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鳩森八幡神社の富士塚と狛犬

今年(2022年)の3月末、東京訪問の間に、いくつかの寺社に参拝しました。そのうちの鳩森八幡神社に、都内に現存する最古の「富士塚」がありました。富士塚は私の住む大阪では見かけないものなので、このnoteにまとめて記しておきたいと思います。

富士山と文学作品

京都に都があった時代、「山」といえば比叡山を指しました。
平安時代末期から鎌倉時代初期の天台宗の僧である慈円は、こんな歌を詠んでいます。

世の中に  山てふ山は  多かれど  山とは比叡の  御山みやまをぞいふ

一方、清少納言は『枕草子』第十三段で、たくさんの山を列挙して「をかし」と述べています。

山は、おぐら山。かせ山。三笠山。このくれ山。いりたちの山。わすれずの山。すゑの松山。かたさり山こそ、いかならむとをかしけれ。
いつはた山。かへる山。のちせの山。あさくら山、よそに見るぞをかしき。おほひれ山も、をかし。臨時の祭の舞人などの、思ひ出でらるるなるべし。
三輪の山をかし。たむけ山。まちかね山。たまさか山。みみなし山。

この中に「比叡山」は含まれていません。比叡山延暦寺は都人にとっては信仰の山なので、「をかし」の山とは言えなかったからでしょうか。さらに言えば、「富士山」もこの中に含まれていませんね。

富士山が文学作品のなかに初めて登場するのは『万葉集』です。

田子の浦ゆ  うち出でて見れば  ま白にそ  富士の高嶺に  雪は降りける

山部赤人の有名な歌ですね。『小倉百人一首』には、「田子の浦に  うち出でてみれば  白妙の  富士の高嶺に  雪は降りつつ」として収められています。

さらに、『竹取物語』や『伊勢物語』にも富士の山が登場することは、よく知られています。
かぐや姫は、不死の薬を帝に献上して、月の世界に帰って行きます。しかし悲しみに暮れる帝は、日本で一番高い山の頂でこの不死の薬を焼いてしまいます。このことから、この山を「不死の山」と呼ぶようになったということでした。

『伊勢物語』では、東国に下る主人公の男が、夏だというのに雪が降り積もる富士の山を見て歌を詠む場面があります。そして富士山については次のように表現されています。

その山は、ここにたとへば、比叡の山を 二十ばかり重ねあげたらむほどして、なりは塩尻のやうになむありける。

「ここ」とは「京」のことです。平安時代の前期には、富士山が天にもっとも近い高い山だと、人々は認識していたのですね。

伊勢物語・富士

《伊勢物語絵巻  久保惣美術館所蔵》

また、聖徳太子が「甲斐の黒駒」に乗って富士山に降り立ったという伝説があり、平安時代には「聖徳太子絵伝」などに描かれています。富士山を神聖な山とする認識は、この頃に成立しはじめたのではないかと思われます。

富士1

《聖徳太子絵伝  第三面 東京国立博物館所蔵》


富士山観の変遷

鎌倉時代に入ると、京都と幕府が置かれた鎌倉との移動が急激に増加します。「不死の山」である「富士」は、武士たちにとって勝利を祈願するのにふさわしい山であったでしょう。それは次の室町時代になっても同じです。さらに富士山の形状的な美しさも注目され、風景画に描かれたり、旅の目的地の一つにもなっていったようです。

近世になり江戸に幕府が置かれたことは、日本人の富士山に対する認識に大きな影響を与えました。富士山は一般庶民が日常的に眺めることができる江戸の風景の一部となり、江戸の名所絵には都の繁栄とあわせて象徴的に富士山が描かれるようになります。例えば日本橋の背景にはほぼすべてに江戸城と富士山が描かれるなど、富士山は首都江戸の象徴として認識されるようになったといえます。
江戸では富士山信仰が広まり、富士山へ登拝する富士講が流行しました。お伊勢参りが遊興性の度合いが高かったのに対して、富士講の場合は潔斎が厳格であったようです。富士山の自然の厳しさや神聖さに対する厳粛性が、遊興性のきわめて少ない登拝行動をもたらしたのでしょう。

以上、富士山観の変遷については、次の論文を参考にしました。
「日本人の富士山観の変遷と現代の富士山観」
田 中 絵 里 子  畠 山 輝 雄
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgeography/124/6/124_124.953/_pdf

wiki 葛飾北斎 富士登山

《Wikipedia 葛飾北斎 富嶽三十六景 諸人登山》

富士塚

江戸時代の中期には富士信仰が盛んになり、江戸を中心に「江戸八百八講」といわれるほど多くの富士講が生まれました。講中でお金を出し合い、先達に引率されて富士山に登拝しました。しかし、富士山は女人禁制であったことと、だれもが簡単に上れる山ではなかったこともあって、富士山に模して人工の山や塚を造営した「富士塚」に参拝することで、富士登山に代えることが広まりました。江戸を中心に関東地方一円に数百の富士塚が存在したと言われています。

