見出し画像

京都市長選候補の松井孝治さんとの思い出

「君は日本の光になる」

20代後半で、まだ何者でもなかった僕は面食らった。

当時、国会議員だった松井孝治先生は支援者の講演会に僕を呼び、僕のプレゼンを聞いて心から喜んでくれた。

当時は訪問型病児保育という、風変わりでどうなるかもよく分からない事業を立ち上げたばかりで、不安がいっぱいだった。

既に公的病児保育施設を運営されている医療関係者の方々から、「儲け主義で保育に参入してきたベンチャー野郎」等、ディスられて病んでいた中、国会議員の偉い人から手放しで褒めてもらえて救われた気になった。

彼の所属していた民主党が政権交代を成し遂げ、松井先生が官房副長官という政府の要職を務めることになった時、寄付税制改革という難題に挑戦することになった。

当時は日本のNPO寄付税制は脆弱で、寄付もなかなか集まらず、民間のNPOや公益団体は苦戦を強いられていた。行政だけでは手が回らないことは明らかだったが、その代わりとなって事業をできる団体も少なかった。

そこで寄付税制改革を行い、民間で公益を担うプレイヤーを育てよう、ということを松井さんは考えた。しかし寄付に詳しい官僚が少なかったこともあって、民間から実務者を内閣府職員として何人か抜擢した。

僕はそのうちの1人となって、パートタイムの内閣府職員として働くことになった。

詳しくは別稿に譲るけれど、そこで松井副長官と働かせて頂き、驚いた。本当に、ピュアに社会を良くしたい、と思っていたのだ。今までの政治家のイメージは、虚栄心と自己顕示欲が強く、政治家という職業になることを目的とする人たちが多かったので、とても意外だった。

その割に「政治家らしい」ことが苦手で、根回しも選挙もからきしだった。本と議論が好きな青年をそのまま歳をとらせたような。

そして30やそこらで右も左も分からない若造の僕に、政治と政策の力学を、丁寧に教えてくれた。尊大なところは一つもなく、いつもユーモアを忘れずに。

元官僚の彼は、国や行政だけが公を支えることは既に限界だ、ということを分かっていた。企業やNPO、さまざまなプレイヤーと、共に公を支えなければ日本はやっていけない、ということを信じていた。

そこで彼が唱えたのが、「新しい公共」という概念だった。
悲しくも彼が支えた鳩山政権は短期に瓦解し、程なくして彼も議員を辞め、大学の先生となった。大学生たちを育てることに、生きがいを感じているようだった。

議員を辞めてからも、折々僕の事業や政策提言にアドバイスをくださった。彼の前に行くと、いつも出来の悪い生徒になった気分だった。しかしそんな不祥の教え子に対しても、いつも期待をかけてくれた。

「君みたいな人が、世の中を変えるんだ。」

そんな松井さんが、今、京都市長選に挑戦している。生まれ故郷の、愛する街の。

京都は世界的な都市にも関わらず、財政状況が悪化し、ポテンシャルを活かしきれていない。我々のパートナー団体が、京都でこども宅食をやってくれていて、何度も行かせて頂いているが、こどもの貧困についても深刻だ。観光業の占める割合が多く、それゆえ季節性が高いので非正規雇用率が高く、貧困が生まれやすい。

そんな難しい局面で、火中の栗を拾いに行く、松井先生。

先生、知ってますよ。本当は選挙得意じゃないんですよね。お金にも全然こだわらないし。政策の議論をしている方が楽しいんですよね。

でも、ここで立ち上がらないと、京都がダメになっちゃう、と思って立ち上がったんですよね。ピュアな先生らしいです。

東京にいる僕は大して何もできないけれど、でも心は隣で一緒にマイク握っています。

そして、あの時の言葉を返しますよ。

「あなたこそ、京都の光になれる」ってね。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?