_掌編小説集_15_ドサリとくるもの

【短編小説】ドサリ、ドサリとくるもの

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 師走を迎えるなり日本海側の地域は激しい雪に見舞われた。急激な気圧の変動、北風に運ばれてくる寒気に冬支度を済ませていない人々はとまどい、平年を上まわる降雪量を記録した新潟県では寒暖差による流行性感冒に悩まされる世帯が続出した。上越地方に住むトオルも朝から病臥していた。今年の春からアパートで一人暮らしをはじめた彼は不摂生ながらも悠々自適な生活を続けていたが、この日は激しい頭痛とめまいに根をあげて母の看病を受けることにした。
 発熱したばかりの頃は自力で立てなおそうとした。ところが三十九度を超えると想像以上の苦しみにさいなまれ、布団から起きあがるのも億劫になった。風邪薬はからだし、中古の小型冷蔵庫には消費期限切れの卵と変色したカット野菜しかない。栄養ドリンクも底を突いている。玄関まで這うのが精一杯で、隣町の病院はいわずもがな、コンビニエンスストアに買いだしにいくのも困難だった。雪の路上であればなおさら歩けたものではない。トオルはこのまま病気による衰弱と栄養失調で死ぬのではないかと危機感を抱き、情けなさで唇を噛みながら実家に電話をかけた。
 そういう大事なことはすぐ教えなさい、と母は息子を厳しい語調でいさめた。そのままじゃ本当に死ぬわよ、大家さんに連絡するとか、お友だちにきてもらうとかいくらでも対処のしようはあるじゃない。トオルは困惑しながらこたえる。おれに友だちなんていないことは知っているだろう、大家さんとも全然はなしたことはないし、どう切りだしたらいいんだ、そもそも電話番号を知らないんだ。
 トオルの母は呆れた口調でたしなめると、必要な飲食物と薬をたずねた。鍵だけあけておいて、そのまま寝てるんだよ、鍵はあけられるでしょう、それくらいの根性は見せるんだよ、いいね。母は執拗に叱咤激励すると電話を切った。受話器を置く音が郷愁を誘った。雪道を歩かせるのは気がとがめたが、低額の家賃で経営されているアパートを事故物件にするほうが迷惑だから妥当な判断をくだしたのだと自分を説き伏せた。仕方がない、とトオルは木製バットを杖がわりにして玄関と布団を往来しながらつぶやいた。日本人が愛してやまない慣用句。仕方がない。まるで魔法の言葉だ。
 仕方がない。
 致し方ない。
 仕様がない。
 詮方ない、やむを得ない、余儀ない。
 気が付けばトオルは天井に広がる波紋のような薄茶色の染みをぼんやり眺め、シカタガナイの類義語をあげはじめている。ところが熱に浮かされているため彼の語彙数は極端に減少しており、早々に弾薬が尽きてしまった。言葉は反芻される内に解体されて本来の意味を失い、単なる文字の羅列でしかなくなり、おかしな文字列に転生してトオルの眼前で踊りだした。それは実際に染みのうねりであらわされており、カタジケナイ、シカケハナイ、タカシガイナイ、ダガシガナイ、クワガタガナイタ、クタクタニナッタ、ガタリトドゥルーズ、エンダカドルヤス、ドウテイソツギョウ、とさまざまな文章をかたち作っていた。やがてトントコンコン、コトトロコカ、カテコノテ、コンタタサ、トンササ、ドサリとますます奇妙な文章に変わっていく。このドサリにいたったところでトオルの発想力は突然枯渇して、新しい擬音が生まれなくなった。ドサリという三文字が電気信号さながら高速で視界をめぐる。彼は円形のプラスチック容器に閉じ込められたハムスターになって、孤独の疾走をつづける。
 ドサリとはなんだろう、とトオルは不思議に思った。ドッサリを短縮したものか、それともドサマワリを省略したものか。土嚢や布団がアスファルトに落ちたときに発する音にも似ている。雪のかたまりが屋根から落下してもドサリという音をたてる。トオルは冷たい手をたたく。そうだ、実家暮らしの頃には庭に落ちる雪に何度もおどろかされた。ダイダラボッチが塀をまたいだような地響きをともなう足音を想像しておびえていた時期もあった、あれは何歳くらいだろう、最近まで恐れていた気もする。なにとはなくドサリと口ずさんでみる。ドサリ。
