの叡智が垣間見えると期待したが、そこには古代の呪文しか書かれていなかった。これによりザラスシュトラの実像に迫ることができるようになったが、その後もゾロアスター像は変遷を遂げ、フリードリヒ・ニーチェが自著『ツァラトゥストラはこう語った』に自らの思想を仮託したり、ナチスがアーリア民族の偉人として位置づけるなど、様々な立場から利用された。これらの見方は日本人のザラスシュトラに対するイメージに大きな影響を与えている。
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✳8アンドロノヴォ文化とは、紀元前2300年から1000年頃の青銅器時代に、中央アジアステップ地帯からシベリア南部の広い範囲に見られた、類似する複数の文化をまとめた名称である。単一の文化ではなく、文化複合または考古学的ホライズンと呼ぶ方が適切である。インド・イラン語派の言語を話すアーリア人との関係が有力視されるが、インド・イラン方面の古文化と直接結び付かないとする批判もある。

アンドロノヴォは1914年に墳墓の発掘調査が行われ、屈葬された人骨や装飾土器が発見されたエニセイ川流域に属するアチンスク付近の村の名である。

時代区分 
時代的・地域的に少なくとも4つの文化に細分される。カスピ海・アラル海北側の南ウラル地域から始まり、東および南に拡大したとされる。

⚪シンタシュタ文化(Sintashta-Petrovka-Arkaim):ウラル南部、カザフスタン北部、紀元前2200-1600年頃。チェリャビンスク州シンタシュタ遺跡は紀元前1800年頃、近くのアルカイム遺跡は紀元前17世紀とされる。
⚪アラクル(Alakul)文化:アムダリヤ・シルダリヤ両川間のキジルクム砂漠、紀元前2100-1400年頃。
⚪アレクセーエフカ(Alekseyevka)文化:カザフスタン東部、紀元前1300-1000年頃の青銅器時代末。トルクメニスタンのナマズガ(Namazga)VI期(バクトリア・マルギアナ複合に含まれる)と接触した。
⚪フョードロヴォ(Fedorovo)文化:紀元前1500-1200年頃、シベリア南部。火葬と拝火の証拠が見られる最初期の例。
⚪ベシケント・ヴァクシュ(Beshkent-Vakhsh)文化:紀元前1000-800年頃、タジキスタン。

 地理的には非常に広大な範囲に及ぶ。西端ではヴォルガ・ウラル方面の同時期のスルブナヤ文化と重なり、東では先立つアファナシェヴォ文化の領域と重なりシベリア南部に及ぶ。南ではトルクメニスタン、タジキスタン(パミール高原)、キルギスタン(天山山脈)にまで遺跡が分布する。北端はタイガの南端にほぼ一致する。ヴォルガ川流域ではスルブナヤ文化との接触が顕著で、西はヴォルゴグラードまでフョードロヴォ式土器が見出されている。

紀元前2千年紀初めから半ばにかけてアンドロノヴォ文化は東への急速な拡大を見せた。アルタイ山脈では銅山が採掘された。埋葬には石棺または石囲いが用いられ、さらに木槨で囲まれた。生活様式は馬、牛、羊などの牧畜が中心で、農耕も行われた。

インド・イラン民族との関係 
アンドロノヴォ文化の分布地域はインド・イラン語派の発祥地と目される地域に重なり、またこの地域のなかにあるシンタシュタ・ペトロフカ・アルカイム文化で紀元前2000年頃にスポーク型車輪のついたチャリオットを発明したとも考えられているため、この語派との関係が有力視されてきた。

ウラル川上流部にあるシンタシュタ遺跡は、チャリオットが墓の副葬品として発掘されたので有名である。クルガン(墳丘)で覆われ、動物(馬と犬)も殉葬された。シンタシュタや他のヴォルガ・ウラル地域の遺跡は原インド・イラン民族のものと考えられてきた。

しかしアンドロノヴォ文化をインド・イラン系とする説に対しては、特徴的な木槨墓がアムダリヤ以南のステップには見られないとの反論がある。また南方のバクトリア(アフガニスタン北部)・マルギアナ(トルクメニスタンのメルブ地域)のオアシス地帯に同時期栄えたバクトリア・マルギアナ複合(BMAC)こそが原インド・イラン民族の文化であるとする主張もある(サリアニディSarianidiら)。サリアニディは「考古学的データから、アンドロノヴォ文化のBMACへの侵入はごくわずかであった」という。

