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穏田神社と不思議狛犬②

前回の「穏田神社と不思議狛犬①」の続きになります。

手水舎前の不思議狛犬

現在の穏田神社は、明治維新前にあった「第六天社」と同じ場所に鎮座しています。背後には、昔は穏田川(渋谷川)がありましたが、今は埋め立てられて遊歩道路になっています。

穏田神社参道入口

一の鳥居から参道を進むと、右手に手水舎があります。こちらの手水石は、明治18年(1885)に熊野神社が合祀された際に、移設されたものです。
この手水舎のそばに、一対の不思議な狛犬が安置されています。

不思議狛犬

狛犬は普通、狛犬本体と狛犬が乗っている第一台座までを同石で造ります。それを、別石の台座や基壇の上に置きます。この狛犬の場合、第一台座の一部が破損していて、その下の基壇にセメントで固定されています。
このことは、この狛犬が別の場所からここに移動されてきた可能性を示しています。

この狛犬をいろいろ角度を変えて見てみましょう。

参道正面から見た側面の写真
反対側(境内側)から見た側面の写真

頭の形はよく似ていますが、長さが違いますね。前肢の位置がまったく異なります。背中の線の角度も違います。

斜め前から見た写真

向かって左の狛犬が、胸を反らせて前肢を斜め前に伸ばしている様子がよくわかります。一方、向かって右の狛犬の胸の部分に何かがあります。

正面から見た写真

頭の大きさや体全体のボリュームは、右の狛犬のほうが量感があります。顔は斜め上を向いているので、口元は横一列の歯並びしか見えません。胸には飾り帯があり、中央に鈴らしきものがついています。

右の狛犬の胸の部分拡大

向かって右の狛犬の胸部は大きく誇張されています。子どもが前肢を伸ばして立ち上がり、親の胸にしがみついています。右前肢の先は指まで彫られていますが、左前肢には損傷があります。

正面斜め上から見た写真

斜め上から見てはじめて顔の表情がわかります。どちらも口を閉じていて、上の歯列だけが直線的に顔の端から端まで彫られています。頭の上部に、目鼻があります。左の方は摩耗が激しいのか、表情がよく読み取れません。

狛犬ではなく獅子だった

日本の伝統的な狛犬は、普通向かって右(神様から見て左)が口を開けた阿形、向かって左(神様から見て右)が口を閉じた吽形で、阿形を「獅子」、吽形を「狛犬」と呼びます。「狛犬」には角があることが多いです。
この一対の場合、
①両者とも口を閉じた吽形である。
②鈴のついた胸飾りをしている。
③日本の狛犬には、このサイズでこれと似たものが見当たらない。
という点などを総合すると、日本で造られた「獅子・狛犬」ではないことがわかります。
それでは、これは何か?
これは、中国大陸または朝鮮半島からやって来た「獅子」一対なのです。
ここまでは便宜上「狛犬」と呼んで来ましたが、ここからは「獅子」と呼ぶことにします。

後方から見た写真

尻尾の形は、右側は根元近くで渦を巻くような形を取り、その先は細く上に伸びます。左側は、根元附近の盛り上がりは確認できますが、そのまま首の辺りまで上に伸びています。先ほど見た子どもの尻尾も同じ形をしていました。

この不思議なスタイルの獅子が、なぜ穏田神社にあるのでしょうか。またこの獅子はいったいどこから来たのでしょうか。
日本の狛犬の場合、奉献年や石工銘が台座に彫られていることがよくあります。古いものでは、狛犬本体に刻されている場合もあります。しかしこの獅子は、本体や台座・基壇に制作の手がかりになるものがありません。

海を渡って来た獅子

この獅子が、はるばる海を渡って日本へやって来たことは確かです。しかし、いきなりこの穏田神社の守護獣としてここに来たわけではありません。
穏田神社のHPに、この獅子の由来が次のように記されていました。

この狛犬は、もともと小松公爵(元・小松宮)邸(現在の青山学院初等部のあたり)にあったもので、戦中に空襲によって全焼したため、当社の再建のために公爵邸にあったお社を譲り受けた際に共に移築されました。詳しい出自は明らかではありませんが、首の下に「飾帯」(正装時の飾り帯)をつけているところから朝鮮半島から渡ってきた狛犬と考えられます。

https://onden.jp/keidai/

この説明文には、いくつか気になるところがあります。
①「獅子」ではなく、「狛犬」としている。
②「もともと小松侯爵邸にあった」とあるが、なぜそこにあったのか。
③「飾帯」をつけていることで、「朝鮮半島から渡ってきた」と断言できるのか。

①については、すでに説明したのでいいでしょう。この獅子は、中華街などで見かけるような、いかにも「中国獅子」という姿をしていないので、「狛犬」と間違われても仕方がない気がします。中には大型の「肥前狛犬」だと思う人もいるくらいです。

②と③について考えてみましょう。
実は、知り合いの狛犬愛好家「liondog」さんのブログ「liondogの勉強部屋」に、「真夏の夜の夢――穏田神社の狛犬はどこから来たか」(1)~(7)という長文の力作があります。

たくさんの資料にあたって詳細に検討を重ね、穏田神社の狛犬(獅子)がどのようにしてこの地にやって来たのかを解明しようとする試みです。これを読めば、私があらためてここに書く意味がなくなりそうなのですが、詳しいことはliondogさんに任せて、大事な大筋だけを紹介しようと思います。

