見出し画像

節分にまつわる報告と、成熟に関して思うこと

ども。
毎度、院長です。
昨日の2月3日は節分ということで、スタッフが豆を持参。
じゃんけんで負けた別のスタッフが鬼に任命され、豆打ちの刑に処せられており。
で、節分の豆を持ってきたスタッフが、豆だけではなく餅つき機も持参しており。
「3年前に買った餅つき機なんですけど、開封もしてないまま放置してて」「餅米を前日から水につけるのが面倒で」とかで、梱包もそのままの状態で持ってきておりました。
しかし、なんで餅米を水につけるのが面倒なのに、餅つき機を購入しているのか不明ではある。
拙者は餅米を炊飯器で炊いて、棒で叩いて餅を作ったりしていたので、事前に餅米を水につけておくということはそこまで苦にならないタイプであり。
それに拙者の住んでいたド田舎の地方では、年末に杵でつく餅つきというのを親族一同でやっていて、大体の流れのようなものはなんとなく覚えておったのでした。
んなことを1月中に話しておったところ、「じゃあ、診療所で今度お餅をつきましょう」とかの話になり、餅つき機が運ばれてきたのであった。
んでもって、話の流れから、拙者が前日から餅米をつけるという役まわりになったわけでした。
餅米を節分前日の仕事が終わった後にきれいに洗い、一晩寝かせ、寝かせすぎないよう、節分の日の朝からは餅米を冷蔵庫で休ませ、節分の日の仕事が一息ついたところで、わらわらと餅つき機を使っての餅つき大会の準備に入ったでした。
拙者の担当はこれら餅つきの準備段階までの予定で、その後のことは餅つき機を持ってきたスタッフがやるとかのことだったんだす。
が、どうにもそのスタッフが業務上、手が離せない事態となったため、拙者がそのまま餅つき機を使っての餅つき担当となった次第にて。

餅つき機というのに拙者、初めて対面したですが、「つき姫」とかいう岡山の会社のもののようで、こじんまりしていてなんとなく可愛らしい外観なり。
一晩水につけた餅米3合を餅つき機「つき姫」にセットし、蒸し始めます。
15分くらいで蒸し終わり、その後蓋を外してつき始めますが、この蒸した餅米をついている姿がとても可愛いのでした。
この機械で餅米をつく段階というのは、ホームベーカリーなどでパンを作る工程の練りの段階で、ハネを使って練っていくのと似たような感じだと思ふ。
蒸した餅米がぷくぷくまあるくなりながら、餅米がつかれていく(練られていく)様子がなんともなんとも可愛らしく、見ていて飽きません。
あっという間の10分が経過し、3合のお餅がつきあがったのでした。(蒸しからつきまで総時間25分、とてもコンパクトである)
そんで、できたお餅を機械から取り出し、それを小さく丸餅にしていき、あべかわ風にしたり、あずきをトッピングしたり、磯部巻き風にしたりして、スタッフ一同楽しんだでした。
結構あっという間にお餅が出来上がったわけですが、拙者は小さい頃の田舎での親族総出の一大行事としての大掛かりな杵つき餅作りのことを、チラチラと思い出しておりました。
しかし、親族の行事としての杵つき餅に関しては、そもそも餅米の量が違っていたと思います。相当量の丸餅を作っておったと思うのです。
など。
2月の診療所風景。
今回の件はたまたまではありますが、駒込えぜる診療所の誕生日が2月1日なので(2008年2月1日開業)、診療所の16歳のお祝いの餅つきかもな〜とか、一人で意味づけしておりました。
ここまで診療所を続けて来れたのも、スタッフや患者さん、そして種々の関係者をはじめとした、皆様のおかげです。
本当にありがとうございます。

