闇の底から_2

【掌編小説】闇の底から




 あまたの死傷者をだした都内の地下鉄脱線事故は記憶にあたらしく、原因究明の捜査はいまもなお継続されている。脱線は故運転士の過失とみられている。しかし、事故発生時の速度からブレーキをかけた痕跡が認められないうえ、犠牲者の状態に脱線事故と直接的な関連性がみいだせないなど、不可解な点のおおさが事態を複雑にしていた。凄惨をきわめた各車両の内部は獰猛なケモノが暴れまわったように破壊されていた。それは転倒していない車両にもおよび、脱線事故以前になんらかの事件が生じたと判断するのが妥当だ。そこまでなら新聞やインターネットをただよう断片的な記事にも書かれている。問題は脱線以前に発生した事件の手がかりが得られないことだ。鍵をにぎる数名の生存者はいずれも肉体的精神的な後遺症により口をきくのも困難な状態にある。こうなると必然的に一部の好事家やうわさ話を好む人物が独自に想像力を働かせて、ある者は陰謀論をとなえ、ある者は怪談におとしこみ、ある者は扇動の材料にするなど、さまざまな活動に利用する例がふえていく。地下鉄脱線事故はそうして増殖する謎のうずに飲まれていった。
 そうして話題を呼んだ事故も、月日のながれとともに忘れられていくのが世の習いである。けれども、メールボックスの片隅にのこる一件のメールにとりつかれたその人物だけは、瞬時も忘れられずにいた。本文は支離滅裂ながらも恐怖でいろどられており、添付された複数の画像ファイルには地下鉄の車両内が記録されていた。血相をかえて逃げまどう乗客たち、粉砕された窓ガラス、散乱する荷物、一面に広がる血、八つざきにされて男女の区別もつかなくなった死体の山。そして、すべての画像に心胆を寒からしめる異形の個体がうつりこんでいた。面相は狂気にかられた野犬をほうふつさせ、ゴツゴツした体躯にかぎ爪のような指さきをかざしていた。かすかに人間の面影をのこしていながらも、その風貌はまさしく血肉に飢えた魔物だった。
 その人ならざる魔物は見た者の心を支配すると、闇の底から這い出てくるという鬼胎を抱かせた。牛耳をとられた者は何度もメールを抹消しようときめた。けれども、そのたび破滅のひきがねになる予感にさいなまれた。すでにかたときもはなれない魔物によって精神を蝕まれていたのだ。そして命乞いする声も失い、骨の髄まで食い荒らされる未来におびえながら、またあらたな夜の闇におちていくのであった。


※2015年脱稿。2016年加筆・修正。

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