自他境界がぶよぶよのまま気が付いたら二十年経ってる

※このnoteを表現規制や女性差別問題に関わる議論の参考にするのはやめてください。以前も言いましたが、表現規制や女性差別に関わる議論は「所詮個人の気持ちの問題だろ」で終わらせられる物ではないと思っています。

自分をカウンセリングする為だけに自分語りをしていいですか?いいよ!ありがとう!

自分の感情や欲望をいちいち他者に承認して許可してほしい欲求があります。自分語り文なんて勝手に書けばいいのに、何故か他者に「自分語りしていいですか」とか許可を求めるメンタル。そして「良いよ」と承認してもらいたいメンタル。未だに小学五年生くらいのメンタルから成長できていない私のメンタル。もう年齢的にはとっくに大人なのに。

未だに「せんせーーー!!昨日吉田さんが寄り道して買い食いしてました!よくないと思います!!」って学級会でつるし上げしたい小学生優等生タイプ女子みたいなメンタルでいる。見た目は大人中身は十一歳の化け物が出来上がってしまっている。早く人間になりたい。自我がない。私の自我はとろけてふやけて輪郭をなくして『みんな』と同化している。『みんな』なんて私の妄想でしかないのにな。

自分の頭で『みんな』とかいうその他大勢の他者を作りだして同化しようとしている(そして他者にも同化を強要する)自分は、ミッドサマーに出てくるホルガ村の住人にそっくりです。先日ミッドサマーを見たのですが、ホルガ村の住人がまるでオタクコミュニティにどっぷりな自分みたいで笑えませんでした。「こえーw」って楽しみ方ができなかった。だってあのふるまいは完全に私だから。

既に激やばメンタルだった小学生の頃の話をしますね

自分のカウンセリングの為に、私がいかにして愚痴垢メンタルを作り上げていったのかを自分語りしますね。自他境界曖昧人間、すぐに自我を見失っておかしくなるので。何がどうしてこんなにおかしいことになっているかを書いて自分で認識しておかないと、無意識にまた自我を失うので。

小学生の頃、私はどちらかというといじめられっ子タイプでした。友達は少なく、クラスにも居場所のいない子供でした。発言力に乏しく運動は出来ずどんくさく特に可愛くもなく卑屈で常に他人の目を伺い、大人をイラつかせる子供。いじめられたり、学級会で吊るしあげられるタイプの人間です。友達がいないから庇ってくれる人もいません。強い口調で攻め立てれば押されて黙り込む小柄な女子は、吊るしあげにもってこいの人材だったと思います。これは完全に不運ですが、私の通っていた小学校は学級会?学級裁判?を活発に行う校風でした。特に五年生の頃所属していたクラスは、表立ったいじめは少ない分、帰りの会での学級裁判つるし上げが異様に活発でした。

「一人で登下校している(※登校班の友達からは当然のごとくハブられていた)」「学校に文庫本を持ち込んでいる(※友達がいなすぎて休み時間は本を読む以外にすることなかった)」「昼休みのドッヂボール大会に参加しなかった(※孤立必至の地獄ドッヂボールに参加したくなかった)」など、多岐にわたる理由でクラスメイトから「謝ってください!」と糾弾され、私は週に一度は黒板の前で謝っていました。

たかだか文庫本を持ち込んだ程度であそこまで糾弾されていたのは、今思うとかなり異常な環境です。軽くイジメっぽいですが、当時の自分には【これはイジメだ】と自覚できるほどの自我もありませんでした。先生や親に助けを求めるという発想もなかった。悲しいとか辛いとか、そういう感情の自覚もできていませんでした。全てを当然のことだと思っていました。

【涙の数だけ強くなれる】なんてことは決してなく(あくまで私の話です。涙の数だけ強くなれる子供も存在するような気がします)、吊るしあげの経験を積み上げた結果、私は自分の脳内に『ルール違反をした他者は吊るしあげして思いっきり責め立ててしていい』という強固な価値観を作り上げました。一度だけ糾弾する側として学級会で発言したことがあるのですが、「よくないと思います!」と言ってクラスメイトを指さしたとき、私が感じていたのは罪悪感ではなく爽快感でした。私でも『こっち側』の人間になれるんだ、『こっち側』に立つとこんなに気持ちがいい物なんだ、とテンションが爆上がりしたのを今でも覚えています。何を理由にクラスメイトのつるし上げを行ったのかは既に忘れましたが、あの時の爽快感だけをやたらと覚えてる。

