廃墟は見おろす3

【掌編小説】廃墟は見おろす




 千葉県某市のある地域は、近年過疎化の影響で空家が増えている。その中SNSで交流している廃墟愛好家のあいだでは元Pホテルの社員寮が話題になっていた。
 同好の士は仲間であると同時にライバルでもある。彼らは情報提供する知人友人には常に友好的な姿勢を見せているが、言葉の端々には牽制の意識がありありと表れていた。けれども愛好家の会では古株になるほど抜け駆けによる信頼の崩壊を懸念し、先行したい気持ちをおさえてみずから行動範囲をせばめるという奇妙な傾向があって、おかげで新米のわたしは牽制の輪からはじかれる格好になり、なりゆきでPホテルに出向くことを容認された。とはいえ廃墟探索の経験は浅く、日程が決まるころには不安に押し潰されそうになっていた。廃墟は危険な世界である。天井が崩れ落ちてくるかも知れないし、錆びた釘が足を貫通するかも知れない。転倒した拍子にスマートフォンが壊れて連絡がとれなくなることも、探索中に建物が崩壊することも考えられる。何より廃墟とはいえ私有地である以上、無許可で探索したら不法侵入者になってしまう。準備の段階でわたし一人の手には負えなかった。そこで廃墟探訪の先達者にして温和な性格の柿本さんに協力を頼むと、彼は快く引き受けてくれた。わたしは調子付いて昼食をおごることを約束した。柿本さんが大食漢なのを思いだしたときは軽率さを後悔したが、興味深い廃墟にのぞめるなら大した出費ではないと自分をさとした。
 目的地であるPホテルの従業員寮に到着すると、人一人いない景色ばかりで柿本さんのすがたは見えなかった。SNS経由で連絡をとると人身事故による電車の遅延に巻き込まれているとわかった。まさか探索開始前にして事故に見舞われるとは思わなかったので、わたしは二階建て従業員寮前の荒れ地で呆然と立ち尽くしていた。
 Pホテルには繁盛した時期もあるが、立地条件のわるさに加え、中途半端な和洋折衷を目指したのが凶と出て、たちまち客足は遠のき十二年前に短い生涯を終えた。ホテル経営の失敗は大なり小なり劣悪な立地条件やテーマに原因をもとめられるもので、景観ばかりに気をとられて利便性もニーズも度外視したPホテルは典型的な失敗例を実演した宿泊施設といえる。やがて芋づる式に関連施設も閉鎖に追い込まれて、またたく間に負の遺産として放置されたのである。わたしの眼前にある従業員寮も巻き添えを食った物件だ。長年にわたり修繕も塗装もされず、風雨にさらされた建物は死相に喩えられそうな風貌をあらわしている。壁面には流れ落ちた大粒の涙の痕跡がはっきり認められるし、外階段や金属製の扉はこびりついている塗装と赤茶色の錆で毒々しく変色している。合成皮革の手袋をはめていなければ触る気にならない。実際清潔という概念が失われた廃墟では破傷風菌をはじめとする危険な菌が蔓延している可能性があるので、かならず合成皮革の手袋をはめろと柿本さんに釘を刺されていた。アスベストを吸い込まないようマスクも必須だ。行き先が廃病院であれば残留物にも気を付けなければならない。まさかホテルの社員寮にレントゲン機器は設置されていないだろうが、警戒はおこたらないほうがよい。
 わたしは柿本さんの到着を待たず、危険を承知の上で単身乗り込む決意をかためた。建物周辺は草刈りがおこなわれていないため雑草がはびこり、梅雨どきの湿気をふくむ濃厚な草いきれにむせかえる。あまつさえ扉を半びらきにするなり寮内に満ちているカビや埃、鳥の糞といったものの悪臭が漏れ出てくると気勢をそがれて身を引きそうになる。まるで従業員寮に追いかえされているようだ。わたしは懐中電灯のスイッチを入れて周囲を照らしてみる。繁茂した植物に窓をおおわれているせいで日光が差し込まず、晴天の昼間なのに懐中電灯の明かりに頼らないと足元を確認できなかった。木製の床はところどころ陥没し、矢尻のようにとがった木片が天井を向いている。わたしは安全な踏み場を探り、同時にハンモックのように張りめぐらされているクモの巣に引っかからないよう頭部にも注意を払う。SNSの仲間にはハイイロゴケグモに噛まれた人もいるし、クモの巣にかかっていたオオスズメバチに刺された人もいる。二人とも持ち前の悪運で命は助かったものの、しばらく高熱や激痛に苦しめられるはめになった。ほかにもネズミの大群におそわれたり、アオダイショウを古い配線と勘違いして噛まれた逸話もある。あれが毒ヘビならそのまま白骨になっていた、と柿本さんは歯型の残る二の腕をさすりながら呑気に笑い飛ばしていた。反省の色を微塵も感じさせない態度にあきれ、わたしは二言三言嫌味を口にした。けれどもその言葉はさらなる大笑をまねいただけであった。
