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書けない時間も楽しむ

書く時間が好きです。思うままに文字を書きつらね、言葉ができて、何もないところから文章ができあがる楽しみ。

はじめに考えていたものとは、まったくちがう文章になっても大丈夫です。誰も怒りはしません。書いているとき、私は自由なのです。

小学校や中学校で作文を書かされるのは嫌いでした。私は子どもながらに大人たちが求めていることを察して、書きたいことではなく、書いたほうがよさそうなことを、書いていたからです。

自分が大人になったいま、誰の思いも気にせず、人を傷つけさえしなければ、好きなことを好きなように書いてよいのです。これほどすばらしい時間ですから、お金がかかりそうなものですが、無料なのです。無料!

いいのでしょうか? お金も払わずにこれほどいい思いをしてしまって。何かの法に触れていてもおかしくありません。それでも幸い、いまのところ私は捕まることなく、こうして自由に文章を書いています。

これほど楽しい書く時間ですが、私は書かない時間も好きです。書けない時間と言ってもいいかもしれません。何を書いてよいやら、どうしても思いつかない時間。

パソコンのまえに座り、何分も、何十分も、ときには何時間も、筆が進まないときがあります。真っ白な画面をじっと見ているような時間です。

かつては、こうした書かない時間が嫌いでした。何もものごとが進んでいない気がして、時間をむだにしてしまっているような気がして。なぜ書けないのだろうと思うと、よけいに焦ったり。

いつからでしょうか。何もしていない時間に耐えられなくなったのは。何かをしていないと、人生を少しずつ捨てているような気がするようになったのは。書きつづけていないと、意味がないような気持ち。

でも、いいのです。書けない時間も、書く時間の、大切な一部なのです。そう気づいたのは、ここ数年のことのような気がします。書かない、書けないからといって、その時間はむだではなく、私を豊かにしてくれるのです。

生産性という言葉があります。書けない時間は、生産性のない時間です。しかし、生産性のない時間は悪でしょうか? そんなことはありません。私には書く自由があるように、何もしない自由があるのですから。

何かを生み出していないといけないと、誰が決めたのでしょうか? いつも誰かの期待に応える必要なんてありません。大人たちが求めているようなことを、作文に書く必要はないのです。

自由に書きましょう。あるいは、自由に手を止めましょう。書けない時間も、書く時間の一部として楽しめるようになると、心が豊かになります。

書く時間は、書けない時間は、暮らしの余白だと思います。忙しい生活に追われているとき、五分だけでも書く時間を、書けない時間を、味わいましょう

何もしない時間も、いいものです。

では、また!






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