他人を糾弾するのは気持ちが良かったです。それらしい理由をつけて他人を吊るしあげて謝罪させたときの、『私の力でこいつに惨めな思いを味わわせてやった』『私の力でこいつを罰してやった』という感情を今でも思い出せるくらいです。普段は私をつまはじきにしていたクラスメイト達が、その瞬間だけは「○○ちゃんルール違反だよねおかしいよねひどいよね」と私に同調してくれました。あの瞬間だけ、私はつまはじきされている『あっち側』ではなく、『みんなと一緒』の土俵に上がることができていました。

書き出してみて思うのですが、小学生の時点でかなり出来上がってしまっていますね。既に激ヤバメンタルの土台が出来上がってしまっている。小学生の時点で既にカウンセリング案件だったと思うのですが、私自身が激ヤバメンタルの自覚もできていなかったので、周りの大人に助けを求められなかった。表面上はいい子だったんです。成績も悪くはなく、問題行動もなく、大人しく目立たない子供でした。

小学校に関していい思い出が一個もないのですが、とにかくあの頃から虚栄心だけがすごかったので、「友達がいないのはクラスの連中が幼稚だから」という欺瞞だけで六年間を乗り切りました(この手のクソ選民思考を引き継いでオタク化したのでお察しの通り非常にヤバいです)。私は激ヤバメンタルのままで中学に入学し、インターネットの世界を知り、オタクを深めると同時にさらに激ヤバメンタルを加速させていきます。

脳内に愚痴垢人格を飼っていたら幻聴が聞こえるようになりました

あの頃のインターネット地獄の話を書いていたら懐かし過ぎて5000文字くらいの余談を書いちゃったので消しました。中学生になって、インターネットの個人サイトを知りました。毒吐きネットマナーに同盟リンクにダミーエンターにBBS。懐かし過ぎる。手ブロとかも流行りましたよね。同人サイトをリンクで回るうちにBBSに『管理人さん掲示板にさらされてますよ』という書き込みを見つけ、そこから2chの存在を知りました。魅惑の学級会現場、2ちゃんねるヲチ板(魅惑って書き方心の底から最低なんだけど、当時の自分にとってそれは魅惑に思えていたので、敢えて『魅惑』と書いておきます)。

炎上の現場は匿名掲示板からTwitter上の捨て垢に移行してきた感じがありますが、行われている事はあの頃と変わりません。一度目を付けたら、個人の情報を血眼で見つけ出して晒上げて共有して監視して監視して監視してそれっぽく難癖付けて匿名メッセージを送りまくって潰れるまでいたぶる。掲示板や愚痴垢で繰り広げられるその行為は、小学生の頃の『学級会』と似ていました。しかもこの『学級会』なら、私は糾弾される側ではなく糾弾する側としてその様子を観察できました。具体的に『叩き』行為に参加しない分厄介で、眺めているだけで発言をしなければ、叩いている側にのことも叩かれている側のことも神様視点で無限に批判することができます。

私は常に批判する側の人間でいたかったんです。常に「あの人おかしい」と眉を顰める『みんな』の側の人間でいたかった(『みんな』なんて幻覚なんだけどそんなことには気づけていない)。常に無謬の批判者側でいるためには、具体的な行動を起こしてはいけません。行動を起こしてしまえば、いくらでも批判ポイントは発生します。『批判のつけようがない完璧な自分』『一方的に他者を批判し断罪できる(みんなと一緒のちゃんとした)自分』でいるためには、具体的な行動を一切取らないでいる必要がありました(むしろ匿名掲示板や捨て垢で具体的な行動をとっている人よりも心根が悪いかもしれない)。

この最悪な欲求が逆に功を奏し、掲示板への書き込みや捨て垢の作成もせず、具体的な嫌がらせ行為はあまり行わずに済みました(炎上に加担していないなんてことはなく、Twitter上で空リプで「あたおかなの?」「ルール破る害悪は消えてどうぞ」くらいの罵倒をカジュアルに行っていました。私のあのツイートをきっかけに心を病んで亡くなった人がいたとしたら、間違いなく私の行為は人殺しです)。学級会をながめては他者に無限に難癖をつけるトレーニングを積み、中学生~大学生までで匿名掲示板と愚痴垢の文化にどっぷり浸り、私は脳内で着々と愚痴垢の人格を育てていきました。(※愚痴垢って基本的に愚痴というより加害なんですが、前回のnoteで書いたようなおかしな認知状態を完成させていました)

