書く書く詐欺…

大滝瓶太さんの、こちらの文章を読みました。

語彙力がなくて申し訳ないのですが、なんだかべらぼうに気持ちが膨らんだので感想を書いておきたいと思います。

初めて読んだ大滝さんの文章は、おそらく下記の記事です。

私は小説を書き抜いたことがほとんどありません。書く努力なんてほとんどしていません。なので、自分が小説を書いている、または書きたいと思っていることを口にしたことはほぼないのですが、どこかで自分は小説家だと信じ続けている節があります。なぜって芯から小説を必要としてる人間が、小説を読みながら(またはなにか心が戦慄する作品や出来事に触れたとき)脳内に小説的な塊が発生しないなんてことあります?小説を読みながらわたし個人の経験や感情が刺激されて、ふとなにか小説めいた思い至りが発生する。その現象(現象なのか?)こそ読書の醍醐味で、その現象にこそ「わたし」や「せかい」が在るというびっくり仰天の根源みたいなものが見え隠れしているのではないか・的に考えちゃう、ようするにそれを拠り所としている系の読書愛好家なのです。

とはいえ、やはり書いていないのであれば小説を書いているなんて言えない。小説を考えている、としか言えない。書きたいというくすぶりを何年も抱えたまま生活に追われて、当時、出産して育休中でした。書くどころか読むこともできない嵐の生活の中、藁にもすがる思いで新人賞のことを検索したりしていました。なんも書いてないのに。そこで大滝さんのブログに出会いました。「わー、なんてわかりやすい解説…紹介されてる未読の小説も読んでみたいぞ?」と思った感じで、その時はその記事を読んだだけでした。

そのしばらく後、仕事に復帰し昼休みや通勤中に読書できる余裕がでてきて、我がくすぶりライフを大きく揺るがす出来事がありました。『たべるのがおそいvol.2』に掲載された大前粟生さんの『回転草』を読んだのです。

うそ!なんだこれ?え、うわー…というような驚きとともに、さまざまな思い至りがヒュンヒュンと飛来してきました。海外の短編なども多少読んでいたので、飛び抜けて新しい!と驚いたわけではないのですが、なんかこう…読みながら、こんな風に小説をやってのけていいんだという純粋な嬉しさを経験しました。わたしも書きたい、と強く感じました。この作家さんは一体何者なんだろう…と検索したとき、真っ先にでてきたのが大滝さんの書評でした。

おや?見覚えあり。この大滝さんという方は…?まちゃひこって?と思い、その頃からツイートや書評や小説などを拝読しています。

大滝さんの文章や活動を通して、小説を書くこと、書き続けることに真剣に向き合ってこなかった自分の情けなさをはっきりと認識しました。わたしが小説を書くことから逃げていたのは、生活が大変というだけではないんです。書きたいと感じる局面では、いつもそれらしい言い訳を見出してました。卒論が終わって社会人になる前、読む≒書くという行為で到達したいものがなんだか大きすぎて、頭悪いし自分には書けない、出来ないという絶望的な気持ちでいました。なんも書いてないのに。その頃の言い訳としては、うろ覚えだけどバフチンの短い論文の中で「芸術と学問と生活は個人において統合する責任があるっていうか、そうじゃないと成立無理くない?」というものを読んで(おそらくかなり意味歪曲)、かしこまり、わたしはわたしの生活において芸術も学問も総合しまする。という謎のふわっとした希望を見出しました。それで小説を書いたり文学研究を続けたりすることから目を背けることにしました。そして社会人生活に突入。ところが読む≒書くを疎かにした生活とは、完全に無味でした。そもそも生活において芸術も学問も総合しようって、どうやって?それをまったく考えいませんでした。それに自分の中だけで総合して完結したとして、何になんの?やはりなにかを為さないといけない、周囲と関係しないといけない、ような焦燥感を改めて抱くようになっていきました。やはり書くことが必要で、唯一続けていたのはノートに作文をすることでした。20歳頃から、日記ではない、日々の思い至りをメモしていくノートをつけていました。その軽い作文行為はわたしの命綱でした。作文してないと死ぬ。それなのに小説は書けない。でもやっぱり書こうかな。次第に書き始めるという態度は取るようになりましたが、どうがんばっても「え?で?なんでこんなの書いてるんだっけ…」となってしまい、すべて書き出し小説で終わる。その繰り返しでした。そんな時『バートルビーと仲間たち』と『本は読めないものだから心配するな』を読んで良いように解釈していまい、なぜだか「書かなくても良き良き、読むことこそ書くことって訳で」という謎の感覚を見出してしまいました。

またしても小説を書くことから目を背けて生活することにしました。(誤解があるとアレなのですが、上記2冊は大変な良書だと思っています)

その後はのらりくらりと、時間ないし無理だし、という感じで小説に取り組むことをしてきませんでした。そして随分経ってから、話は戻りますが、大滝さんや大前さんを知ることとなりました。わたしには文芸批評のような話をできる友人がいません。リアルにもネットにもいません。それはもちろん、小説を書いたり書評ブログをしたりするようなことをしてこなかったので、文芸好きな方と知り合う機会を作ってこなかったというだけ、当然のことです。思えば小説を書きたいと感じて取り組もうとしたとき、つねに脳裏をかすめるのは「これわたしが書く必要ある?ほかの誰かがもっと本質的なもの書いてるのでは?」という不安でした。でもそれって仕上がった小説というモノ側からの視点で、書くという行為に焦点を置いていませんでした。書いたり制作したりする行為自体に宿るもの、その繰り返しにより到達するなにか。その視点の大切さは、大滝さんに教えてもらいました。

書き手も読み手も永遠に未熟でしかない小説というフィールドにおいて、過去や現在の偉大な作家以上に、つねに蛮勇であり続けたかれ・彼女らの作品から常に影響を受け続けてきたことをあらためて自覚すると、ぼくが書き続けているというそれだけでだれかが小説を書こうと思えるなら、それ以上の幸福はありません。

阿波しらさぎ文学賞の受賞スピーチの一節ですが、このような感情は、書き続けられてきたからこそ抱ける感情なのだろうと大変に胸打たれました。これからの人生、あってもなくても一緒みたいな自分の人生において、わたしは小説を書くという行為と向き合っていきたいと思います。まぁそれをどこかに応募したり発表したりするに至るかはわかりませんが…

本を読んで感想を呟いて作者や版元にイイねされる。そんなことだけしてる自分に虚しさを感じつつあったのですが、今回の大滝さんのnoteを読んで涙腺が崩壊しました(崩壊は嘘です、でも涙目にはなりました)。改めて、読むことや書くことを続けていこう、と決意しました。わたしにもいつか文芸友達ができるといいなーと思います。

もしも大滝さんご本人や関係者の方がこれを読まれてたら、長々と自分の話をしてしまい、気持ち悪くて申し訳ありません。でも本当に、めっちゃ感謝しています…!自分の文芸観の変化や人生への向き合い方への影響を考えると、大滝さんはマジの第一線で活躍されている小説家という認識です。なんだかどうしても感想を書きたくなって、書きました。

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ふじみつ

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