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出来ない人

よく、意識の高い人たちが言う出来る人、出来ない人論ではない。
周りが人を評する意味ではなく、本人の主張のお話。

何かをする必要が出た時に、初めての事例であったり、研修では習ったけど本番初日だったり。
それぞれにやってみて、予想通りの失敗で凹む時もあるし、反対にあんなに色々悩んでいたのに、やってみると拍子抜けな位簡単に出来てしまって、案ずるより産むがやすし、なんてこともある。

人は誰でも、そんな時は不安になるものだし、緊張をしてしまうもの。
だけど、日々小さなことでもチャレンジをしないと、途端に自分は古い人になってしまう。
そもそも、今自分が「いつも通り」と思ってやっている事も、必ず「初めて」があったはずだ。
難易度が高いか、そうでないかの差はあるかも知れないが、物事に「初めて」のない事は存在しない。
誰しも、自転車を乗る能力は生まれる時には備わってこないように、仕事や生活全ての事は、チャレンジの日を過ごして今がある。

だから、何事も面倒でも、不安でもやってみないと、行ってみないと埒が明かない。
ほとんどの事は不可能ではないはず。
まあ、人生半分も過ぎてから医者を目指すとか、今から月に行きたいとか、それは本当に難しいとは思うけど…

日々の生活の中で、求められるのはそんな高いレベルの話ではなくて、初めての場所に行くだとか、新しい料理に挑戦するだとか、着たことのない色の服を着てみる、だとかそんな事。

それらが自分の前に迫った時、「私は出来ないタイプの人なんです」と言う人がいる。
can'tではなく、能力abilityでもなく、どちらかと言えば生来の、natural bornの類の「できない人」の意味だ。

正直に言うと、そう言う人がとても嫌い。

なぜなら、そう言っておいてやり切れば、そう言わない人より「よく頑張ったな!」と強く褒められるだろうし、本当に出来なくても文句も言われ難い。何なら、出来そうなのに面倒だからやらなかったという、悪意を持っていたとしても、事前に「出来ないカテゴリーの人」とアピールしてある事で、免罪符になると思っているから。

誰しも、既に出来ることや、分っていることは過去のどこかの時点で小さくても、大きくても努力した結果だ。
それを出来る人だから、と括ってしまうのはその人の過去の努力を見下げていると思う。
得手不得手は、性格も含めてあると思うが、それはオリンピックとかのレベルでの話であって、普段の生活で「天才」はいない。

そうやって、事前に「出来ない人」宣言をすれば、面倒な仕事は全部その人の言う、「出来る人」が被ることになる。
よくある、エクセルの出来る人問題がこれにあたると思う。
努力をして、関数を覚え、表作成のセンスを養った。人によっては、教室に通ったり、毎日動画で勉強したり。
そんな努力を「天才」とか、「出来る人」と言って褒めてる風に押し付けられるのが嫌い。
出来る人は、褒められたいんじゃないはず。

少なくとも、やってみる努力はして欲しいな、と思うところです。

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