 わたしは踏み抜いた床から足を引き抜き、負傷していないことを確認するとカビだらけの廊下を見まわした。壁にはコケが生えているだけでなく、得体の知れない染みが人影のようにひろがっていて、目の錯覚なのかこちらの歩行に合わせて伸縮している。陰鬱な気分にさせられる光景だった。廃墟探索中はさまざまな危機に瀕するが、浮浪者やチンピラとの遭遇は毒虫とは比較にならないほど危険なので人間を連想するものには敏感なのだ。暴力団の所有物件で組員と鉢合わせになったらギプスの世話になり兼ねない。柿本さんの知人はスマートフォンと眼鏡を破壊された上、住所氏名を記録されそうなった。この悲劇を知らされて肝を冷やして以来徹底的に探索中は人間からはなれることを心がけるようになった。
 わたしは壁の染みを意識しすぎて注意散漫にならないよう自分に言い聞かせると、剥がれ落ちた天井の破片が散らばっている階段をのぼる。腐りかけているせいで一歩踏むたびギィィィ——と神経に障る音が鼓膜を刺す。湿っぽい一階に対して二階は派手に荒れていた。屋根は崩れ、廊下の床は巨大なメンマでもばらまいたような凸凹とした状態であり、そこかしこに穴ができていた。屋根の隙間から差し込む陽光が穴の底を照らして、ロールプレイングゲームの隠し道を指ししめすような情景を作りだしていた。けれども実際は一階への近道にすぎないし、落下したらまず無事では済まない。雨漏りしている場所は床が腐りかけているか、もしくは腐り切って崩落している。慎重にきしみ具合を確認しながら廊下をそろりそろりと進む。入れそうな部屋には身を滑り込ませる。どこも内装はおなじで、クモと爬虫類の巣窟と化しているところも共通していた。足場のわるすぎる部屋は安全を考慮して廊下側から眺めるだけにとどめた。
 ある部屋を扉の隙間からのぞき込むと奇怪な光景が広がっていた。壁に無数の釘が打ち付けられていて、太い縄がかけてあるのだ。隙間風に吹かれてゆらりゆらりと揺れている縄に使われた痕跡は見あたらないが、釘だらけの壁の前で揺れる縄はおぞましい経緯を物語っているようで、眺めているだけで息苦しくなってくる。わたしは早々に部屋をあとにすると、見たばかりの景色を忘れようと何度も目をしばたたいた。廊下を流れていく風が冷ややかなものに変わってきた気がする。床の損傷が激しくて、隣室に移動するとき反射的に足をあげるほど強くきしんだ。数人で体重をあずけたような耳障りなうなり声。不意に何ものかに探索をこばまれている気持ちになり、わたしの足は足枷でもはめられたように自由を奪われてしまった。
 わたしは怖気付いていた。数分前に目のあたりにした、あの釘と縄を忘れることができなかった。すでにわたしは臆病風に吹かれて、この従業員寮を探索する勇気をなくしていたのである。わたしはひんやりした風に吹かれるまま踵をかえすと、埃まみれの階段にもどりだした。どうしてこんなに寒いのだろう。探索をはじめる前は汗ばむくらいだったのに。
 階段の手前にきたとき、不意に自分の名前を呼ぶ声が聞こえてきて飛び跳ねるほど驚いた。ガラスの割れた窓から顔をのぞかせると、寮を見あげて手を振っている柿本さんと目が合った。そんなびっくりするなよ、と彼は相変わらず呑気な声色で笑った。わたしは彼の態度に腹を立てながらも安堵して窓下に怒鳴った。
「いやいや、ひどいありさまだな」
 柿本さんは埃まみれのわたしを眺めまわした。
「物置きでも引っかきまわしたのか。背中なんて泥水みたいなものでべちょべちょだし。しかもくさいぞ、これ」
 わたしは怪訝におもった。社員寮に雨漏りするところは複数ある。しかし各部屋を移動しているときは水一滴見かけなかったし、湿り気を帯びた壁に体を密着させることもしなかった。背中が水浸しになることはあり得ない。そう訴えると柿本さんは苦笑いする。
「それならあいつの仕業じゃないか。驚かそうとして、こっそり背中に泥水でも塗ったとか。でも、それなら気付くよな」
 あいつ。柿本さんの一言を耳にして薄ら寒さを覚える。わたしは不可解そうに腕を組む柿本さんに「あいつ」とは何のことかとたずねた。柿本さんは落ち着かないようすで、わたしと寮を交互に見る。
「冗談はよせ。お前は人をからかう奴じゃないだろう。さっきまで一緒にいた奴だよ。待ち合わせの場所にきてもお前はもう探索をはじめているし、しかも痩せっぽちのおかしな風貌の奴と寮内をうろついているから途方に暮れていたんだ。ここだよ、この寮の中だよ。二人で縦にならんで二階を歩きまわっていたじゃないか。おれの方こそ知りたいよ。あいつは誰なんだ」
 背中に浴びせられた冷水がひろがっていく感覚に吐き気を催し、わたしは思わずジャケットを脱ぎ捨てた。柿本さんのいうとおり背面は泥を擦り付けたように赤黒く汚れて、なまごみを思わせる不穏な臭気を立ちのぼらせていた。匂いを嗅ぎ付けたハエが一匹二匹と草むらに捨てられたジャケットにむらがっていく。二人とも絶句したまま背後を振りかえる。社員寮は静かにわたしたちを見おろしていた。


※2012年脱稿・2018年改稿


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