 まさにトオルが言葉にした直後、アパートの外から軽い地響きとともにドサリという音が聞こえてきた。彼の耳はかすかな音も聞きのがさなかった。積雪の影響で外は静まりかえっており、たまに車の走行音が聞こえるくらいだ。あからさまに物体の落下音が響けばいやでも耳に入ってくる。
 彼はドサリという三文字が路上にころがる光景を想像した。片仮名のドサリ、平仮名のどさり、あるいは土砂利なる当て字が天から降ってきたのかも知れない。彼は窓からながめれば正体をあばけるだろうかと考えたが、母との電話で体力を使い果たした上に布団から抜け出るのがたまらなく億劫なので、一度は頭をあげかけたもののすぐ枕におろした。体温があがっているのかめまいにとどまらず関節まで痛みはじめた。またドサリと鳴る。アパートの敷地内ではなく、近所の庭か駐輪場に重量のあるなにかが落ちたのだろうか。マシュマロのようなすがたをした流行性感冒の親玉が駐輪場に着地し、子分たちに風邪を広めるように命令しているのだと推測すると胸がざわついた。ほかにリュウコウセイカンボウの襲来に気付いた人はいるのだろうか、大家やほかの住人たちはもう逃亡したのだろうか。彼は朦朧とする頭で状況を整理しようとした。また、これから母がアパートをおとずれることを思いだした。あわてて手もとのポケットティッシュをとり、アパートの周囲はあぶないから引きかえせと母につたえようとしたが、汗ばんだ指さきがプラスティックの容器に指紋を付けるばかりで電源を入れることができなかった。原因は大気の乱れだ、と彼は確信した。寒暖差や気圧の変動にインターネット回線が耐えられなかったのだ。もしかするとルータが壊れたのかも知れない。いずれにしても外部との連絡手段を絶たれた以上自分は孤立してしまったのだとトオルは狼狽した。
 またドサリと鳴る。さきほどよりも近く、駐輪場の出入口を越えている。音だけでは重量まで推察するのはむずかしくて、五キログラムの米袋が落ちたようにも二〇〇キログラムの力士が着地したようにも聞こえるのでトオルの混乱は深まるばかりである。けれども音が鳴るごとにドサリが移動しているのは明白で、彼の胃腸は凝縮し、無意識的に唇の皮をむきはじめる。指さきを見るとべっとりと赤色の液体が付着していた。沸騰するほど熱くなった液体は蒸気を立ちのぼらせながら指の腹に広がり、舐めると焼けた鉄に舌を這わせたような刺激があった。この熱い血液があればリュウコウセイカンボウだろうと雪だるまだろうと撃退できると勇気付けられたトオルは血液をためる容器をさがしたが、手頃な容器が身のまわりになかった。そうして彼が困っているあいだもドサリは接近して、いつの間にかアパートの敷地内に達していた。ドサリという重苦しい音が頭に響くたび強烈な寒気が全身をめぐる。トオルはドサリが自分の部屋を目指していると確信すると、動揺のあまり口内にためていた血液を飲み込んでしまった。血液は熱湯のように熱く食道が焼けただれて胃液が逆流してくる。ふと中学生時代に参考書で見た『平家物語絵巻』の平清盛の最期を連想した。熱病におかされた清盛は比叡山の冷水をかけると全身から黒煙をあげ、まがまがしい蒸気を部屋中に立ちこめさせる。絵巻にはその異様な情景が描写されていて、見ていると鼻の奥に煙を吸い込んだような臭気を感じたものだが、いまの自分も真っ黒な煙を立ちのぼらせていそうな心地だった。それともドサリに殺されるより高熱で灰になるほうがさきになるのだろうか。そう思うとトオルはもう煮るなり焼くなり好きにしろとやけを起こし、三枚がさねのかけ布団を跳ねのけて大の字になった。しかし、たちまち外気のつめたさに音をあげて布団をかぶりなおした。そしていくらドサリが自分の部屋を目指しているとしても、簡単には侵入できないはずだから下手に動きまわるより大人しくとじこもっているほうが安全だと自分にいい聞かせた。
