『泣く大人』−大人になってわかること−
はじめに
10代から20代始めにかけて、私は江國香織さんの作品をむさぼるように読んでいた。個人的に江國さんの代表作だと思っている『冷静と情熱のあいだ rosso』は、内容を空で言えるくらいだし、映画も何度も観たし、なんだったら小説の舞台であるイタリアにも行った。映画のサントラを聴きながらフィレンツェの街を歩き回った経験があるくらい筋金入りのファンだ。
でも今日紹介するのは、江國さんの小説ではなくてエッセイ。私は江國さんの小説もエッセイも同じくらいすきだ。特にエッセイは書き手のプライベートな部分に触れるようでドキドキする。だいたいが短めの文章でさらっと読み終われるところもよい。
『泣く大人』というエッセイ集がある。対になるように『泣かない子供』というエッセイ集もあるのだけれど、それについてはまたいつか。
『泣く大人』は大きく4つの章に分かれていて、約60のエッセイが収録されている。色々と紹介したいのだが、きりがないのでちょっぴりずつ紹介しようと思う。
暮らしと音楽
第1章「雨が世界を冷やす夜」の中に「音楽について」というエッセイがある。タイトル通り、江國さんが音楽について思うところを綴っている。例えばこんな感じ。
見知らぬ外国語の音楽や、歌詞のない音楽を聴いて、なんとなく「楽しい気持ちになる」、「あ、これは自分をセンチメンタルにするな」と感じる時がある。まさに言葉では届かない場所に触れるのが音楽だ。江國さんは続ける。
まさにこんな体験をしたことがあった。大学生の頃、ウィンドーショッピングをしていた私は、流れ始めたとある曲を耳にし、文字通り動けなくなってしまった。それは高校生の頃、特に大学受験を目前にしたときに繰り返し繰り返し聴いていた曲だった。カナダのバンドのヘヴィメタ調の曲。
その曲を私は外の音をシャットダウンするために聴いていた。通学時、昼休み、放課後。何もかもを遠くに押しやって、勉強に集中するためだけの曲。その効果は抜群だったけど、同時にその曲は、受験期の孤独をひどく思い出させる曲でもあった。
しばらく動けなくなったあと、なんとなく動けるようになった私は何も買わずに店を出た。一刻も早くその曲から離れたかった。街の雑踏に身を置き、ようやく私は安心することができたのだった。でも音楽はマイナスに働くだけではない。
友達とは
「友達」と「知人」の境目は何だろうと考えることがよくある。「先輩」とか「後輩」についても。友達以上親友未満とか、線引きはそれぞれで難しい。それに年が上だろうと下だろうと、「友達」だと思っている人もいる。
結局、数多ある人間関係の中で、他の人にもわかりやすいようにそれぞれの人間関係をカテゴライズしているのだけれど、じゃあ結局「友達」ってなんなの、と突き詰めたくなる性格が我ながらめんどくさい。
そんな中、江國さんが思う「友達」で「なるほど!」と思ったのはこの定義。とある友人たちについて表現している一節だ。
まさに!と思った方も多いのではないだろうか。大人になればなるほど、特定の誰かと会う頻度は減っていくことも多い。そんな中でも私が「友達」と思える人たちの中には年に1回会うか会わないかの人も多い。それでも確かに私も、彼らが世界のどこかでちゃんと生きていることに日々支えられている。
じゃあ、「友情」って?という話になる。
勇気は消耗品
このnoteの最後に、勇気についての江國さんのエッセイを紹介しようと思う。第3章「ほしいもののこと」の中の「勇気」というエッセイ。江國さんがほしいものの中には「勇気」がある。
勇気は消耗品、というのは本当にそうだと思う。何かにチャレンジする勇気は一番わかりやすい。新しい仕事とか、人間関係とか。あとは重い腰をあげてたまった洗濯物や食器を片付ける時とか。個人的には小さな勇気がいる。これを勇気と呼ぶべきかやる気と呼ぶべきかは難しいところだけれど。
おわりに
『泣く大人』。泣いてきたからこそ、大人になったからこそわかるようになったこと、共感できるようになったこと。このエッセイ集にはそんな言葉の数々が散りばめられている。大人になったあなたに、そしてこれから大人になるあなたに贈るエッセイ集だ。
ありがとうございます。いつかの帰り道に花束かポストカードでも買って帰りたいと思います。