雪の向こうに見るものは__雪と記憶_

【短編小説】雪の向こうに見るものは ~雪と記憶~

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 マンホールの蓋を踏み、靴底が音をたててすべった。私はとっさにバランスをとって間一髪で転倒を回避した。踏みこむ瞬間までマンホールに気がつかなかったのは、視力のわるさだけではなく、道を白一色に染める雪にかくれて見えなかったことにも原因がある。春には近場の桜並木から散りおちた花びらでいろどられ、夏には灼熱の太陽に熱せられて陽炎がたちのぼり、秋には木枯らしにのって枯葉が乱舞する。季節ごとに様相を変える近隣の路地だが、今冬の極端な変貌には舌を巻かずにいられなかった。線路や道路にこんもりと積もった雪は交通機関を麻痺させるには充分な存在感をしめしていた。あまりに空気が冷たくて、呼吸するたび肺のなかが冷えるのを感じる。空を見あげる。滝のように降り続いた雪はやみ、厚い雲のところどころに晴れ間がのぞいていた。
 人の姿は見あたらなかった。暖房の利いた部屋ですごしている人としては、アスファルトが現れるまで外気に触れたくないのであろう。私も友人のリョウに呼びだされていなければ、暖かい部屋で読書に勤しんでいるところだ。背後をふりかえると例のマンホールはまだ目と鼻のさきにある。私は息切れを起こしたまま侘びしさを覚え、乾いた唇を舐めてから盛りあがっている雪を踏み締めていった。
 やがて緩やかな坂道に出る丁字路にさしかかった。正面は華やかさに欠ける地元を象徴するかのような鬱蒼とした雑木林だ。子供の頃と比べると宅地造成の影響によって縮小したが、稀少な景観として住民に珍重されている。それでも近い将来にはあらかた伐採される運命にあるのだろうと思うと、冬の冷気ともことなる冷ややかな人間の感情がうかがえるようで虚しい気分になる。私は心の寒さにたえながら雑木林に沿って坂道をおりた。
 向かい風に吹かれて路上の粉雪が舞いあがる。そのなかを不意に小さな白い物体が横切った。躍動感のある動きは小動物のものと思われる。凝視すると、辛うじて兎をほうふつさせる輪郭をとらえることができた。その兎らしき動物は積雪をものともしないで右手の雑木林に消えていった。近所の小学校で飼われている兎が脱走したのだろうか。私は視界にまぎれこんだ謎の白い動物が駆け抜けた場所で足をとめて、寒気にたえるように身を寄せ合う樹木の世界に見入った。おもにクヌギやコナラなどの落葉樹が群をなしているが、枯葉をつけている木も多く見られる。それでも地面には白銀の絨毯がしかれていた。
「どうした。何か面白いものでも転がっていたか」
 きき慣れた声が耳に入る。ふりかえるとリョウが一軒家の門前で手をふっていた。私は軽く手をあげて挨拶の言葉を口にした。途端に乾燥した気管支が刺激されて、腹筋が痙攣するほどむせた。知らぬ内に口をあけたまま呼吸をしていた。
「この寒波はもうしばらく続くらしいな。雪と縁のない奴にはこたえる」
 リョウの視線は足元に注がれる。彼の足には一頭の柴犬が身を寄せていた。街路を埋める雪を目のあたりにして怖じ気づき、主人の足に絡まるようにくっついたまま硬直しているその柴犬は二歳のオスで、名をツムジという。由来はつむじを思わせる頭頂部の毛なみである。私はこんな雪の日でもツムジも連れていくつもりかとたずねた。
「ああ……。そのつもりだったんだが、このありさまを見ると悩む。あんまり散歩を催促するもんだから、それじゃあお前に雪を見せてやろうと連れだしたら、雪を見たとたん耳を後ろに向けてかたまっちまった。犬が雪の日によろこぶなんて幻想だ」
 耳をしぼっているツムジが困惑のまなざしを向けてくる。首筋や背中を撫でてやると脱力して腕に寄りかかった。思いつきで行動する悪癖を持つリョウにふりまわされる者は数しれないが、愛犬も例外ではないとしると胸中にささやかな連帯感が芽生えた。
「それにしてもえらく降ったもんだな」とリョウがぼやく。「十数年ぶりじゃないか」
「その昔、全身が埋まるほど積もった覚えがあるけれど、当時はまだ子供だったからよけい積もったように感じたんだろう。実際は今日とおなじくらいじゃないかな。それでも歩きにくいことに変わりはないが。しかし普段はあくびをしながら行き来している道だというのに、雪が積もったら見しらぬ街路にでも迷いこんだ気持ちになる。そのせいかさっき不思議なものを見てしまった」
 ツムジを撫でながら私は坂道を駆け抜けて雑木林に消えた兎の話をした。こうした話は得てして人に伝えると現実味がうすれ、嘘くさい話にきこえてしまう。しかし、私は今日という日に遭遇したことを単なる偶然や見間違いで済ませる気にはならなかった。彼はあわれむような、苦笑するような、どういう表情をうかべるべきかわかりかねているような複雑な面持ちで、頬を舐めるツムジを愛おしげに抱き締める。そして消え入りそうな声で「そうか」とつぶやいた。それから何度か頷くと、おもむろに雪の街路に踏みだした。主人の気概に勇気づけられたのか、露骨におびえていたツムジも手綱を引かれるまでもなく自分から雪道を歩きだした。私は彼らに先導させる格好でついていく。私達が向かうさきは他でもないくだんの雑木林である。