Kuz'mina(1994)は、インド・アーリア語が近東のミタンニとヴェーダ時代のインドでこの地域としては初めて使われたこと、チャリオットの出たシンタシュタ遺跡が紀元前16-17世紀とされることを根拠に、この文化はインド・イラン系であるとする。

一方Klejn(1974)とブレンチェスBrentjes(1981)は、チャリオットを使うアーリア人が紀元前15-16世紀までにはミタンニに現れていることから、この文化は原インド・イラン系とするには遅すぎるとしている。ただしAnthonyとヴィノグラードフVinogradov(1995)はクリヴォエ湖(Krivoye ozero)で発掘されたチャリオットを紀元前2000年頃のものとしていることから、この批判は必ずしも成り立つものではない。

マロリーはアンドロノヴォ文化を北インドにまで拡大したと見るのは非常に困難だとし、その南端に当たるベシケント・ヴァクシャ文化も中央アジアに止まり、インド・イランには結び付けられないとする。そのため、アンドロノヴォ文化はこの時代に既に広範囲に拡散していたインド・イラン語派の諸文化のひとつであったと考えられる。

その後 
シンタシュタ・ペトロフカ文化は東方のフェドロヴォ文化と南方のアレクセーエフカ文化に引き継がれ、これらもアンドロノヴォ・ホライズンの一部と見なされている。

南シベリアとカザフスタンではアンドロノヴォ文化はカラスク文化(紀元前1500-800年頃)に引き継がれる。この文化の担い手は非印欧民族といわれる一方で、原イラン民族との推定もある。

西端部ではスルブナヤ文化に引き継がれるが、これは部分的にはアファナシェヴォ文化にも由来する。この地域で初めて歴史に登場する民族はキンメリア人とサカまたはスキタイ人で、アレクセーエフカ文化の後、アッシリアの記録に現れる。彼らは紀元前9世紀頃ウクライナに、また紀元前8世紀頃カフカス山脈を越えてアナトリアとアッシリアに現れた。また西ではヨーロッパに移動してトラキア人やシギュンナイ人となった可能性がある。
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✳9テュルク系民族とは、テュルク諸語を使用する人びと。ユーラシア大陸の中央部を斜めに貫く、東シベリアからトルコ共和国にまで及ぶ乾燥地域を中心にシベリア、中央アジアおよび西アジア、東欧などに広く分布する。テュルク系諸民族、トルコ系諸族、チュルク系諸族とも。

呼称・表記  詳細
トルコ語の「テュルク」にあたる言葉として、日本語では「トルコ」という形が江戸時代以来使われているが、この語はしばしばオスマン帝国においてトルコ語を母語とした人々を意味し、現在ではトルコ共和国のトルコ人を限定して指す場合が多い。

英語では、この狭義のTürk(テュルク / トルコ)と言うべき一民族をTurkishと呼び、広義のTürk(テュルク / トルコ)であるテュルク系諸民族全体をTurkicと呼んで区別しており、ロシア語など他のいくつかの言語でも類似の区別がある。これにならい、日本語でも狭義のTürkに「トルコ」、広義のTürkに「テュルク」をあてて区別する用法があり、ここでもこれにならう。

歴史学者の森安孝夫は、近年の日本の歴史学界において「テュルク」「チュルク」という表記がよく見られるとしながらも「トルコ民族」という表記をしたうえで、その定義を「唐代から現代にいたる歴史的・言語的状況を勘案して、方言差はあっても非常に近似しているトルコ系の言語を話していたに違いないと思われる突厥、鉄勒、ウイグル(回紇)、カルルク(葛邏禄)、バシュミル(拔悉蜜)、沙陀族などを一括りにした呼称」としている。

