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幼児を相手に意識高い系ぶらんでも

「孫への愛着は、子への愛情の証明です」

娘が生後3ヶ月を迎え、身長が12センチ伸び、体重が倍になりました。

半寝返りをしながら「う〜〜う〜〜」と唸るようになった我が娘は、自分の力で物を動かすことに興奮するのか、蹴ったら揺れるおもちゃを見てキャッキャ、毛布や紐を掴んでキャッキャ。

かわいい。

そんな娘と接していると、「ぴ〜〜」だとか「ふぃ〜〜」だとか、自然とそういう声が出る。

なんなんでしょうね。

そんな自分を俯瞰で見て気付いたのですが、仕事だとか、創作っぽいことしようとしたりだとか、そういうときに「意識高い系」ぽい思考で動いている私。かっこつけようとしている私。

でも娘の前ではふにゃふにゃして、謎の声を出し、脱力しています。

ギャン泣きしたら「うるせーな」と思うし、にこにこしてれば「かわいい」と思う。フラットな距離感。ちんちんだって出せる距離感。娘の前では丸裸や。

丸裸なのは、私に限ったことではなくて、嫁さんも、両親も義理の両親も、同じ。

みんなそんなジョータイで娘と接しています。

そんなもんだから、お洋服だとか、おもちゃだとか、そういうものの9割以上がもらいものになっている。

我々夫婦が買ったものは1割ほどである。

「孫に買ってあげたい」と孫への愛着をこれでもかと見せつけられ、我々は有り難い限り。遠慮はない。

そんなときに思ったのが、孫への愛着は、子への愛情の延長線上にあること。

孫はこの先にいる。

それも有り難い限りや。

作家さんや漫画家さんは、かっこつけずに、どうやってモノづくりをしているんだろう。

意識高い系ダサいと思いながら、意識高い系ぽい動きをしている自分に気付いてしまってから、それを変えたいと思うようになりました。

仕事では、まぁ、求められていることがあって、その通りのものを創ることが何よりだと思うので、まぁ、ある程度は、かっこいいものをつくろうとすべきなので、まぁ、仕方ないと思うのですが、

どうしようもなくかっこつけていないものを創ってみたいなぁと、娘と接している自分を客観的に見て思った次第であります。

たとえば、毎日商店街の片隅でギターを弾き語りして、なんかかっこ悪いな自分って思っていたとしても、それはかっこ悪い自分をかっこつけている意識高い系ぽい動きに他ならなかったりして、そういう状態でいるの、つまんないなぁ、と。

娘に教えられることは多い。

へんにかっこつけない自分でモノづくりをしてみたいなぁ、と思う今日この頃。

娘、かわいいんですよホント。

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