トリツカレ男

おとなのためのやさしい物語

元号が変わったことに対してあまり意識を向けていなかったものの「令和のはじめに読むのはとっておきの本にしよう」という気持ちだけは強く、本棚から自然とこの小説を手に取っていた。


さて、いしいしんじをご存知だろうか。

わたしが彼を知ったのは下北沢のヴィレッジヴァンガードだった。平積みされていた『ポーの話』に目が留まった。そのシンプルなタイトルとひらがな6文字の作者名、装丁に惹かれて文庫を手に取り裏のあらすじを読む。そしてわたしは衝撃を受けたのだ。

あらすじだけで、すでに物語は始まっていた!

あまたの橋が架かる町。眠るように流れる泥の川。太古から岸辺に住みつく「うなぎ女」たちを母として、ポーは生まれた。やがて稀代の盗人「メリーゴーランド」と知りあい、夜な夜な悪事を働くようになる。だがある夏、500年ぶりの土砂降りが町を襲い、敵意に荒んだ遠い下流へとポーを押し流す……。いしいしんじが到達した深く遥かな物語世界。驚愕と感動に胸をゆすぶられる最高傑作。

目がチカチカして胸が高鳴った。


わたしはいしいしんじ作品を夢中で読み漁り「好きな作家は?」と聞かれれば「いしいしんじ」と即答するようになった。

ひらがなとカタカナと擬音の使い方の魔術師
魅力的な名前の登場人物たち。
ファンタジーであり現実である愛と残酷さを持つ物語

他の作家さんでは感じられないそれらにすっかり骨抜きにされてしまい、わたしはいしいしんじの文章に魅了された。

だってそうでしょう?
盗人「メリーゴーランド」
って!


わたしの本棚の一部。「あ」行だけで一列埋まるほどなのだけれど、その中でもスペースを占めているのはいしいしんじだ。タイトルだけ眺めていてもうっとりする。


絶賛したものの好き嫌いがはっきり割れる作家だとも思っている。
好きだと感じたひとは、おそらくものすごーく好きになる。

そんないしいしんじ作品の中でも読みやすく、いしいしんじ始めにぴったりな作品が『トリツカレ男』だ。

160ページの短い物語。文字も大きく1ページ14行。

ジュゼッペのあだ名は「トリツカレ男」。何かに夢中になると、寝ても覚めてもそればかり。オペラ、三段跳び、サングラス集め、潮干狩り、刺繍、ハツカネズミetc. そんな彼が、寒い国からやってきた風船売りに恋をした。無口な少女の名は「ペチカ」。悲しみに凍りついた彼女の心を、ジュゼッペは、もてる技のすべてを使ってあたためようとするのだが……。まぶしくピュアなラブストーリー。


あらすじにラブストーリーと書いてあるけれど、ラブストーリーはちょっと…なんて思わないでもらいたい。ジュゼッペの愛はラブストーリーの枠を飛び越えている。

おとなのための童話、とでも言えばいいのだろうか。
やさしい気持ちを思い出したいおとなにお勧めしたい。


ジュゼッペは常に何かに「とりつかれ」ている。
街のひとたちはそんなジュゼッペに声をかけるのだ。

「おーいジュゼッペ、トリツカレ男!」

「今度はなんだい、いったい何にとりつかれてるんだい?」

「しょうがないよな、ばかげたトリツカレ男なんだから」

ハツカネズミにとりつかれていた時に産まれた「かわりだね」の喋るハツカネズミと共に暮らしている。

このハツカネズミの言葉は何度読み返してもじーんときてしまう。思わず一度文庫を閉じて深呼吸をしてしまうほどに。

なにかに本気でとりつかれてるってことはさ、みんなが考えてるほど、ばかげたことじゃあないと思うよ
「そうかい?」
「うん」
とハツカネズミ。
「そりゃもちろん、だいたいが時間のむだ、物笑いのたね、役立たずのごみで終わっちまうだろうけれど、でも、きみが本気をつづけるなら、いずれなにかちょっとしたことで、むくわれることはあるんだと思う
(p29)


努力したことに対して努力は実るだとか実らないだとか言うけれど、努力だけではなく何かを本気で好きなこと(とりつかれていること)に対してむくわれることはある、とハツカネズミは言うのだ。

「好きなものが多すぎない?」という言葉がある種のコンプレックスのようになっていたわたしからしてみれば、そのハツカネズミの言葉は救いのようだった。

大事なのは「本気」かどうか。
周りにくだらない、馬鹿げていると言われたってきっといつかちょっとしたことでむくわれることがあるのだろう。そう信じたいし、実際今までの経験からも間違っていないんじゃないかなと思う。
全て何かに繋がるような、そんな気がする。


たった4ページの最終章『特別サービス』まで、ずうっとぽわぽわとした暖かさに包まれる物語だ。

トリツカレ男のジュゼッペと風船売りの少女ペチカ、それからハツカネズミやギャングのツイスト親分たちと共に是非この本にとりつかれてみてはいかがでしょうか。


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