人種的には東部でモンゴロイド、西部でコーカソイドと東西で大きく異なるが、人種に関係なくテュルク諸語を母語とする民族は一括してテュルク系民族と定義される

歴史  起源 
テュルク系民族の原郷についての定説がないが、ウラル山脈以東の草原地帯に求める説が有力である人種的にはモンゴロイドであったらしい。また、プロト・テュルクはモンゴロイドであったと言われている。唐代まではほどんどが黒髪・直毛・黒目のモンゴロイドであったが、唐代の終わり頃東ウイグル可汗国が崩壊しテュルク系民族がモンゴリア―アルタイ地方から移動して天山山脈からタリム盆地全体を支配するようになった結果、先住のコーカソイドのインド=ヨーロッパ語族は何世代か後にはテュルク化した。

匈奴(きょうど)はテュルクとモンゴルの諸民族の先駆者として、満場一致とはいかないまでも、広く認められている。ただし、言語上、エスニシティ上の関連性について、確たる証拠となるような記録が十分残されているとは言い難い。言語学者の仮説によれば、前3000~前500年ごろにはテュルク祖語が話されていたというが、直接的な証拠は何も残されていない。匈奴やフン族の民族的出自についての確立した説はないが、現代のテュルク族は匈奴やフン族が自分たちの先祖だと考えている。

丁零(ていれい) 
「丁零」或いは「丁令」と記される民族は匈奴と同時代にモンゴル高原の北方、バイカル湖あたりからカザフステップに居住していた遊牧民であり、これも「テュルク」の転写と考えられている。丁零は匈奴が強盛となれば服属し、匈奴が衰えを見せれば離反を繰り返していた。やがて匈奴が南北に分裂してモンゴル高原の支配権を失うと、東の鮮卑がモンゴル高原に侵攻して高原の支配権を握ったが、これに対しても丁零はその趨勢に応じて叛服を繰り返していた。

五胡十六国時代、鮮卑の衰退後はモンゴル高原に進出し、一部の丁零人は中国に移住して翟魏を建てた。

高車(こうしゃ) 
モンゴル高原に進出した丁零人は南北朝時代に中国人(拓跋氏政権)から「高車」と呼ばれるようになる。これは彼らが移動に使った車両の車輪が高大であったためとされる。初めはモンゴル高原をめぐって拓跋部の代国や北魏と争っていたが、次第に台頭してきた柔然が強大になったため、それに従属するようになった。487年、高車副伏羅部の阿伏至羅は柔然の支配から脱し、独立を果たす(阿伏至羅国)。阿伏至羅国は柔然やエフタルと争ったが、6世紀に柔然に敗れて滅亡した。

突厥(とっけつ)・鉄勒(てつろく)
7世紀の東西突厥。Western Gokturk Khaganate=西突厥、Eastern Gokturk Khaganate=東突厥、Chinese Empire =隋、Tuyuhun=吐谷渾、Persian Empire =サーサーン朝

中央ユーラシア東部の覇者であった柔然可汗国はその鍛鉄奴隷であった「突厥」によって滅ぼされる(555年)。突厥は柔然の旧領をも凌ぐ領土を支配し、中央ユーラシアをほぼ支配下においた。そのため東ローマ帝国の史料にも「テュルク」として記され、その存在が東西の歴史に記されることとなる。また、突厥は自らの言語(テュルク語)を自らの文字(突厥文字)で記しているので、古代テュルク語がいかなるものであったかを知ることができる。突厥は582年に東西に分裂し、8世紀には両突厥が滅亡した。

一方で突厥と同時代に突厥以外のテュルク系民族は「鉄勒」と記され、中央ユーラシア各地に分布しており、中国史書からは「最多の民族」と記された。鉄勒は突厥可汗国の重要な構成民族であったが、突厥が衰退すれば独立し、突厥が盛り返せば服属するということを繰り返していた。やがて鉄勒は九姓(トクズ・オグズ)と呼ばれ、その中から回紇(ウイグル)が台頭し、葛邏禄(カルルク)、拔悉蜜(バシュミル)といったテュルク系民族とともに東突厥第二可汗国を滅ぼした。

突厥の滅亡後 
中央ユーラシア全域を支配したテュルク帝国(突厥)であったが、両突厥の滅亡後は中央ユーラシア各地に広まったテュルク系民族がそれぞれの国を建て、細分化していった。