物事に対して完璧な対応ができる人間なんて存在しません。そのことに気づくのに、小学校の学級会からたっぷり十年以上を浪費しました。何も行動をせず携帯をながめている間だけは『完璧な私』でいられますが、一度行動を起こしてしまえば『完璧』とは程遠い自分が現れ、脳内の愚痴垢たちは私に向かって無限に批判を繰り広げます。

脳内の愚痴垢っていうか、つまりそれは『世間の皆様の声』的な私の妄想なんですけど。もう息をするように『世間の皆様の声』を妄想して、自分や他社の行動を批判していました。大学生まではそれでも何とか乗り切れたのですが、社会人になってからは徐々に脳内の自己批判の声を制御できなくなりました。仕事でミスをしたときなんか大変です。頭の中では「何でこんな無能が生きてるの」とか「ミスしたくせに昼休憩は取るんだ」とか「涙ぐんで見せれば許されると思ってるのか」とか「無能なくせに自虐と自責のポーズだけは得意なんだね」とか「責任も取らせてもらえない無能のくせに責任感だけは無駄に一人前なんだね」とか「自虐して落ち込んでる暇があったらせめて働いたらいいのに、低能乙(低能乙って今でも言うんだろうか)」とか、延々と自分で自分に難癖をつけている状態でした。

状況は日に日に悪化し、気が付いた時には幻聴が聞こえるようになっていました。私の頭は、想像と現実の区別がつかなくなってしまったのです。『他人が言いそうな事』を先回りして自分の頭で想像しているだけなのですが、その行為をやりすぎて『自分が想像しているだけの他人の声』と『本当に他人が言ったこと』がわからなくなっていました。水を飲んでも風呂に入っても布団に居ても電車の中でも仕事をしていてもパソコンを見ていても、とにかくずっと世間の声が聞こえました(※幻聴)。

自分のしっぽを追いかけてへとへとになってる犬みたいな感じ。誰かにきつい事を言われたとか嫌がらせを受けたとかそういうきっかけは一切ありません。仕事で取り返しようのないミスをして大損害をだしたとかでもなかった。ただただ自分の頭の中でシャドーボクシングをしすぎて、一人で消耗して一人で自滅しました。

入社してからたったの半年で私は部屋から出られなくなり、折角入った会社を退職してしまいました(休職という手段はあったんですが、『散々迷惑をかけておいて元の職場に戻るなんて厚顔無恥にもほどがある、白い目で見られるに決まってるのに』という内なる世間の声に抗えませんでした)。職場がブラックだったとか上司がパワハラ人間だったとかではなく、完全に百パーセント自業自得の鬱病です。

つまり認知が歪んでいたし、恐らく自己肯定感はゼロ

鬱病で動けなくなって、初めてカウンセリングを受けました。そこでようやく、自分の認知の歪みを自覚しました。おかしな具合に思考の癖がついていて、自分を責める他人を頭の中で作りだしている。『完璧じゃない自分』が許容できないから、『完璧じゃない他人』が許容できない。『完璧な自分じゃないと存在してはいけない』と思っているから、失敗を恐れて異様に行動力がない(失敗=死だと思ってる)。具体的な行動は一切取らず、批判を恐れて人との関りを避けるから、対人スキルが積めない。他人との会話経験自体が少ないから自分と他人の区別がつけられていない。

自他境界があいまいだから、自分が許せないのと同じ分だけ、他人の事が許せない。自他境界があいまいだから、自分の頭の中だけで作り上げた『他人の発言』を、まるで本物のように思い込んでしまう。自分が考えるのと同じような事を他人も考えて、自分が批判するのと同じような部分を他人も批判すると思っている。

