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種をまく人

 子供のときに読んだ本の記憶はやけに鮮やかだ。
 その本を通して初めて知った世界や感情があるときは特に。

 『種をまく人』という本がある。子供のときに読んだ淡い緑表紙の薄いそれの内容を、大人になった私はほとんど覚えていなかったけれど、その本を読み終わったときの、あたたかな気持ちだけは覚えていた。

 一ヶ月前に近所の八百屋兼花屋で朝顔の苗を買おうと思ったとき、同時に思い出したのは『種をまく人』のことだった。

 自宅に苗を持ち帰ったあと、近所の図書館で『種をまく人』を借りた。借りてからしばらくは、借りたことすら忘れていた。ベランダの朝顔の存在さえ。気づけば朝顔の苗はぐんぐん育って、蕾をつけている。土と水と光さえあれば、植物は育つのだ。

 『種をまく人』はアメリカの貧民街の片隅にあるゴミ溜めが、様々な人の関わりによって少しずつ 緑溢れる菜園に変わっていく物語だ。成長していく植物の姿と、色々な人々の人生の再生の物語が重なる。

 ベランダの朝顔はまだ咲かない。小さなプランターの中の朝顔。森の中の大木のように、長い長い一生を同じ場所に根ざして過ごす植物もあれば、私のベランダの朝顔のように数ヶ月で旬を終える植物もある。切り花のように花瓶の中で数日を終える植物も。

 植物と人生と。
 重なる姿の向こうに何を見よう。


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ありがとうございます。いつかの帰り道に花束かポストカードでも買って帰りたいと思います。