 林間は足場が安定しないため、運動神経のわるい私は幾度にもわたって勾配で体勢を崩した。リョウとツムジが軽やかに難所をこえていくのに対し、私は前を向けばコナラの根でつまづき、したを向けばイヌシデに正面から激突するなど滑稽な姿をさらした。最終的に恥も外聞もかなぐり捨てて、四つん這いになって進んだ。そうした努力が功を奏したようで、年輪をかさねた立派なクヌギのたちならぶ場所に到着するまで置いてきぼりを食わずに済んだ。私達はみごとに雪まみれであった。身体を払いながら周囲を見渡すと、ひときわ立派なクヌギの根もとに転がっている雪の玉を発見した。それは手のひらにのりそうなほど小さな雪兎だった。
「おい。見ろよ。どうやら俺達がくるのを待っていたみたいだ」
 雪兎は綺麗な耳と柔らかな肢体の他、特徴らしい特徴は見あたらない。眼球のない眼孔がさびしげに私達を見つめている。ツムジが興味を抱いたのか鼻を鳴らして匂いを嗅いだ。そこに動物の残り香があるかのように。確かに動物はいたのだ。雪兎の正面にしゃがんだリョウが穏和な声で「マル」と呼ぶ。マルとはリョウが子供の頃に飼っていた兎の名である。綺麗な耳と人なつこい性格が愛らしい日本白色種だった。マルは外の空気を好んでいたので、リョウは季節を問わず散歩をさせた。好奇心旺盛で街路に散らばる花びらや枯れ葉を目にしては、抱いている彼の手をかじって地面におろすよううながした。そうしたマルの好奇の瞳は大いに積もった雪にも向けられた。
 寒風が吹き荒れる二月なかばのこと。雪を見たマルの反応が知りたいばかりに、リョウは両親に内緒で連れだした。しかし、彼は浮かれるあまり足もとへの注意をおこたった。ちょうどさきほどの私のように雪にかくれていたマンホールの蓋で足をすべらせ、仰向けに転んでしまった。後頭部をぶつけて意識がもうろうとするなか、水底をながめているかのようにゆがむ視界に走り去っていくマルの姿を認めた。リョウは呼びもどそうとした。けれども意志に反して声が出なくて、軽快に雪のうえを駆けながら雑木林の奥ふかくに消えるマルを見おくることしかできなかった。雪道で意識をなくしているリョウを発見したのは近所の住人だった。幸い頭部の怪我は軽傷で済み、内出血などの兆候はなかった。治療にあたった医師の見たてでは、雪の塊が緩衝材になって頭部への衝撃が緩和されたのではないかという。しかしリョウとしては自分の怪我よりも行方をくらましたマルの安否が気がかりで、早く連れもどさなければとりかえしのつかないことになると不安に駆られるあまり安静を命じられてもいうことをきかず、頭や足に包帯を巻きつけたまま家を飛びだそうとさえした。見かねた家族や知人達はとりみだす彼をどうにかおちつかせ、手わけしてマルの捜索をはじめた。一日がすぎても二日がすぎてもマルは見つからなかった。布団に横たわっているあいだリョウは口おしさで歯をきしませていた。危険もかえりみず外に連れだしたことを悔やみ、愚かしくも足をすべらせた自分を恨んだ。マルがかえってこない内に黄昏時を迎えると鉛のように重苦しい絶望感に押しつぶされそうになった。
 雑木林の奥にたちならぶクヌギの根もとでマルは眠りについていた。四肢が埋もれて耳だけが出ているところを隣家の夫が見つけたのだ。捜索開始から四日目を迎えていた。純白の毛なみは枝からおちた雪と見わけがつかないほど、美しい輝きをはなちながら風になびいていた。
 マルは自宅の庭に埋葬されたが、生命の火が燃えつきる瞬間を迎えた場所にも特別な思い入れがある。なきがらとなったマルと再会した日がめぐってくるたび、リョウは彼なりの弔いを果たすためツムジを連れて雑木林に足をはこんでいた。三年前にそのいきさつをきいて以来、私もつき合うようになった。だが、雪が積もっているなかをおとずれるのは今回が初めてのことである。私は自分でもききとれないほど小さな声で雪兎に挨拶した。それはリョウの耳にも届いたようで、彼は相槌を打つように何度か頷いた。そしてリョウはふところから輪切りにしたニンジンをとりだすと雪兎の足もとにならべていく。三つ葉のようなかたちにならべられたニンジンは赤みがこくて雪に映えた。ニンジンには目がなかったマルを知るリョウだからこそ手向けられる香華なのだろう。ふいに今までおとなしくリョウを見守っていたツムジが天を仰ぎ、一つ遠吠えをした。その遠吠えは冷たい空気をふるわせて林のすみずみに轟き渡り、木漏れ日のなかに神妙なきらめきを残した。


※2013年脱稿・2016年改稿。

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