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静岡県浜松市二俣 歩くと視線が上がる

クルマがないと移動距離に制約がでる。
たしかにその通りなのだけど、自分で運転する以上、運転している時間は運転以外ができない。
今日は電車&徒歩で神社参拝したのだけど、思いのほか楽しく、そして濃密な参拝ができた気がする。
こういう参拝もいいな、とクルマを手放してから気づく。
何かをなくすことで、気づくものもあるもんだと思った。


歩いていたからこそ気づいた看板


この看板は絵柄から推測するに40年ほど前ほどのものかと思われる。
屈強な警察官と思われる人が、頭に怒り💢マークをつけ、非行少年を力で押さえつけようとしている。
世相を反映する絵である。
仮にこんな絵を現代に公開したとしたら、たちまち避難の嵐になりそうなものだ。
なんというか、表現の自由が聞いてあきれる。
賢い人ほど、それを察知する能力が長けているので、そもそもこういう作品を産まない。
そしてその行為が知らず知らずのうちに自分を抑圧して行動を制限するようになる。
自由とはなんだろうか。
そんなことを思ったりしながら歩いた。


そうそう、今日2万歩歩いた後に気づいたことで、
視線が上がって今まで気づかなかったモノが目に入るようになった。
たくさん歩いた効果。

マンションの上のほうに看板があったり、不思議な形状をしたオブジェがあったりと。
逆に言えば、今までかなり視線が低かったということだ。
今後広告は、地面に貼り付けたほうが見られる可能性が高そうで、ビジネス的にはそれを容易に実現する道具とか売れそうとか思ったり。
もうすでに存在するのかな。
しかし頭が前屈みになると、呼吸も浅くなりそうで、肉体的にはよくなさそうだ。

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