有名人が死んだ夜に大爆笑すること

久しぶりの更新です。

普段はTwitterやYouTubeをやっていますが、ブログのような活字でアウトプットをしたくなったので、noteを再開したいかなと思います。

たぶん、ネタがなくなれば更新は止まります。

飽きるまで楽しむのが自分のモットーみたいなものなので、飽きるまで書こうと思います。


さて、本題です。
2021年12月19日
神田沙也加さんが死にましたね。
ホテルからの転落です。
原因は不明です。


しばらくはマスコミなどがアレやコレやとネタにしてくでしょう。
奴らに偲ぶ気持ちは無いので、「書くのを辞めろ」と言うのではなく、「読むのを辞めろ」と大衆に言うべきかなとは思います。

いつまで踊らされるのか、逆に霹靂しています。

私は特に神田沙也加さんに思い入れがあるわけではないですが、よく目にする方で凄く輝いていた方ですから多少なりとも思う所はあります。

死因がまだ不明ですので、自殺なのか事件なのか事故なのか、明らかになるまでその死を偲ぶこともしません。

人間ってのは自ら死ねる生き物です。
五体満足で今日笑顔でも、明日には自ら死ねるのが人間です。

特に日本なんて銃弾も飛んでなければ地雷もありません。

日本で死ぬ時は外的要因よりも内的要因で死ぬ方が簡単です。

死ねるからこそ、死んではいけない。と私は思います。

死んだらそこで終わり。
残された人に悲しみを残して、勝手に居なくなるなんて馬鹿にされている気分になるので、自殺なら絶対に偲んでやるかと思います。

だから、事故であってほしい気持ちもあります。

さて、そんな何とも言えないモヤモヤした気持ちを抱いたまま寝て、起きて、同日に開催されたM-1グランプリの敗者復活を見始めました。

お笑いの賞レースですから、もちろん笑います。

Twitterでアレコレ話したりもします。
もちろん、トレンド欄には神田沙也加の死の見出しのニュースがあります。
当然目に付きますが、上記の理由で見たりはしません。

そんな自分、いや自分以外でも客観的に見ると変な話です。

少なからず感情が動くような人が死んだのに、半日たったらお笑い番組で大爆笑しています。

これに対して不謹慎だと言う声があるかもしれません。

ただ、そう言うのは個々人で思い、個々人で想うべきであって、他人に押し付けるのはナンセンス。

わざわざSNSで偲ぶアピールをする人だっています。

当の本人は死んでるのに。

それも個々人の想いですから、嫌悪感は無いです。

それでいいと思います。

死んだらその人の時間は止まります。

ですが、生きている人の時間は進んでいます。

時間は平等です。

悲しみに暮れる時間が必要だけど、悲しみから明ける時間も必要です。

ましてや親族でもない遠い人。


ここまで読んで私を非情や薄情と思う人が居たら、きっとそれは正しい。

過去に色々あって私の死生観はバグっているので、もうその正しさには戻れないけど、その気持ちは忘れないでほしい。

その話は気が向いた時にしましょうか。


閑話休題


ここまで長々と書いていて、結局何が言いたいのか。

答えは何でもであり、何でもでもない。

氏が死ななかったらこんな文章を書くことも無かったろう。

これが私なりのバランスの取り方なのだと思います。

人の心に安定などありません。
常に不安定です。
プラスとマイナスを常に可変して生きていくのが人間です。

だからきっと、プラスに戻したいから、笑うんです。

マイナスのまま沈み込んだら、持っていかれます。

死に。

だから、自殺だったら厄介だよねって。
勝手に死んだのに、まだ生きてるこっちを死へ引き寄せるんだから、死してなお責められるべきだよねっていう。

9.11の同時多発テロや、3.11の東日本大震災の被災者が言ってた言葉が、曖昧だけど残ってる。

当事者の自分達が辛いのは当然だけど、当事者でもない人まで辛い雰囲気になられると、自分達はどこを見ても辛くなる。
だから気を使わず、可能な限り本来の日常を送ってほしい。
それが1番の気遣い。

なるほどと思った。
それ以来、たとえ地震が来ようが、ミサイルが飛んで来ようが、誰かが死のうが、自分は自分であり続けようとしている。
笑ったり泣いたり怒ったりしようと。
下ネタだってバンバンツイートしちゃう(笑)

こんな文章だって書いちゃう。

だからもし、このタイトルのような事を思っている人がこれを見たらこれを伝えたいなと思い、この話は終わりたい。

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