 納得しかけたところでトオルは重大な事実を思いだした。ついさきほど母を迎え入れるため玄関の鍵をあけたのであった。彼はバットを立てて、うめき声を漏らしながら衰弱した体を起こした。バットに体重をあずけているので、先端が床をすべるものなら転倒は避けられない。彼ははやる心をおさえて慎重に玄関に向かった。
 ちょうど彼が玄関前で立ちどまった瞬間、すさまじい轟音とともにアパート全体がぐらりと振動した。最寄りのガソリンスタンドが爆発したのかと思う衝撃におどろき、反射的にベランダをふりかえるとサッシがはげしく揺れていた。ガラスの結露で外の景色は見えないが、ぼんやりとした、人の背丈をはるかに超える巨大なかたまりが立てつづけにサッシに激突しているのはわかった。衝撃が走るたびガラスが悲鳴をあげて部屋が揺れる。サッシに繰りかえしぶつかっているものはドサリに違いなかった。トオルは息をあえがせながら玄関扉にもたれていまにも割れそうなガラスを見つめていたが、われにかえるともはや鍵をかけている場合ではなく、一刻もはやく逃げださなければならない状況だと察して外廊下に飛び出た。寒風が押しかえすように吹き付けて、トオルの体温は瞬時にして奪い去された。四肢が思い通りに動かず五歩も進まない内に足を滑らせ、濡れた床に膝を付いた。荒い吐息が白色の蒸気となってどんよりとした鼠色の空に溶けていく。
 唸り声のような衝突音とともにガラスの割れる音が鳴ると、トオルの焦燥感は頂点に達した。震える手で積もっている雪を掴み、鉛の足で氷のように冷たいコンクリートを蹴り、外廊下の床を芋虫のように這いずりだした。二軒分さきにある外階段にたどり着いたときには疲労と恐怖で顔面蒼白になっていた。あけ放たれた玄関扉の向こうで部屋の底が抜けたような音が響き渡ると、彼は最後の力をふり絞ってうつぶせのまま外階段をおりようとした。ところが凍り付いた階段は救済を求める彼の手をこばみ、無情にも払いのけた。行き場を失った両手が宙をかきまわした。何を思い浮かべればよいのかもわからないまま、彼は階段に残る雪とともにドサリと暗転していった。
 アパートの外階段から転落したトオルを発見したのは大家だった。鈍い金属音に驚いて様子を見にいくと、寝巻きすがたのトオルが階段の下であおむけに倒れていたのである。即座に状況を把握した大家は救急車を要請して、車が到着するまで毛布で彼の体を温めていた。頭を動かさないよう慎重に足を階段からおろし、怪我の具合を確認しているところへトオルの母が駆け付けた。寝巻きで仰臥する彼に母は混乱しながら呼びかけた。その声は悲鳴のようであり、必然的に近隣の住人を集めることになった。中には野次馬も混ざってスマートフォンを向ける人物もいたが、心配そうにトオルを見守る老夫婦の夫が「見世物じゃない!」と一喝して追いかえした。そのあいだも母は声を枯らしながら呼びかけていた。ふいにトオルがかすかな反応を示したので、一言も漏らすまいと唇に耳を密着させる。けれどもかろうじて聞きとれた言葉の意味は彼女には理解できなかった。彼はいまにも消え入りそうな声で「ドサリ、ドサリ」とつぶやいていたのである。

 市内の病院に搬送されたトオルは、翌日意識をとりもどした。目覚めるなり四肢の痛みに顔をゆがませる。いくら軽傷とはいえ頭部の外傷と数箇所の打撲は病身にこたえた。包帯が巻かれているこめかみを撫でようとすると、その手首にも刃物をねじ込まれたような激痛が走る。不自然な痛みに戸惑いながら周囲を見渡すと奇妙な景色が広がっていた。そこは白色のカーテンで両脇をしきられた無機質な空間であり、自分は煎餅布団とは似て非なるかたさの小綺麗なベッドで寝ていた。それは入院中の祖母を見舞ったときに見た光景とおなじで、彼は自分のいる場所が病院の大部屋であることに思い至った。看護師が怪訝そうにあたりをながめるトオルに気付き、彼の意識が回復していることを確認すると担当医師を呼びに出ていった。彼は「おれ、どうして病院にいるんですか」とたずねていたが、声が小さすぎて看護師の耳には届かなかった。