私の脳みそは未だに小学五年生です。未だに小学五年生の、学級会で他人を吊るしあげる快感を味わっていた頃の、あの自分から抜けられてないです。グロテスクだけどこれが事実なのでこう書いておくしかない。『普通≒完璧である事、それゆえ他人から存在を認められている事』という誤った前提を持っていて、『普通でない人は存在してはならないため、他人から無限に断罪されまくって潰されるのが当然』という修羅の国のような世界観で生きている。自分の思考も行動も感情も、何から何まで他者から承認を得ないといけないような思い込みがあります。「先生トイレ行っていいですか」ってしてたあの頃から一歩も動けてない。

自分の感情を誰かに認めてほしい。『正しいよ』って言ってほしい。そうじゃないと自分の感情すらも認められない。もうグロすぎて吐き気も催せないレベルだけどなんかもうそういうメンタルになってしまっている。

自分で自分を認められないから、自分の感情(特にマイナスの感情)を権威的な何かでコーティングするんです。「あいつが嫌い」を「マナー違反・ルール違反」でコーティングする。そうすればこの感情は「みんなの為」ってことにできる。「みんなの為」ってことにすれば、攻撃的な言動が免罪される(と思ってる)。「嫌い」という感情をそのまま認められないから、「自分が嫌いな物=倫理的に問題があるもの・存在してはいけないもの(だから攻撃する)」という誤認をしてしまう。

『完璧じゃない自分(他者)は存在してはいけない』という世界観で生きているので、他人からの指摘を過剰に受け止め「攻撃された」と誤認する。もうちょい詳しく書くと、

①完璧じゃない他人・完璧じゃない自分は存在を許されない

②他人から自分への指摘・批判=「お前は完璧じゃない」というメッセージ

③私に批判や指摘をしてくる他者は、「お前は完璧じゃないから存在してはいけない」と言っている、つまり私を攻撃している

という、これはつまり自動思考ってやつだと思うんですけど、無意識にここまで一気に考え、過剰に恐怖を感じて防御しようとするんです(ここに「傷ついたから反撃」を隠れ蓑にした加害欲求が合わさる)。ほんの少しでも自分や自分の好きなコンテンツが批判されると、「攻撃された!反撃していいよね!?」と過剰なくらいに反応してしまう(そして批判してきた誰かに無限に難癖をつける。完璧じゃない他者は存在してはいけないと思ってるので、難癖をつけられるポイントが一つでもあれば排除できると思っている)。自他の区別が曖昧なので、自分の好きなもの・好きな人を自分と同一視してしまっている。なので当たり判定が異様に広い。雨が降っても風が吹いても傷つけられたと感じてしまい、ほんの些細な事から他人を攻撃しに走る(「攻撃されたので反撃してる」と思ってる)。

自他境界ぼやぼや+自己肯定感ゼロ+加害欲求の悪魔合体です。自己肯定感が欲しい。はやく人間になりたい。

他者から認められなかったところで死なないし、完璧じゃない自分だって存在していいし、失敗したところで切腹しなくていい。他人は自分じゃないし、他人と異なる部分があったって自分は存在していいし、それと同じように自分と異なる他人だって存在していい。書いてみると普通っぽい言葉の羅列ですが、これらの事が未だにどこか腹落ちしていない。

カウンセリングを受けたところで、たちどころに鬱が治るわけではありませんでした。マジで絶望だけど。自分で自分の認知の歪みを自覚して、ちょっとずつちょっとずつ矯正していくしかないみたいです。鬱病で倒れてから数年が経ちました。就職してギリギリ社会人として生きていますが、未だに自意識タプタプ自他境界ずぶずぶのメンタル。今でも自意識シャドーボクシングを続けています。最近コロナのせいで家にこもりがちで、そのせいで余計に拗らせが進行している。

ていうか私の脳内がゴッサムシティなんですけど

自己肯定感ゼロ+自他境界曖昧+学級会大好き加害欲求特盛小五メンタルが合わさって自分の脳内が地獄。ブルースウェイン不在のゴッサムシティ(こういう例え言うと脳内愚痴垢が「バットマンに飛び火させないでください!バットマンのイメージが悪くなります!」と主張しだします)。

一説によると、他人を断罪するときに覚える快感は性行為よりも強いらしいですね。だと思ったよ。学級会でクラスメイトを糾弾するの、やばいくらいよかったもんな。よすぎた。癖になるかと思った。ていうか癖になっちゃった。最悪だな。