モンゴル高原では東突厥を滅ぼした回紇(ウイグル)が回鶻可汗国を建て、中国の唐王朝と友好関係となってシルクロード交易で繁栄したが、内紛が頻発して黠戛斯(キルギス)の侵入を招き、840年に崩壊した。その後のウイグルは甘州ウイグル王国、天山ウイグル王国を建てて西域における定住型テュルク人(現代ウイグル人)の祖となり、タリム盆地のテュルク化を促進した。

中央アジアではカルルク、突騎施(テュルギシュ)、キメク、オグズといった諸族が割拠していたが、10世紀にサーマーン朝の影響を受けてイスラーム化が進み、テュルク系民族初のイスラーム教国となるカラハン朝が誕生する。

カスピ海以西ではブルガール、ハザール、ペチェネグが割拠しており、南ルーシの草原で興亡を繰り広げていた。11世紀になるとキメクの構成部族であったキプチャク(クマン人、ポロヴェツ)が南ルーシに侵入し、モンゴルの侵入まで勢力を保つ。

テュルクのイスラーム化 
テュルク系国家で最も早くイスラームを受容したのはカラハン朝であるが、オグズから分かれたセルジューク家率いる一派も早くからイスラームに改宗し、サーマーン朝の庇護を受けた。彼らはやがてトゥルクマーン(イスラームに改宗したオグズ)と呼ばれ、中央アジア各地で略奪をはたらき、土地を荒廃させていったが、セルジューク家のトゥグリル・ベグによって統率されるようになると、1040年にガズナ朝を潰滅させ、ホラーサーンの支配権を握る。1055年、トゥグリル・ベクはバグダードに入城し、アッバース朝のカリフから正式にスルターンの称号を授与されるとスンナ派の擁護者としての地位を確立する。このセルジューク朝が中央アジアから西アジア、アナトリア半島にいたる広大な領土を支配したために、テュルク系ムスリムがこれらの地域に広く分布することとなった。また、イスラーム世界において奴隷としてのテュルク(マムルーク)は重要な存在であり、イスラーム勢力が聖戦(ジハード)によって得たテュルク人捕虜は戦闘力に優れているということでサーマーン朝などで重宝され、時にはマムルーク自身の王朝(ホラズム・シャー朝、ガズナ朝、マムルーク朝、奴隷王朝など)が各地に建てられることもあった。こうした中で「テュルク・イスラーム文化」というものが開花し、数々のイスラーム書籍がテュルク語によって書かれることとなる。こうしたことによってイスラーム世界におけるテュルク語の位置はアラビア語、ペルシア語に次ぐものとなり、テュルク人はその主要民族となった。

西域(トルファン、タリム盆地、ジュンガル盆地)のテュルク化 
840年にウイグル可汗国が崩壊すると、その一部は天山山脈山中のユルドゥズ地方の広大な牧草地を確保してこれを本拠地とし、天山ウイグル王国を形成した。天山ウイグル王国はタリム盆地、トルファン盆地、ジュンガル盆地の東半分を占領し、マニ教、仏教、景教(ネストリウス派キリスト教)を信仰した。一方、東トルキスタンの西半分はイスラームを受容したカラハン朝の領土となったため、カシュガルを中心にホータンやクチャもイスラーム圏となる。これら2国によって西域はテュルク語化が進み、古代から印欧系の言語(北東イラン語派、トカラ語)であったオアシス住民も11世紀後半にはテュルク語化した。

中央アジアの草原地帯にはカルルク、テュルギシュ、キメク、オグズといった西突厥系の諸族が割拠しており、オアシス地帯ではイラン系の定住民がすでにイスラーム教を信仰していた。草原地域では、イラン系遊牧民が急速にテュルク語化した。一方のオアシス地帯では、口語は12世紀頃までに概ねテュルク語化したものの、行政文書や司法文書などには専らアラビア文字による文書(ペルシャ語など)が用いられ、継続性が必要とされる特性上テュルク語への置換はゆっくりとしたものであった。他言語話者がテュルク語に変更するにはテュルク語でイスラーム教を布教するのが最も効果的なのであるが、西トルキスタンでは定住民がすでにムスリム(イスラーム教徒)であったため、あるいは遊牧民と定住民の住み分けが明確になされていたため、人口が多かったために東トルキスタンほど急速にテュルク化が起きなかった。西トルキスタンに於ける最終的なテュルク語化は、ホラズム・シャー朝、カラキタイ、ティムール朝、シャイバーニー朝といった王朝の下でゆっくりと進行した。