やって来たのは昭和25年

昭和20年5月25日、東京の山の手に470機ものB29が来襲しました。死者は3600人を超え、多くの家屋が焼失しました。穏田神社も、神輿庫を除きすべて失われてしまいました。その後、近くにあった小松侯爵邸から邸内社が移設され、その際に一対の狛犬(獅子)も譲り受けたということです。
東京都神社庁のHPでも、穏田神社の石獅子について紹介していますが、この移設が昭和25年のことであったと記されています。さらにその時の一枚の小さな写真が添えられていました。

移築は深夜、牛車によって行われた。 右側に狛犬が見える。(東京都神社庁HP)

間違いなく、あの石獅子です。灯籠や社殿も写っていますが、これらも同時に小松侯爵邸から運ばれたものでしょう。
穏田神社のHPでは、小松侯爵邸があった場所は、現在の青山学院初等部のあたりとしています。青山学院初等部にある日本庭園は、かつての小松輝久侯爵邸にあったものがそのまま残されているということです。穏田神社までの距離は、約1.5kmぐらいです。人や車のなくなる深夜に、牛車で運んだのですね。

この石獅子は、一言で表現して”異形”です。他に類例を見ません。まったく中国獅子らしくありません。かと言って、朝鮮半島に同様のものがあるかといえば、寡聞にして正直なところよくわかりません。

小松侯爵邸の石獅子

この石獅子が、穏田神社に来る前に小松侯爵邸にあったことはわかりましたが、それ以前はどうだったのでしょうか。どのような経緯で、この石獅子が小松侯爵邸にやって来たのでしょうか。
このことに関しては、まったく記録が見当たりません。私には想像もつきませんので、ここはliondogさんに登場願います。liondogさんは主に次のような可能性を考えておられます。

(1)日清戦争説
小松宮彰仁親王(1846~1903)という皇族がいました。小松宮を創設した人物で、明治28年(1895)、日清戦争の征清大総督となり、旅順に出向いています。
当時、戦勝記念としてさまざまなものを持ち帰るということがありました。靖国神社には、遼東半島の海城市の寺院にあった一対の獅子があります。これは山縣有朋が手配して持ち帰らせて明治天皇に献上し、その後靖国神社に下賜されたという謂れのあるものです。
清国から凱旋する小松宮彰仁親王にも、さまざまなものが献納されたようですが、その中にこの石獅子があったのかもしれません。もっとも、そのような記録はないので、あくまで想像の世界ですが・・・。

(2)台湾説
皇居の吹上御苑の南端に、「御府ぎょふ」と呼ばれる木造倉庫群があります。これは明治天皇の発案で、日清戦争後、勲功のあった将士の肖像や記念品、戦利品などを保管する所でした。最初に建てられたのが「振天府」で、正面の題額は小松宮彰仁親王が書きました。
日清戦争後の明治33年(1900)、割譲されて日本の統治下にあった台湾から、この振天府に石造獅子が贈られてきました。

振天府有光亭前の石獅子 http://liondog.my.coocan.jp/kuron/komazatu_36.htm

この石獅子は、台南に駐屯する砲兵第三大隊から贈られたものであることがわかっています。現在この場所は一般の立ち入りができないので、この石獅子がどうなっているのかは不明です。
写真からもわかるように、この石獅子は穏田神社のものとはまったく異なります。
ところで、日清戦争の明治28年(1895)に、台湾征討近衛師団長として出征した人物に北白川宮能久親王(1847~1895)がいます。親王は現地でマラリアに罹り、台南で亡くなりました。台湾では、日本の占領地になった後、各地に神社が創建されますが、北白川宮能久親王はその多くの神社の主祭神として祀られました。
この北白川宮能久親王の第四王子は輝久王という人ですが、伯父の小松宮彰仁親王が、幼少の頃から我が子同然に可愛がっていました。そして、彰仁親王の願いにより、小松宮の祭祀を継承し、財産を相続することになったのです。輝久王は21歳の時臣籍に降下して小松侯爵家を創設し、小松輝久(1888~1970)となります。
隠田神社に移設された石獅子は、この小松輝久侯爵邸にあったものでした。
父の北白川宮能久親王を介して、小松輝久侯爵と台湾とが間接的につながっていたことを考えると、台湾から振天府に獅子像が贈られたように、小松輝久侯爵にも同様に獅子像が贈られた可能性はないか、というのがliondogさんの推測です。

(3)李王家説
明治43年(1910)日本は韓国を併合し、朝鮮半島を領有しました。それに伴い、李氏朝鮮(大韓帝国)の王家は、日本の皇族に準じる存在である王族となります。
小松宮彰仁親王は、静岡県三島市に別邸を持っていましたが、親王はすでに亡くなっていたので、この三島別邸が李王家に譲渡されます。『読売新聞』明治45年6月4日付に、「李王家御新邸 故小松大将宮御別邸」という記事があるということです。
李王家が引き継いだ三島別邸には、朝鮮半島式の燈籠など、いろんなものが運び込まれました。その時に獅子像も朝鮮半島から運び込み、小松宮頼子妃に謝礼の品として贈ったとしてもおかしくはない、とliondogさんは考えます。

楽寿館(旧小松宮彰仁親王別邸) 写真:三島市観光WEB

昭和25年に小松侯爵邸から移設された穏田神社の石獅子は、いったいどこからやってきたのか。その経緯はどのようなものか。
資料を駆使しながら、いろんな可能性をさぐったliondogさんの仮説ですが、決定的な資料がないので、真相はいまだ闇の中ですね。

穏田神社には、拝殿前にもう一対狛犬さんがいます。それについては、次回に紹介しましょう。



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