 見舞いにおとずれた母と大家から、病院に搬送されるまでの経緯を聞かされたトオルは唖然として「信じられない」とつぶやいた。
「階段から転げ落ちたなんて意味がわからない。四〇度近い熱で息をするのも苦しかったし、正直昨日のことはよく覚えていないんだ。母さんに電話した頃から意識が朦朧としてきて、気が付いたら病院にいた。何だか変な夢を見たような気はするけれども」
 彼の言葉を聞いて母と大家は顔を見合わせた。大家は「お母さんを出迎えようとしたんじゃないですかね」と白いものの混ざった顎髭を撫でながら、一人言のようにいった。母は「でも防寒着も着ないまま出かけるなんて」と釈然としないようすでこたえる。
 それはまあそうですよね、と大家は視線を泳がせながら同意する。どこか歯切れがわるかった。トオルもトオルの母も合点がいかないといった彼のようすに勘付き、二人して目で問いかけると、大家は如何にもいいにくそうに口をひらいた。トオルさん、あなたは本当に何も覚えていないんですか。いや、疑っているわけじゃないんですけれど、覚えていないとなるとますます意味がわからなくなるものですから。というのも、あなたが救急車で運ばれたあとに部屋の方にいってみたんですがね、そうしたらドアがあけっぱなしで風がびゅんびゅん吹きまくっているんですよ。おかしいなと思ってのぞいたらびっくりしました。部屋の中が滅茶苦茶に荒らされていたんです。サッシのガラスは割れているし、布団はびりびりに裂かれているし、冷蔵庫とかテーブルとか引っ繰りかえっていて、まるで乱闘騒ぎでもあったか怪獣が暴れたかしたようなありさまだったんですよ。しかも室内で猛吹雪でもあったみたいに雪まみれ。玄関にバットが落ちていたからてっきりトオルさんが、その、何らかの理由で大立ちまわりを演じたんじゃないかと思いました。でもバットで殴りまわったという感じでもないので、わけがわからずしばらく呆然としてしまいましたよ。ええ、それはもう凄い惨状です。でも高熱が出ているのに大暴れできるとも考えられませんし、何より薄着のまま部屋を出た理由もよくわかりません。そしてご本人も覚えていないと仰る。
 突飛な話を聞かされて親子は顔を見合わせた。部屋が荒らされているというのは不気味であり、大家の言葉どおりの状況なら警察沙汰になるのではないか。二人が想像したのは強盗の存在である。ガラスを突き破って侵入する強盗を見て無我夢中で逃げだしたが、足が覚束なくて階段から転落したと考えれば辻褄は合う。けれども高熱が出ていたとはいえ、白昼堂々と家宅侵入されたことを一切覚えていないのも解せない。トオルは混乱するばかりで、引きはじめた熱がふたたびあがる感覚に襲われた。ぼんやりと「帰りたい」という願望を抱いた。本当に強盗に襲撃されたのか知らないが、このさい真相はどうでもよかった。いまはアパートの部屋を引き払い、実家の柴犬にサツマイモでも食わせながら静養したかった。そうした心情を汲みとった母は彼の胸に手を置いて、しばらくウチにかえってゆっくり休みなさい、とささやきかけた。
 そうだね、とトオルはかすれた声でこたえると天井を見あげた。相変わらず全身の筋肉と関節は油切れした蝶番のようにうめいており、体を反転させるにも一苦労した。病室の天井には石膏ボード特有の斑点が付いている。何とはなしに斑点を数えていると、黒色の小さな物体がうごめているのに気付いた。当初は飛蚊症だろうかと思ったが、まばたきを繰りかえしても消える気配はなく、水面を遊泳するオタマジャクシさながら活発に移動していた。よく見ればそれは天井の斑点が上下左右に動き、文字に似た模様を作っているのである。大半は判読不能だ。平仮名にも片仮名にも見える。あれはドだろうか、これはサだろうか、それはリだろうか。急激に眠気が押し寄せてきて、トオルは闇夜の沼に沈むような不快感を覚えた。


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