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新奇と真理

ども。
毎度院長です。
随分なご無沙汰でありましたが、皆様はお変わりありませぬでしょうか。
拙者の方は、変わらないと言えば変わらず、変わったといえば変わったというか。
心の中に種が撒かれて、それが芽を出して開花するなりなんらか顕現するには時間がかかる、というようなことを実感しております。
それは、以下の引用文の通りである気がしており。

私は長い間、自分の頭が、精神が、理性が、あるいは記憶が、フランス語を学んでいるのだと思っていた。しかし今は、私の中にあるフランス語がフランス語を学んでいるのだということがはっきり分かって来た。生体に臓器が移植されるように、フランス語が私の中に、小さいフランス語が、その小さい核が移植され、その移植が成功した時から、この「私の中のフランス語」が周囲に流れているフランス語を吸収し、定着し、成長していくのだ。それ以外にフランス語を本当に学ぶいかなる道も方法もない。(中略)これは何も言葉に限ったことはない。人の学ぶすべてのことが同じなのではないであろうか。

(森有正全集2)

それなりの長い時間(もはや20年近くにもなるのか)、拙者はちまちまとある書物を読んできておりました。
そしておそらくは、その書物の大事な部分は小さい核として拙者の心に移植されてはいたものの、それは実に他人行儀な、借り物のような感じであり、拙者的にはどこかぎこちない感じがしておりました。
それがここにきて、その大事な部分の移植がようや成功したような気がしております。
なんというか、このことに静かな感動を覚えておるところです。
外面的には何かが変化したわけではないと思うのですが、自分の内なるものの動きを見ているところです。
拙者がそういう視点で物事を捉えるのに、一つの大事な指標になっている言葉があって、その言葉の故にというか、こういう記事の発信を徐々に控えるようになっていたというのもありましたです。

スピノザと一つ屋根の下で暮すカセアリウスを羨むデ・フリースに宛てた一六六三年三月の書簡の中で、スピノザは、カセアリウスがスピノザ自身とは全く異なった知的傾向を持つこと、「真理」(veritas)よりも「新奇」(novitas)の方に熱中すること、それゆえ、「私の手に余る」(mihi odiosus)存在であるという意味のことを語っている。

(破門の哲学/清水禮子)

医学の世界も「新奇」なことが「発見・開発」され、「最先端の・新しい治療法」として発表され導入されていきます。
医学に限らず今の世の風潮は、全体的にそういう流れではないでしょうか。
これは曲解されては困るのだけど、ここで全ての「最先端技術」を否定しているわけではなく(実際拙者の生活そのものはそれらの恩恵に大いに預かっているわけで)、新奇なものと真理なものとは共存しないことがある、ということを考えるのです。
それで引用文にある「手に余る」という感覚が、拙者なりに理解できるようになって来ており、色々な事柄を取り入れたり発信したりすることへのためらいが出ておるということであります。

など。
思いめぐらせているところで、ある程度言葉にできるようになったので書き留めておく次第。
哲学しておる院長、の巻。