夕闇の国

 背後にそびえるのは、ウシュマル遺跡でもっとも有名な建築物「魔法使いのピラミッド」だ。夕闇に包まれたツェレンは、背景に負けない実体感をもって私の前に存在していた。赤いリボンが編み込まれた長い黒髪。過酷な自然の中で育った人独特の我慢強さをたたえた表情。ツェレンはこの世界に来たばかりの私に、初めての魔法を教えてくれた。静寂の中で、ツェレンは瞳を透明に光らせ、ゆっくりと語りはじめる。5年間生きた、妹の話だ。

 ”私たち家族は、季節ごとに決まった場所にゲルを建て、動物とともに暮らしていた。羊は30、山羊は20、牛は3、馬は6。家族は8人で、オヨーンは下から3番目の子供だった。ソムにはおよそ3000人が住んでいたが、その中でもオヨーンほど頰が赤く、愛らしい女の子はいなかった。細い三つ編みを揺らしトコトコ歩く姿に、ソムセンターのみんなが振り返った。オヨーン、オヨーン、みんなが呼んだ。オヨーンの笑顔はみんなを幸せにした。愛嬌があるだけでなく、賢く、なんでもすぐ覚えた。羊の世話も得意だった。兄より、2人の弟より、私が大好きで、どこに行くにもついてきた。汗ばんだ丸くて小さな手で私の手をぎゅっと握って。

 ある春の晴天の日、オヨーンはシャガイをねだった。シャガイというのは羊のくるぶしの骨を使った占いのことだ。オヨーンは私にシャガイを振らせるのが好きだった。いいよ、と言って占った。8角形フェルトの上に四つの骨のかけらをパラリと投じる。駱駝が2、山羊が2。運勢は、とてもとても悪い、と出た。嫌な感じがした。

 翌日から雷雨があり、どこにも行けずゲルで昼寝をしていると、オヨーンが遊んでくれと私を揺さぶった。邪魔だったので手をパタパタやって追いやった。オヨーンは頰をふくらませて文句を言った。この時、遊んでやっていればと今でも思う。私が拒否したせいで、天のザカスの指先はオヨーンを選んだのだ。

 翌日、オヨーンは馬から落ちて両足を骨折した。私たちが骨折するのはよくあることだが、神経まで傷ついたせいで2度と立ち上がることができなくなった。みんながオヨーンを呼ぶ声は聞こえなくなった。それでもオヨーンは、いじらしく、寝たきりになってなお、可憐な声で家族を和ませてくれた。しかし、オヨーンの世話が増え、兄がソムセンターでの仕事ができなくなると、我が家の暮らしは荒れた。オヨーンは次第に笑わなくなっていった。

 やがて雨の季節が来て、オヨーンが高熱を出した。羊由来のブルセラ病だ。弟二人も熱を出したが、二人の熱は雨の切れ間にあわせ下がった。小さなオヨーンは、心臓をやられて、三日三晩の熱に真っ赤な顔で耐えたが、耐えきれず心臓は止まった。2度と動くことはなかった。だから私はもうシャガイを振らない。”

 ツェレンは一息に話し、余韻の中でそっと私の手をとった。水の中からあがる人が水辺の植物の蔓に手を伸ばすみたいだった。ほんのりと温かく、柔らかい手だった。

「これがオヨーンの物語」

 ツェレンの声を合図に、繋いだ手の中に、温かい光に包まれた丸い球体が現れた。魔法だ。球体は音もなくふわりと大きく膨らんで、私たちの手からはみ出し、腕をつたい、胴をつたい、足や顔、頭のてっぺんから足の先までを包んでしまった。私とツェレンは二人手を握りあった状態で、光の中にいた。

「かなしい魔法ほどきれい」

 ツェレンが言った。私は、全身にふんわりと心地よい熱を感じていた。温かさの源は、現実世界で着用している感熱スーツのせいだ。しかし、それだけではないと私は知っている。光がまばゆいのは闇が深いせいだ。温かさに心が溶けるように感じるのは、凍りつくほど悲しいせいだ。光はしばらくすると端から崩壊していくように、散り散りになって消えた。

「あなたもおはなしをする?」

 永遠に続く夕闇の世界で、私はいまだひとことも言葉を発することができない。それでも、いつかおはなしの魔法を生み出すことができるだろうか。あなたとの思い出を、輝くなにかに変えて世界に解き放つことができるのだろうか。私はゆっくりと首を振る。魔法使いのピラミッドの前で。

#XR創作大賞

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