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【掌編小説】蝶化身




 コクチョウが行方不明になった。
 アパートの大家にたずねても彼の安否はわからなかった。それどころか無愛想で付き合いのわるいコクチョウを快く思っていない大家は、いつものように部屋で自慢のチョウとたわむれているのだろうと揶揄した。子供の頃からチョウを偏愛しているコクチョウは、その中でもクロアゲハに尋常ならざる愛情を抱いていて、飼育している数十匹のクロアゲハすべてに名前を付けて室内に放していた。アパートの外からは彼の部屋を飛びまわる無数のクロアゲハが見えた。たまらないのは外に出るたびにクロアゲハの大群を見せられる住人だった。住人たちは大家を通して、せめて飼育箱に入れて欲しいと何度も苦情をだしていた。けれどもコクチョウが耳を傾けようとしないせいで泣き寝入りしているらしい。
 その話を聞いてわたしは少なからず責任を感じた。わたしとコクチョウは数年来の友人ではあるが、彼の趣味に愛想が尽きて連絡を絶っていた。自分が無視しなければ彼の暴走をとめられたのではないかと思うと、このまま他人事として済ませるのは心苦しいので訪問することに決めたのである。
 尻込みする大家を説得してコクチョウの部屋の鍵をあけさせる。玄関扉の隙間から漏れてくる糞尿のような臭気に不安をあおられたのか、大家は歯痒くなるほど解錠に手間どっていた。わたしたちは恐る恐る玄関扉の隙間から室内を覗き見た。
 そこには信じられない光景が広がっていた。部屋中を漆黒の幕が覆っていたのである。大家が怪訝な面持ちで首を差し入れると、幕は風を巻き起こしながら凝縮していき、一本の柱となってこちらに突き進んできた。わたしと大家は揃って悲鳴をあげると頭をおさえてしゃがみ込んだ。
 混乱したまま頭上をすぎるかたまりを見あげると、それは幕でも柱でもないことがわかった。クロアゲハの大群だった。掌ほどもあるクロアゲハが密集したまま廊下に飛びだしてきたのである。その数は数十匹ではすまなかった。その漆黒の柱ははじけて黒い花吹雪となり、アパートをとりかこむように拡散していく。それでも小さな部屋を占領する大群のほんの一部にすぎなかった。部屋の中に向かってコクチョウを呼んでも返事はない。室内を確かめると家具も靴も置いてある。けれども部屋の主だけが姿を消し、入れ替わるように数倍にも増えたクロアゲハが縦横無尽に飛んでいた。わたしと大家は玄関先でへたり込んだまま、呆然として黒いチョウの巣窟になった部屋を眺めていた。


※2012年脱稿・2017年改稿

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