ドラッグみたいなもので、脳内で他人を一方的に断罪するときの快感ったらやばいものがありました。すっかり癖になって依存症みたいになってるし、その弊害で自己肯定感はゼロになり、自他境界はあいまいになり、鬱病を発症し、どうしようもなく人生が困難になっている。

これは完全に自他境界曖昧ゆえの余計なお世話だけど、前回のnote読んで「完璧にわかる超わかる」って思っちゃった人はカウンセリングに行って洗いざらい話した方がいいかもしれないです。カウンセリングって高いし一回や二回じゃ大した効果はないけど、こういう思考の癖を放置しておくとそのうち大変なことになるので。行くとこまで行って、私は幻聴が聞こえるようになったよ。

タイムマシンがあるんなら、小学五年生の自分にこのブログを見せてやるのにな。恥の多い生涯を送ってきたし臆病な自尊心と尊大な羞恥心に振り回されて人生を棒に振っている感がすごい。

自己肯定感ゼロゆえの卑屈自虐ムーブ+自他境界曖昧の合わせ技で、森羅万象に攻撃的でした。特にネット上だとその傾向が顕著でした。自分の好きなコンテンツと自分を同一視して、異様に広い当たり判定で「攻撃され傷ついた私たち(自他境界曖昧だから『私』じゃなくて『私たち』としか認識できない)」という状態を自ら作り出し、自分の加害欲求を認められないので「攻撃されたので反撃している」という意識の元に、他人に攻撃的な目を向けていました。

自分の好きなコンテンツに関して、「攻撃された」ってことにしていいポイントがいくつかあって、誰かの言動がそこのポイントを掠めたら「攻撃された!攻撃されたから傷ついた!」という反応を返していました。本当のところ自分が傷ついていたかどうかは微妙なんだけど、とにかく「傷ついた!傷ついた!」と思ってるうちに本当に傷つけられたみたいな気分になってくる。「傷ついた」という状態になってしまえばこっちのもの(こっちのものって何だよって話ですが)、あとはもう反撃のために何を言ってもやってもOK。当り屋みたいなメンタルをしていた。

目に映る全ての物はメッセージみたいな世界を生きていました。無意識ですが、もう他人の言動(特にTwitter上に流れてくるオタクの発言)のすべては私に向けられたメッセージだと思ってた。自意識過剰どころの騒ぎではない。

解釈違いの二次創作を目にすれば「私は自衛してるのに注意書きをしなかった作者のせいで騙されて地雷の作品を読まされた、私は攻撃された」と感じ、自虐してないオタクを目にしては「マウントを取られた、私は攻撃された」と感じ、ローカルルールを破るオタクを目にしては「ローカルルールを破るなんて私たち界隈への攻撃だ」と感じ(これは以前に書きましたね)、なんていうかもうそういう世界を見ていました。そうして加害欲求を満たすために赤の他人の監視を始める(具体的にはTwitterなどで一言二言それっぽい苦言や悪口を放った後で掲示板や愚痴垢を見に行き留飲を下げる。そして炎上したら「やっぱりね」的な事を呟いて悦に入る)。馬鹿みたいだな。もうシンプルにはっきりと馬鹿です。だけど当時の自分は「繊細で他人の気持ちが分かって傷つきやすくて優しい私」くらいのセルフイメージを持ってた(書いてて最悪の気分です)。自分の矛盾には全く気付かず、ネットトロールの話を読んでもまさかそれが自分の事だなんて夢にも思わず、とにかくその場その場の「傷ついた」「マウント取られた」判定だけを繰り返して生きていました。

あのままだとそのうち「横断歩道を渡りたいのに信号機が赤になった、私は攻撃された(そして反撃として信号機を蹴り出す)」くらいまで行ってたと思います。かなり煮詰まった状態です。鬱病でストップがかかったので九死に一生を得ましたが、今頃誰かに取り返しのつかない加害行為を行って訴えられててもおかしくなかった。

世界は因果応報の仕組みで動いてない

バケモノみたいになってる私の最初のしくじりポイントは、おそらく小学生のあの時でした。理不尽につるし上げられていたあの時、私はそれを理不尽だと感じることができなかった。私が悪い事をしたから、因果応報で他者からの叱責を受けていると思っていた。私が因果応報で吊し上げを受けたように、どこかの誰かも因果応報で報いを受けるんだと思っていた。火のない所に煙は立たないと思ってた。いじめはいじめを受ける人に原因があるし、詐欺は騙される側に原因があるし、痴漢は痴漢をされている人に原因があると思ってた(関係ないですが、上に書いていった私の認知の歪みって、痴漢する人の心情に結構近い気がする)。