で。
ここからは、今ちょいと関心のあるところについて、覚書です。
百万人の福音2022年11月号(因果応報をめぐるもの)、2023年11月号(偶像礼拝について)とに、拙者の記事が掲載されたのですが、特に2023年11月号の方はそれなりに反響がありました。
これらの企画に関しては、大体論理構造というか筋道が同じ方向のように拙者は感じておりました。なので、百万人の福音の特集担当者の意図がとても明確で、拙者としても原稿のイメージがしやすかったというところが大きいです。
こういう点からも、企画編集者の腕力というか、思いの強さのようなものが良い形で実を結んだのだと思います。
んで、これらの記事を書くにあたって、拙者がかねがね思っていたことがあったのですが、その辺りのことを実に適確に表現してある文章を見つけたので、それを覚書としてこちらに記しておこうと思うたのでした。
拙者、キリスト教の信仰に入ってから特に、「神に委ねる(時にそれは神頼み的な感じ)」「神への信仰」というものへの違和感を意識するようになっておりました。
クリスチャンの方々が何かの困難に遭遇している時、まず祈ります。そして行動を起こすこともあるのだけど、起こさないこともあります。
また、困難な中にある時、それを「神からの試練」というふうに受け取り、祈りつつもその困難の中に身を委ねたまま、「神の時を待つ」ということもあります。
それぞれ、神との関係性において祈りの中で感じるところ、確信するところがあるのだと思うのですが、拙者にはときにそれは、「まだその人はやるべきこと、そのときに引き受けるべき責任を引き受けていないのではないか」「ただ臆病で先延ばししているだけではないか」というふうに思うこともあります。
このことは、自分自身に対して特に強く感じます。
そういうあたりの違和感に関して、以下の文章が拙者に響いてきましたですよ。
レヴィナスというユダヤ人哲学者の思想をめぐるものです。
ユダヤ教徒であるレヴィナスは、第二次世界大戦時、自身の親族並びに実に夥しい数の同胞がホロコーストで殺された中、自身は捕虜収容所で「生き残った」哲学者です。

-レヴィナスから見たユダヤ教とは。
第二次大戦中のホロコースト(ユダヤ人大虐殺)後、多くのユダヤ人は「神に見捨てられた」という思いをひきずっていました。なぜ神は天上から介入して我々を救わなかったのか。若いユダヤ人の中には信仰を棄てる人たちも出てきました。その時、レヴィナスは不思議な護教論を説いたのです。
「人間が人間に対して行った罪の償いを神に求めてはならない。社会的正義の実現は人間の仕事である。神が真にその名にふさわしい威徳を備えたものならば、『神の救援なしに地上に正義を実現できるもの』を創造したはずである。わが身の不幸ゆえに神を信じることを止めるものは宗教的には幼児にすぎない。成人の信仰は、神の支援抜きで、地上に公正な社会を作り上げるというかたちをとるはずである。」
成熟した人間とは、神の不在に耐えてなお信仰を保ちうるもののことであるというレヴィナスの人間観は私には前代未聞のものでした。
-人間性を信じていたのですか。
人間の潜在可能性を、ですね。ユダヤ人のエートス(特性)として、「これで終わり」ということがない。どのような苦境も行き止まりも、あらゆる手立てを尽くして踏み破ってゆくという態度が集団的に勧奨されている。彼らがさまざまな分野でイノベーション(革新)を成し遂げているのはこの民族的エートスがもたらしたものだと思います。「神の不在」を「神の存在証明」に読み替えるレヴィナスの護教論もその一つです。原因と結果を置き換える、問題の次数をひとつ繰り上げる、それが思考の基本であり、信仰の基本でもある。

(毎日新聞心のページ/内田樹の研究室)

上記はレヴィナスの「弟子」である内田樹が、毎日新聞心のページでインタビューを受けた記事の一部抜粋です。
以下の引用文に関連する内容なので、取り上げました。

神は全能であるけれど、「神を畏れる心」を人間に吹き込むことだけはしなかった。それは神を畏れる心こそ「天の宝物殿が収蔵する唯一つの宝物」だからである。つまり、「神を畏れる心」はこの宇宙で最も貴重なものであり、創造主といえども被造物に与えることをはばかるものだということである。この天の宝物を人間は自力で手に入れるしかない、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、。「天の宝物」を自力で手に入れることができるまでに外部に開かれた被造物を創造したという事実そのものが「天の宝物」なのである。神の栄光は、神から隔てられつつ、神の不在に苦しみつつ、なお遠くから神を探し求め、神の声に耳傾けることのできる存在者を創造したことのうちにある。これがユダヤ一神教の信仰の原点にある逆説である。レヴィナスは『困難な自由』でこう書いている。