モンゴル帝国の拡大
古代からモンゴル高原には絶えず統一遊牧国家が存在してきたが、840年のウイグル可汗国(回鶻)の崩壊後は360年の長期にわたって統一政権が存在しない空白の時代が続いた。これはゴビの南(漠南)を支配した遼(契丹)や金(女真)といった王朝が、巧みに干渉して漠北に強力な遊牧政権が出現しないよう、政治工作をしていたためであった。当時、モンゴル高原にはケレイト、ナイマン、メルキト、モンゴル、タタル、オングト、コンギラトといったテュルク・モンゴル系の諸部族が割拠していたが、13世紀初頭にモンゴル出身のテムジンがその諸部族を統一して新たな政治集団を結成し、チンギス・カン(在位: 1206年 - 1227年)として大モンゴル・ウルス(モンゴル帝国)を建国した。チンギス・カンはさらに周辺の諸民族・国家に侵攻し、北のバルグト、オイラト、キルギス、西のタングート(西夏)、天山ウイグル王国、カルルク、カラキタイ(西遼)、ホラズム・シャー朝をその支配下に置き、短期間のうちに大帝国を築き上げた。チンギス・カンの後を継いだオゴデイ・カアン(在位: 1229年 - 1241年)も南の金朝を滅ぼして北中国を占領し、征西軍を派遣してカスピ海以西のキプチャク、ヴォルガ・ブルガール、ルーシ諸公国を支配下に置いてヨーロッパ諸国にも侵攻した。こうしてユーラシア大陸を覆い尽くすほどの大帝国となったモンゴルであったが、第4代モンケ・カアン(在位: 1251年 - 1259年)の死後に後継争いが起きたため、帝国は4つの国に分裂してしまう。

モンゴルの支配下 
この史上最大の帝国に吸収されたテュルク系諸民族であったが、支配層のモンゴル人に比べてその人口が圧倒的多数であったため、また文化的にテュルク語が普及していたため、テュルクのモンゴル語化はあまり起きなかった。むしろイスラーム圏に領地を持ったチャガタイ・ウルス(チャガタイ汗国)、フレグ・ウルス(イル汗国)、ジョチ・ウルス(キプチャク汗国)ではイスラームに改宗するとともにテュルク語を話すモンゴル人が現れた。こうしてモンゴル諸王朝のテュルク・イスラーム化が進んだために、モンゴル諸王朝の解体後はテュルク系の国家が次々と建設されることとなった。

チャガタイ領のテュルク 
チンギス政権以来、天山ウイグル王国はモンゴル帝国の庇護を受け、14世紀後半にいたるまでその王権が保たれた。それはウイグル人が高度な知識を持ち、モンゴル帝国の官僚として活躍したことや、モンゴルにウイグル文字を伝えてモンゴル文字の基礎になったこと、オアシス定住民の統治に長けていたことが挙げられる。モンゴルの内紛が起きると天山ウイグル政権はトルファン地域を放棄したが、その精神を受け継いだウイグル定住民たちは現在もウイグル人として生き続けている。一方、カラハン朝以来イスラーム圏となっていたタリム盆地西部以西にはモンゴル時代にチャガタイ・ウルス(チャガタイ・ハン国)が形成され、天山ウイグル領で仏教圏であった東部もその版図となり、イスラーム圏となる。やがてチャガタイ・ハン国はパミールを境に東西に分裂するが、この要因の一つにモンゴル人のテュルク化が挙げられる。マー・ワラー・アンナフル(トランスオクシアナ)を中心とする西側のモンゴル人はイスラームを受容してテュルク語を話し、オアシス定住民の生活に溶け込んでいった。彼ら自身は「チャガタイ」と称したが、モンゴルの伝統を重んじる東側のモンゴル人は彼らを「カラウナス(混血児)」と蔑み、自身を「モグール」と称した。そのためしばらく東トルキスタンは「モグーリスタン」と呼ばれることとなる。