こういうの、世界公平仮設って言うらしいですね。私が至らないから、完璧じゃないから、責められても仕方がないと思っていた(だから完璧じゃない他人も責めていいもんだと思ってた)。でもそうじゃなかった。私が受けたあれはクラスぐるみのいじめだったし、あれを容認していた先生はおかしかった。私の周りの大人たちは、いじめを受けていた私を助けてくれなきゃいけなかった。(だから同時に、いじめを受けている誰かがいたとしたら助けられるべきだった)

私の両親は共働きでしたが、時間がないながら全力で私の面倒を見てくれていたと思います。共働きによる金銭的な恩恵も十分すぎるほどに受けて育ってきたし、私の家族は決して「毒親」的な何かではありませんでした。私の激ヤバメンタルが露呈しなかったのは、単純に家族で過ごす時間が少なかった結果です。ただ、言い切っておかないと先に進めないので、もうあえて言い切っておきます。私はあの時誰かに助けてもらうべきだった。今思ってもあれは、子供の手に負えるような状況じゃなかった。だって先生もいじめを容認してたし。

だけど私はもう子供ではないので、今となっては自分の面倒は自分で見なければいけません。自分の感情を根本から認めて許して慰撫することができるのはもはや自分だけです(でも金さえ払えばカウンセラーが話を聞いてくれるからおすすめ)。

私はもう小学五年生ではないし、学級会も存在しないし、顔色を窺わないといけない先生だって、私を吊るしあげてくるクラスメイトだって存在しない。いつまでもあの頃のメンタルで止まってるわけにはいかない。だから、この場であの日の自分の感情を肯定する作業をします。学校に文庫本を持ってきたとか、登下校を一人でしていたとか、体育係主催のドッヂボール大会に参加しなかったとか、そんな理由でクラスの全員んに謝罪しないといけないのはおかしい。無理やりに謝罪させられたのは屈辱だったし、悲しかったし、怖かったし、理不尽だった。この件に関しては自分の事を被害者面してるとか思うのはやめる。あれはどう考えても理不尽ないじめだった。

世界は公平にできてないですね。他人は絶対の正義ではないし、多数派が間違うことだって多いし、理不尽な理由で加害を受け傷つく人だっている。多数派に乗っかった結果、自分が加害者になる可能性がある。私が理不尽にいじめられたように、他人も理不尽にいじめられているかもしれない。多数派の誰かに認められなくたって、理不尽な事は理不尽だと認めていい。他人に認められなくたって、正当性がなくたって、自分の感情は自分で肯定していい。

この事に気づくのに二十年ちかくかかって、未だに自意識がぶよぶよのままスライムみたいに生きてます。ホルガ村の住人のごとく他人に無限に同調しようとします。なぜなら、自分で自分を認められてないから。自分が何を感じているかとか、何を考えているかとか、そういうのってもう基本は自分自身で掬い上げていかないとどうしようもないのにね。自分の感情を他人に納得して承認してもらう必要なんて一切ない。見ず知らずの他人の感情を認めてあげたり肯定してあげる必要も多分一切ない(この辺は関係性によるね)。

とにかく、自分の事を自分で認めていかないとどうしようもなくなる。「ムカつく」とか「いやだ」とかのマイナス感情も、脳内にタプタプの加害欲求も、とにかく自覚しない事にはどうしようもなかった。この作業をさぼった結果のツケがすごいことになってる。自分の事を自分で認めることができないから、色んな大義名分にかこつけて執拗に他人を敵視して、攻撃的な目を向けていた。

『自己肯定感を増やす本』とか大量に読んでみたけど、こういうのって結局積み重ねのトレーニングで、一朝一夕で考えが変わる物でもないらしい。なのでだらだらとnoteに長文を書きながら、必死で自分に言い聞かせてます。完璧じゃなくても、醜くても、他人から承認されなくても、誰かに迷惑かけまくったとしても、人って存在してていいらしいよ。

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