見出し画像

「俺の感動」の見つけかた|ブルーピリオド

人と比較して感動しやすい方だと思う。
中学1年生の現代文の授業の時には、配られた教科書の挿絵を見て涙を流し、先生に呆れられたほどだった。ポケモンGOがリリースされた直後、思春期の息子とゲームをきっかけに家族で会話をする時間が増えたなんてニュースを見て出勤前に「良かったねえ」と泣いたこともあった。ドラマや映画、小説や漫画等でも物語の世界に没入して感動することは多く、夏の夜のやわらかな涼しい風にじんわりとしてしまうことだってある。

ただ、どれも対象があっての感動だ。
何かを観て、聴いて、触れて、感動している。

漫画『ブルーピリオド』の1話に「感動」について印象的なフレーズが出てくる。友人たちとサッカーの試合中継を観ている主人公・八虎 やとらのモノローグだ。

なら一体 この感動は誰のものだ?
なんでこんなに大声出してんの?
他人の努力の結果で酒飲むなよ
お前のことじゃないだろ

何度か1話を読み返していて毎回ここのモノローグで手を止めていた。分かるな、って。家でソファーに座りながら、汗を流して勝利を掴もうとするスポーツ選手を応援して、勝って、喜んで、感動して、これってなんだ?って。ふとした瞬間に思ってしまうのだ。
そのスポーツでわたしも活躍したい!とかそういうことではない。応援していた人やチームが勝って、嬉しくて、感動することが悪いわけでもないし、むしろそれはごく自然なことだ。だって感動ってそういうものだし。

久しぶりに1話を再読して、また同じように手が止まった。
だけど今回はその次のページでも同じように手が止まった。

これは俺の感動じゃない

前までは「そうだね」って読み進めていたモノローグに思わず手が止まった。これは俺の感動じゃない。では、八虎の「俺の感動」ってなんなんだろう。

それはつまり自分自身に対しての感動だ。自分が努力して手に入れた結果に対しての感動だ。何か対象物から受け取った感動ではなく、自らが作り出した、己の中から湧き上がってくる感動なんだ。それは一人一人違う形で存在していて、八虎はそんな「俺の感動」を欲していたんだ。

個人で形が異なる「俺の感動」を求めた結果、正解が無い美術の道へと八虎は進んでいく。誰のものか分からない感動ではなく、自分自身の感動を追い求めて。美術の世界と同じく、正解は用意されていない。それでも八虎は美術を通して「俺の感動」を手に入れたいのだ。『ブルーピリオド』はそういう漫画だったんだな、と何度目かの再読でハッと気が付いた。

わたしは趣味で文章を書いている。
趣味と言いつつnote以前も各種ブログで書いていて、noteを始めてからだってすでに5年が経っている。八虎の影響か、それとも最近の周りの方々のご活躍を見てか、わたしもちょっと自分に感動してみたくなってきた。感動するということは、つまり本気で向き合うということでもある。怖いけど、そうしないと見えないものがたくさんあることも知っている。

「自分の感動」はそのひとだけのものだ。
わたしがどういう形で出会うのかはまだ分からない。だけど、八虎と同じく追い求めてみたい。出来れば自分の好きなものを好きだと伝える文章で。


4年前と同じ漫画・同じ巻の話を書いたけど、前回とは違う視点で書けるようになったの嬉しいなあ。

この記事が参加している募集

コンテンツ会議

マンガ感想文

読んで下さってありがとうございます◎ 戴いたサポートは多くの愛すべきコンテンツに投資します!