ティムール朝 
西チャガタイ・ハン国から台頭したティムールは西トルキスタンとイラン方面(旧フレグ・ウルス)を占領し、モグーリスタンとジョチ・ウルスをその影響下に入れて大帝国を築き上げた。彼自身がテュルク系ムスリムであったため、また西トルキスタンにテュルク人が多かったため、ティムール朝の武官たちはテュルク系で占められていた。しかし、文官にいたっては知識人であるイラン系のターズィーク人が担っていた。こうしたことでティムール朝の公用語はイラン系であるペルシア語と、テュルク系であるチャガタイ語が使われ、都市部においては二言語併用が一般化した。

ジョチ領のテュルク 
キプチャク草原を根拠地としたジョチ・ウルスは比較的早い段階でイスラームを受容し、多くのテュルク系民族を抱えていたためにテュルク化も進展した。15世紀になると、カザン・ハン国、アストラハン・ハン国、クリミア・ハン国、シャイバーニー朝、カザフ・ハン国、シビル・ハン国といったテュルク系の王朝が次々と独立したため、ジョチ・ウルスの政治的統一は完全に失われた。

ウズベクとカザフ 
現在、中央アジアのテュルク系民族で上位を占めるのがウズベク人とカザフ人である。これらの祖先はジョチ・ウルス東部から独立したシバン家のアブル=ハイル・ハン(在位:1426年 - 1468年)に率いられた集団であった。彼らはウズベクと呼ばれ、キプチャク草原東部の統一後、シル川中流域に根拠地を遷したが、ジャニベク・ハンとケレイ・ハンがアブル=ハイル・ハンに背いてモグーリスタン辺境へ移住したため、ウズベクは2つに分離することとなり、前者をウズベク、後者をウズベク・カザフもしくはカザフと呼んで区別するようになった。アブル=ハイル・ハンの没後、ウズベク集団は分裂し、その多くは先に分離していたカザフ集団に合流した。勢力を増したカザフはキプチャク草原の遊牧民をも吸収し、強力な遊牧国家であるカザフ・ハン国を形成した。やがてウズベクの集団もムハンマド・シャイバーニー・ハンのもとで再統合し、マー・ワラー・アンナフル、フェルガナ、ホラズム、ホラーサーンといった各地域を占領してシャイバーニー朝と呼ばれる王朝を築いた。

3ハン国 
1599年にシャイバーニー朝が滅亡した後、マー・ワラー・アンナフルの政権はジャーン朝(アストラハン朝)に移行した。ジャーン朝は1756年にマンギト朝によって滅ぼされるが、シャイバーニー朝からマンギト朝に至るまでの首都がブハラに置かれたため、この3王朝をあわせてブハラ・ハン国と呼ぶ(ただしマンギト朝はハン位に就かず、アミールを称したのでブハラ・アミール国とも呼ばれる)。また、ホラズム地方のウルゲンチを拠点とした政権(これもシャイバーニー朝)は17世紀末にヒヴァに遷都したため、次のイナク朝(1804年 - 1920年)とともにヒヴァ・ハン国と呼ばれる。そして、18世紀にウズベクのミング部族によってフェルガナ地方に建てられた政権はコーカンドを首都としたため、コーカンド・ハン国と呼ばれる。これらウズベク人によって西トルキスタンに建てられた3つの国家を3ハン国と称する。

ロシアの征服 
13世紀に始まるモンゴル人のルーシ征服はロシア側から「タタールのくびき (татарское иго)」と呼ばれ、ロシア人にとっては屈辱的な時代であった。しかし、モスクワ大公のイヴァン4世(在位: 1533年 - 1584年)によってカザン・ハン国、アストラハン・ハン国といったジョチ・ウルス系の国家が滅ぼされると、「タタールのくびき」は解かれ、ロシアの中央ユーラシア征服が始まる。このときロシアに降ったテュルク系ムスリムはロシア側から「タタール人」と呼ばれていたが、異教徒である彼らはロシアの抑圧と同化政策に苦しめられ、カザフ草原やトルキスタンに移住する者が現れた。

16世紀末になってロシア・ツァーリ国はシベリアのシビル・ハン国を滅ぼし、カザフ草原より北の森林地帯を開拓していった。同じ頃、カザフ草原のカザフ・ハン国は大ジュズ、中ジュズ、小ジュズと呼ばれる3つの部族連合体に分かれていたが、常に東のモンゴル系遊牧集団ジュンガルの脅威にさらされていた。1730年、その脅威を脱するべく小ジュズのアブル=ハイル・ハン(在位: 1716年 - 1748年)がロシア帝国に服属を表明し、中ジュズ、大ジュズもこれにならって服属を表明した。