 その顔を隠す神とは、神学者の抽象でも詩人のイメージでもない。義人がおのれ
 の外部にひとりの支援者も見出し得ない時、いかなる制度も彼を保護してくれな
 いとき、幼児的な宗教感情を通じて神が現前するという慰めが禁じられている
 時、個人がその意識において、すなわち受難の中でしか勝利し得ない時のことで
 ある。それが受難という言葉の特殊ユダヤ的な意味である。(•••)秩序なき世
 界、善が勝利し得ない世界において、犠牲者の位置にあること、それが受難であ
 る。そのような受難が、救いのために顕現することを断念し、すべての責任を、、、、、、、
 一身に引き受けるような人間の全き成熟、、、、、、、、、、、、、、、、、、を求める神を開示するのである。

神を畏れる心を人間が獲得したのは、神が人間世界の出来事に天上的に介入して、鮮やかに悪を滅ぼし、正義をうち立てたからではない。神がそうなされなかった、、、、、、、、、、、からである。もし神自らが人間たちの所業の善悪の判断を下し、勧善懲悪の裁きを下したら、人間は霊的に決して成熟することがなくなる。どのような不正がなされ、非道が行われていても、人間にはそれを止める義務がない。神がすべてを処理してくださるからである。神が全能である世界では、人間たちは無能であることを許される。むしろ、無能であることを求められる。それゆえ、神は人間の前でその顔を隠すのである。
いかなる外からの支援も見出し得ず、「人間だけが善と悪の判定者であるような世界」に取り残され、この世界に正義と慈愛をあらしめるのは他ならぬ自分の仕事であると感じる人間のうちにはじめて「神を畏れる心」は生成する。おのれの双肩に「神に負託されたすべての責任」を感知した霊的な成人にのみ「神を畏れる心」は兆すのである。

(レヴィナスの時間論/内田樹)

以前、海外の人が日本人に対して、「日本人が水戸黄門という時代劇を喜んでいる限り、日本人の成熟はない」というようなことを言っていたのを小耳に挟んだことがありますが、そういう類の引用文ではあります。
若い世代には水戸黄門という時代劇自体をご存知ないかもしれませぬが、水戸の藩主(御隠居様に扮しておる)が行う世直し、勧善懲悪の物語であります。
ちなみに拙者はこの時代劇を子供の頃両親とよく見ておりまして、「この印籠が目に入らぬか!」とかのお決まりの場面に、ほっとしておりましたし、大分県のド田舎から茨城県の筑波大に進学してからは、その県庁所在地である水戸が近く感じられ、「黄門様のお近くではないですか!」など、思うておったですが。
そいでもって、勧善懲悪ものではないですが、フーテンの寅さんなんつーのも、よく家族と見ておりました。今のようにチャンネルの数が多くない昭和の時代、放送番組も限られておったのでしたよ。
ドラえもんなんつーのも、見ておりました。
おっと、話が脱線、引用文に戻る。
神の不在のこの世の中で、他ならぬこの私が、この世界に正義と慈愛の実現に向けて立ち働く責務がある、とその責任を感知し、引き受ける覚悟をしていけるまでに外部に開かれたところに、「神を畏れる心」が兆す。
そしてそのような存在を創造したという事実そのものが「天の宝物」である、ということ。
このくらいの全き成熟に向かっていくものだよ、人間は、っつう厳粛な発言に拙者、唸っております。「ねえ、ドラえもん」とか「御隠居様〜」とか言ってる場合じゃないの。
このような姿をこそ、ユダヤ人イエスは現していたではないか、とも思うのです。
イエスの死をただ祭り上げるのではなく、全人類の罪を背負う神の子羊としての責任を感知し、正義と慈愛の実現に向かって生き抜いたイエスを味わい、倣いたいものです。