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大阪市の神社と狛犬 ➏北区⑨大阪天満宮(前編)~数奇な運命をたどった大理石獅子~

大阪市北区の地図と神社

大阪市には、現在24の行政区があります。淀川のすぐ南側には5つの区がありますが、北区はその中央にあり、大阪市役所の所在地です。北区の中心地梅田は、西日本最大の鉄道ターミナルで、JR大阪駅や阪急・阪神の梅田駅ががあります。地勢的には、北は淀川、東は大川、南は土佐堀川と三方を河川に囲まれ、西は福島区に隣接しています。北区には、神社が11社あります。
今回の大阪天満宮で、北区の神社と狛犬の紹介は最後になります。

大阪天満宮は、大阪メトロ「南森町駅」、JR線「大阪天満宮駅」から徒歩3分ほどの町中にあります。日本一長い商店街「天神橋筋商店街」の2丁目を東に入ってすぐ。神社の隣には、落語の定席「天満天神繁昌亭」があります。大阪人は、「天満の天神さん」と親しんで呼びます。日本三大祭りの一つ「天神祭」は大阪天満宮の祭礼です。

大阪天満宮

■所在地 〒530-0041 大阪市北区天神橋2-1-8
■主祭神 菅原道真公
■由緒  大阪天満宮の境内に大将軍社という小社がある。大将軍社は当初、孝徳天皇が難波長柄豊碕宮に遷都した白雉元年(650)に、都の西北を司る方位神として祀られた。大将軍社創設から約250年が経過した延喜元年(901)、大宰府に左遷されることになった菅原道真は、浪速の港から船出する際に、大将軍神に航路の無事を祈願した。それから約半世紀後の天暦三年(949)のある夜、不思議な出来事が起こる。大将軍社の前に一夜にして7本の松が生え、その梢が夜ごとに金色に光り輝いたというのである。この報告を受けた村上天皇は、菅原道真ゆかりの奇瑞として、大将軍社の南の森に天満宮を創祀する。これが大阪天満宮の始まりである。

狛犬(獅子)1

■奉献年 昭和十八年二月吉日/元天満市塲代表/大阪青果株式會社/天満舊市塲信用利用組合
■石工  不明
■材質  大理石
■設置  拝殿前

大阪天満宮拝殿と中国獅子
拝殿前中国獅子
拝殿前中国獅子
拝殿前中国獅子
拝殿前中国獅子

大阪天満宮の拝殿前で祭神をお守りしているのは、狛犬ではなく、像高110cmほどの白大理石製の中国獅子である。それも新しいものではなく、明代(1368~1644)の貴重な彫刻である。胴の上部には瓔珞ようらくのついた胸飾りの帯をつけている。背中には大きなリボンが結ばれて帯に続いている。尻尾は小さくて、同石の台座の上に流れるように垂れている。四肢は力強く、長く鋭い爪で台座をつかむようにしている。中国獅子では玉取り子取りの一対がよく見られるが、この獅子はその形式ではない。

台座の解説文

なぜこの中国獅子がこの場所に安置されているのか。ヒントは拝殿に向かって右側の獅子の台座にあった。側面に次のような長文の解説がある。

中国獅子台座の解説文

大東亞之戰舉所在銅鐵充軍械此處舊有青銅狻猊亦應其用而恐神慮寂寞也會得此物于民家盖明代之製所謂石獅子者西土宮殿衙署門外所峙足以繼之也乃相謀奠于此其得之如斯速且易者豈非神意乎
昭和十八年二月吉日
元天満市塲代表/大阪青果株式會社/天満舊市塲信用利用組合

読み解くのが大変だが、要約すると次のようになる。

大東亜戦争時の金属類回収令により、もとこの場所にあった「青銅の狻猊さんげい」が供出されてしまった。神様が寂しくなるのを心配していたところ、偶然民家にあったこの獅子を手に入れることができた。おそらく明代のものである。石獅子は中国の宮殿や役所の門外に立つものだから、もとの獅子のあとを継ぐのに十分である。

ところで、これを読んで二つの疑問がわく。一つは、以前この拝殿前に置かれていたという「青銅の狻猊さんげい」とはどのようなものだったのかということ。もう一つは、「偶然民家にあった」という「民家」とはどんな所なのかということである。

青銅の狻猊さんげい

「狻猊」とは漢訳仏典などにも登場する言葉で、「獅子」の別名である。現在の大理石製中国獅子が置かれる前には、青銅製の獅子が拝殿前に安置されていた。この獅子についての記録が、大阪天満宮社報『てんまてんじん』に掲載されていた。それを教えてくださったのは、大阪天満宮の禰宜、柳野等さんであった。平成6年12月発行の第27号に「境内散歩 本殿前の青銅狛犬」という記事がある。

現在、大理石製中国獅子が坐す台座は、先代の青銅狛犬のもので、「弘化二乙巳歳 四月吉辰」という紀年銘と「願主 青物中」という文字がはっきりと残っている。青銅狛犬は、弘化二年(1845)に天満青物市場によって奉納されたことがわかる。そしてその約百年後に、金属であるという理由で、戦争の犠牲になってしまったのだ。
大阪天満宮には、「銅鐵供出品写真帳」という記録が保管されており、そこに4台のトラックに載せられて供出品が搬出される様子を写した貴重な写真が残されている。その中の、青銅狛犬が今にも天満宮から運び出されようとしている1枚が、社報『てんまてんじん』に掲載されていた。

銅鐵供出品写真帳の1枚

この先待ち受けている運命も知らず、一対の狛犬が荷台から外を眺めているように見える姿があわれである。

大理石製中国獅子があった民家とは?

青銅狛犬が供出されたのは、記録によると、昭和18年(1943)1月19日のことだった。そして大理石製中国獅子が奉納されたのは、「昭和十八年二月吉日」と台座に書かれている。青銅狛犬が供出された翌月のことだった。拝殿前の狛犬が不在になって、急遽その代わりになるものを探したのであろう。新たに作製しようとすれば時間がかかりすぎる。
しかし、「民家」にこのような中国獅子が置かれているはずがない。この疑問は、いただいた大阪天満宮社報の『てんまてんじん』第29号を読んで、一気に解くことができた。

この中国獅子は、戦前、大阪船場の高麗橋1丁目にあった山中商会本社の玄関に置かれていたものであった。山中商会は、明治後期から戦前まで、大阪にある本店のほか、ニューヨークやボストン、ロンドンに支店をもち、特にイギリスでは英国王室御用達(ロイヤル・ワラント)の称号を得た美術商である。当初は日本美術品の輸出が中心であったが、20世紀に入ると中国で大量に買い付けた美術品を欧米に流通させ、「世界一の東洋古美術商」と呼ばれた。

平成7年(1995)の5月、当時の山中商会社長であった山中潔氏が大阪天満宮を訪れ、「この大理石の狛犬は山中商会の玄関にすわっていたものです」と話されたそうだ。山中商会がどのような経緯でこの中国獅子を入手したのかは不明だが、数多くの東洋美術品の流通に携わってきたことを考えると、この獅子像が山中商会にあっても不思議ではないだろう。しかし、こんな大きな会社を指して「民家」というのは、ちょっと…ね。
なお、山中商会については、朽木ゆり子著『ハウス・オブ・ヤマナカ 東洋の至宝を欧米に売った美術商』(新潮社)に詳しく述べられている。

大阪天満宮のその他の狛犬については、次回〈後編〉で書くことにします。


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