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正しくない敬語/ことばの本質について考える

こんばんは、考えるのが大好きなわたべまやです。今回は正しくない敬語について考えたことを綴っていきたいと思います。


以下のような言葉を耳にしたことはあるだろうか?
・おっしゃられる
・〜でよろしかったでしょうか?
・とんでもございません
これらは全て正しくない敬語である。
これらの言葉を使って間違いを指摘された経験がある人も少なくないのではないだろうか?

しかし私はこれらの敬語が正しくないと判断していいものか疑問を抱いている。
なぜなら私は上記のような言葉を使われて不快感を感じたことがないからだ。
私に教養が足りないと言ってしまえばそれまでなのかもしれないが、正しくない敬語だと知識で知った上でも特に不快感は感じない。
それは相手が敬意を伝えようとしていること、丁寧に私と会話をしようとしていることが伝わっているからではないだろうか。
そして、これは「ことば」としての本質に近いことなのではないかと考えている。

言葉は相手に対するプレゼントだ。
自分の伝えたい気持ちを「ことば」という形に変えて相手に渡す。
渡したプレゼントを相手がどう思うのかは自分にはどうすることもできない。
だから渡す前に何を渡すのか、どうやってラッピングしようか、リボンの色は何色にしようかと考えて渡すのである。
私は敬語や伝え方をラッピングにあたるものと考えている。
通常ラッピングそのものについて文句を言ったりはしないものではないだろうか?
包んでくれたその気持ちを受け取るのである。
ただ、ラッピングが汚れていたり、破れていたりしてはあまりおもしろくないと感じることもある。
その基準は人それぞれであるため、正しい敬語を知っておく必要がある。
必要な時に引き出せればそれでよいのである。

例えば、自分は一定の教養があることを示したい相手には日本語として正しい敬語を使うべきだろう。
就職面接などで明らかに間違った敬語を使うのは望ましくないのはそのためだと考えられる。
そのように考えると正しい敬語を追求するのは自分の教養をアピールするためなのかもしれない。
しかし、ことばには受け取る相手がいる。
必ずしも常に自分の教養を示したいことばかりではないのではないだろうか。
相手にもっと伝えたい気持ちがあるのではないだろうか。

ことばは自分の気持ちを伝えるツールにすぎないと私は考えている。
そしてことばは常に変化をしていく。
広辞苑は出版されるたびに掲載されている単語が増えているし、若者言葉が広がることも珍しくない。
日本語として正しいか正しくないかにとらわれすぎず、自分の伝えたい気持ちに合っているか合っていないかという視点を忘れないことがより重要だと私は考える。

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