19世紀の半ば、バルカン半島から中央アジアに及ぶ広大な地域を舞台に、大英帝国(イギリス)とロシア帝国との「グレート・ゲーム」が展開されていた。ロシア帝国はイギリスよりも先にトルキスタンを手に入れるべく、1867年にコーカンド・ハン国を滅ぼし、1868年にブハラ・ハン国を、1873年にヒヴァ・ハン国を保護下に置き、1881年に遊牧集団トルクメンを虐殺して西トルキスタンを支配下に入れた。

現在、最も有名なテュルク系国家であるトルコ共和国はアナトリア半島に存在するが、テュルク人の故地から最も離れた位置にあるにもかかわらず、テュルク系最大の民族であるトルコ人が住んでいる。これは歴史上、幾波にもわたってテュルク人がこの地に侵入し、移住してきたためである。それまでのアナトリア半島には東ローマ帝国が存在し、主要言語はギリシア語であった。

アナトリアへ最初に侵入してきたのはセルジューク朝であり、セルジューク朝によって東ローマ帝国が駆逐されると、その地にセルジューク王権の強化を好まないトゥルクマーンなどが流入してきたため、アナトリアのテュルク化が始まった。その後はセルジューク朝の後継国家であるルーム・セルジューク朝がアナトリアに成立し、モンゴルの襲来で多くのトゥルクマーンが中央アジアから逃れてきたので、アナトリアのテュルク化・イスラーム化は一層進んだ。14世紀にはオスマン帝国がアナトリアを中心に拡大し、最盛期には古代ローマ帝国を思わせるほどの大帝国へと発展したが、18世紀以降、オスマン帝国は衰退の一途をたどり、広大な領地は次第に縮小してアナトリア半島のみとなり、第一次世界大戦後、トルコ革命によって1922年に滅亡し、翌1923年にトルコ共和国が成立する。

テュルクの独立 
ロシア領内のテュルク人の間では、19世紀末からムスリムの民族的覚醒を促す運動が起こり、オスマン帝国を含めてテュルク人の幅広い連帯を目指す汎テュルク主義(汎トルコ主義)が生まれた。しかし、ロシア革命が成功すると、旧ロシア帝国領内に住むテュルク系諸民族は個々の共和国や民族自治区に細分化されるに至った。一方、トルコ革命が旧オスマン帝国であるアナトリアに住むトルコ人だけのための国民国家であるトルコ共和国を誕生させた結果、汎テュルク主義は否定される形となった。

1991年のソビエト連邦崩壊後、旧ソ連から5つのテュルク系民族の共和国(アゼルバイジャン共和国、ウズベキスタン共和国、カザフスタン共和国、キルギス、トルクメニスタン)が独立。これら諸共和国やタタール人などのロシア領内のテュルク系諸民族と、トルコ共和国のトルコ人たちとの間で、汎テュルク主義の再台頭ともみなしうる新たな協力関係が構築されつつある。

遺伝子 
テュルク系民族には、同じアルタイ系であるモンゴル系民族やツングース系民族に高頻度なC2系統は、カザフ(66.7%)を除きそれほど高頻度ではない。広範囲に見られるタイプとしては印欧語系インド・イラン人やスラブ人に多いR1a系統がキルギス人に63.5%、南アルタイ人に53.1%などで観察される。またヤクートはウラル系民族に関連するN系統が88%の高頻度で見られる。11世紀にトルコ族が進入したアナトリアでは在来のJ系統等が高頻度である。

なお、テュルク系民族の明確な遺伝子の単一性は認められないことから、テュルク系民族の拡散は話者移動よりも言語置換中心であったことが示唆されている。また、調査されたほとんどのテュルク系民族は遺伝的に近隣地域の住民に似ていることから、インド・ヨーロッパ語族のような少数上位階級による支配が示唆されている。しかし、西部のテュルク系民族も、現在の南シベリアとモンゴル地域のテュルク系民族と同一の「非常に長い染色体領域」を共有している。
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