東京の富士塚地図

https://info.jmc.or.jp/fujizuka/#11/35.6829/139.5559

富士信仰は富士山の見える江戸が中心だったので、私の住む大阪や関西圏では広まりませんでした。江戸の神社や寺院にたくさん造営された富士塚も、こちらでは見かけません。
このnoteで「富士塚」を検索すると、やはり何人もの方が投稿されていました。その中で、「とぅーむゅらす」さんの投稿をご紹介しておきます。

鳩森八幡神社の富士塚(千駄ヶ谷の富士塚)

東京都渋谷区千駄ケ谷に鳩森八幡神社があります。
伝承によると、大昔、此の地の林の中に瑞雲がたびたび現れ、ある日空から白雲が降りてきたので、不思議に思った村人が林の中に入っていくと、突然たくさんの白鳩が西に向かって飛び去ったといいます。そこでこの場所に神様が宿る小さな祠を営み、鳩森(はとのもり)と名付けたということでした。

この鳩森八幡神社の境内に、「千駄ヶ谷の富士塚」と呼ばれる富士塚があります。

鳩森八幡神社富士塚説明板

登山口から山頂の奥宮まで道が通じていて、参拝できるようになっています。しかし私が訪れたときは、残念ながら入山禁止になっていました。ちょうど富士塚のそばにある大木の剪定が行われていたので、そのせいかもしれません。そうだとしたら、タイミングの悪いことでした。

鳩森八幡神社富士塚と狛犬

鳩森八幡神社富士塚

登山口右側に設置された案内板には、次のような説明がありました。

この富士塚は寛政元年(1798)の築造といわれ、円墳形に土を盛り上げ、黒ぼく(富士山の溶岩)は頂上近くのみ配されている。山腹には要所要所に丸石を配置しており、土の露出している部分には熊笹が植えられている。頂上には奥宮を安置し、山裾の向かって左側に木造の里宮の建物がある。(以下略)

千駄ヶ谷の富士塚案内板

江戸時代の天保5~7年(1834~1836)に刊行された『江戸名所図会』の「千駄ヶ谷八幡宮」にも、この富士塚がはっきりと描かれています。

江戸名所図会・千駄ヶ谷八幡宮


富士塚前の狛犬

富士塚前の鳥居の手前には、互いにまっすぐに向き合って坐す一対の石造狛犬が安置されています。

鳩森八幡神社富士塚前狛犬結合1

この狛犬のように、顔や体を参拝者側に向けないで、まっすぐ前方を向くスタイルは古いものに多く見られます。
台座の正面には「奉納 御宝前」と彫られています。顔が見える正面から狛犬を見てみましょう。

鳩森八幡神社富士塚前狛犬結合2

前肢をやや斜め前方に突っ張って、顔は少し上方を向く姿勢は、阿吽とも共通しています。阿形の台座のこちら側にも文字が彫られています。この写真ではよくわからないので、拡大しましょう。

鳩森八幡神社富士塚前狛犬台座紀年銘

「享保二十乙卯年 九月吉日」と書かれています。享保20年は西暦1735年ですから、富士塚の築造よりも54年古いことになります。
このことからも、この狛犬が当初から富士塚の前に置かれていたのではないことは明らかです。先の『江戸名所図会』の拝殿前に描かれている狛犬がこれなのでしょうか。

江戸名所図会・千駄ヶ谷八幡宮-本殿前拡大

鳩森八幡神社は、戦災に遭って本殿などが焼失してしまいましたが、この享保の狛犬は幸いにも生き延びてくれました。戦後の再建の際に、富士塚の前に移設したのかもしれません。

鳩森八幡神社富士塚前狛犬結合3

鳩森八幡神社富士塚前狛犬結合4

阿形は丸い垂れ耳、吽形は小さい横耳です。阿吽とも、目尻が下がった垂れ目で、目の横に三本の皺があります。顎の横から体にかけていくつかの巻毛があります。阿形の上の歯は横一列に並ぶのに対し、吽形の上の歯は閉じた口から山型にのぞいています。
尻尾は立ち尾で、背中に沿わず立ち上がっています。江戸狛犬のもう一つの特徴である優雅な流れ尾ではありません。

狛犬は、正確には向かって右側が角のない阿形の「獅子」で、向かって左が角のある吽形の「狛犬」です。しかしこの狛犬には角がありません。というより、阿吽ともに頭上に穴があいているのです。

鳩森八幡神社富士塚前狛犬結合5

この頭上の穴は何でしょうか。吽形の狛犬の場合、頭上の角が取れて、そのあとが穴になることがあります。しかしここでは、阿形の頭上にも穴があいています。
江戸の狛犬には、阿形の頭上に「宝珠」をつけることがあります。これは大阪の浪速狛犬にはない造形です。この場合も、阿形の宝珠が取れた跡だとも考えられます。ただし、宝珠型狛犬が登場するのは、一般的には18世紀の末ごろからなので、享保20年(1735)奉献のこの狛犬が宝珠型であったとは考えにくいですね。
もう一つの可能性は、この穴を「盃状穴はいじょうけつ」とする見方です。「盃状穴」とは、石造物に見られるくぼんだ穴のことで、人々が信仰上何かを念じて祈りながら小石を打ったり、こすり続けたりした結果できたものと考えられています。
さて、この狛犬さんの場合、真相はどうなんでしょうか?


富士塚山麓の狛犬

「千駄ヶ谷の富士塚」の周囲を巡ると、鳥居の手前の狛犬以外に、富士塚の山麓にも狛犬がいました。大小二体で、それぞれ別の一対のうちの吽形が残されたようです。もとはどこかの社殿の前か参道に置かれていたものと思われます。

鳩森八幡神社富士塚山麓の狛犬たち

大きい方の狛犬は立ち尾の江戸狛犬で、たてがみの巻毛や流れ毛が丁寧に彫られており、前肢と後肢に饅頭紋もあり、とてもいい狛犬です。頭上、顔の一部、尻尾の先などに損傷があります。

鳩森八幡神社富士塚山麓の狛犬1

鳩森八幡神社富士塚山麓の狛犬2

ところで、この狛犬の相方の阿形狛犬が気になりますね。さらにこの狛犬はどのような由来を持つのでしょうか。それを考えるヒントが、別のところにありました。

実はこの富士塚山麓の狛犬とは別に、拝殿前にも、次の写真のような一対の石像狛犬が安置されているのですが、それがいろいろ疑問のわく狛犬でした。

鳩森八幡神社拝殿前狛犬結合

まず気になったのは、阿吽の位置が逆ですね。顔やたてがみや尻尾など、よく彫り込まれていますが、デフォルメが大きい印象でした。
さらに注意しなければならないのは、この狛犬が乗っている基壇です。

鳩森八幡神社拝殿前阿形狛犬・基壇1

まず、狛犬の大きさに比べて、基壇のサイズが大きく、バランスが悪い。さらに狛犬と下部の基壇の間に「奉」と書かれた別石の台座が入っている。
しかし、この疑問は石に刻まれた銘文によって解決しました。

鳩森八幡神社拝殿前狛犬台座銘結合

①右・・・文化十一(1814)甲戌晩秋九月
②中・・・狛犬奉献之記 昭和廿九年(1954)九月大祭吉日
③左・・・駒犬修築記年 昭和六十年(1985)一月吉日

これらの銘文から、もとの基壇・台座上には、文化11年(1814)に奉献された狛犬があったことがわかります。しかしその狛犬が何らかの理由で失われてしまいました。その理由とは、先の大戦です。これについては、社務所におられた宮司さんにおたずねしました。

鳩森八幡神社の大部分は戦災によって焼滅し、その後数度の復興事業が行われました。現在の社殿は、平成2年の御大典を記念して、昔日の姿への復元を目指して再建に取り掛かり、平成5年に竣工したものだそうです。社殿の前に置かれていた文化11年の狛犬も被害にあい、昭和29年に現在の狛犬が奉献されたということです。

ということは、富士塚の鳥居の手前の享保の狛犬は、拝殿前に置かれていたのではなかったということになります。
そこで浮上するのが、富士塚山麓にあった狛犬です。あくまで想像の域を出ませんが、一対のうち吽形だけは何とか戦災を免れて生き延びたのではないでしょうか。サイズ的にもこの台座にふさわしい大きさであり、文化年間の奉献というのも納得がいきます。

最後に、富士塚山麓にあったもう一体の、江戸流れ尾のかわいい狛犬さん。お顔が破損して痛々しいです。かつては境内のどこかの神様をお守りしていたのでしょうね。

鳩森八幡神社富士塚山麓の狛犬3

裏参道には、昭和8年奉献の勇ましい青銅製狛犬もありました。

鳩森八幡神社青銅狛犬結合

私にとって、東京の神社と狛犬は、まだまだ未知の領域です。日本全国には八万社を超える神社があり、その土地に根ざした信仰があります。神様の数も、まさに「八百万やおよろず」で、私が親しむ狛犬にもそれぞれの地方色があります。今回の短い旅でも、その奥深さの一端に触れることができました。



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