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自分のことをわかるために全部書いてみることにした。

はじめまして。konkoです。
適当に決めたアカウント名で適当に始めたこのnote。
読む価値はそれほど無いと思いますが、思いのたけをネットの海にボトルメールさながら流してみようと思います。目に留まった方はどうか寛容な心でご容赦いただければ幸いです。


はじめに私のこれまでの経歴をざっと。
あまりに漠然と生きてきたため、だらだらとまずは書き連ねないことには自分でも自分のことがわからないというありさまです。

子供の時

生まれは北。
寒い冬の昼間に生まれ、空と水の美しい街で何不自由なく育ちました。幼いころはだれしも万能感がありますが、私も御多分にもれず自分が世界の中心にいると感じて生きていました。そう思えるだけだいぶ恵まれた環境だったのだと思います。
小学校高学年になり、世界を認識するようになるにつれ、世界の中心が自分ではないことに気づき、同時に多少の卑屈さも身に着けて、なんとも地味な思春期を迎えます。
中高生は今でいう陰キャというやつだったかと思います。趣味は映画鑑賞で、レンタルビデオ店で借りてきたビデオや図書館で毎日一本何かしら鑑賞していました。また試写会へ応募して一生懸命何やら見ておりました。
そのころからずっと好きな映画監督はジム・ジャームッシュです。


誰もが一度は体験するドラマチック展開

高校三年生のころ、父が病気になりました。
人生で誰もが一度はドラマチックな展開を目の当たりにするとしたら、私のドラマはあの時だったと思います。
フィクションみたいに父は荒れました。同時に母も荒れました。余命宣告をされて投げやりになった父に、強引に治療を受けさせようと、激しい性格の母は父以上に怒り狂い、お茶の間でリアルドラマが展開されました。その様子を目の当たりにした私は、どことなく他人事のような、でも厳然としてそこにある現実の事態として、混乱したことを覚えています。

父は治療を受けました。とはいえ高校三年の冬にこのようなドラマチック展開があったため、私は大学受験をあきらめました。あくまでこの年は、です。

浪人することにした理由

高校卒業して一年、浪人することにしました。父は治療をうけて一命をとりとめたものの、これまでのように働けないことから、私には進学をあきらめろと言いました。
しかしながら、私は漠然と大学に行きたかったのです。「まだ就職したくない」というクソな理由です。90年代後半はまだまだ大卒でなければ良い人生が送れない!という価値観が主流でしたし、何より、周囲の言うことをおとなしく聞いて不本意ながら就職し、年取ってから「私は本当は進学したかった・・・!」とか愚痴を言うやつにだけはなりたくないと思っていたのです。

一年間、フルタイムでアルバイトをし、希望する大学の入学金をためることにしました。予備校は高いので行かないことにしました。志望校はさほどレベルの高い大学ではなかったので(失礼)、英語に特化していれば受かるだろうと考え英検2級をとりました。これで合格ラインは超えましたので、あまり必死にならなくても受かるだろうと予想し、アルバイトに励みました。

結論から言うと、一年間のブランクは私にとって良い効果がありました。
ずいぶん甘えた環境で育った私ですから、多少の逆境はよい薬です。お金を稼ぐことの大事さを学びました。所詮アルバイトなので世間の厳しさを知ったとまではいきませんが、それなりに社会勉強にもなりました。

大学の入学試験は当初の予想通りすんなり合格しました。
一年間学校にいかなかったことで、ストレートに進学した場合よりも学校への思いが募り、その後の大学生活を人一倍エンジョイすることができました。
大学生活は非常に充実したものでしたので、後日別に書きたいと思います。

就職氷河期というやつ

さて、大学4年間を存分に楽しみ、就職するときがやってきました。
私の卒業年は2002年です。そのころはすでに就職氷河期でした。
どこに応募しても箸にも棒にもひっかからないありさまでした。そうそうに就職をあきらめてフリーター宣言をする友人も非常に多かったです。運よく私は、某一部上場企業に採用されました。ネットでかなり評判が悪い企業でした。噂によるとブラックだと・・・
まあ嫌になったら辞めればいいやと、深く考えずに就職し、上京しました。

田舎の空気がきれいなところで暮らしていた私ですから、満員電車は毎朝吐きそうでした。さらにストレスのせいか過敏性腸炎にもなり、いつもおなかを壊していました。いろいろハードでしたが友人にもめぐまれ、これまた結論から言うととても楽しい日々でした。
幸いIT系の部署に回されたため、パソコン回りの知識が鍛えられました。
ブラインドタッチが爆速になり、簡単なトラブルシュートができるようになり、しゃべりが達者になり、多少のプレゼンスキルを身に着けました。

順調に見えたお仕事ですが、ホームシックといいますか。。。
地元に帰りたいという気持ちが強くなり、心身のバランスを崩しがちになりました。本格的に調子が悪くなる前に、これは仕事をやめるべきだと思いました。心の声がそう言っていると感じました。
私はお仕事をやめて、地元に帰りました。初めての退職と初めての失業保険。そして翌年の住民税や国民保険の金額に驚愕することになりました。
※世の中の仕組みを知らな過ぎでした・・・。あと以外と自分が稼いでいた事を知りました・・・。

結婚と転職

地元には学生時代からお付き合いをしていた方がおり、私が戻ってきたので結婚しようと言ってくれました。一緒に暮らし始め、私も新しいお仕事を始めることにしました。これまでのスキルを活かした職種でしたが、派遣というスタイルでの就職となりました。丁度そのころ派遣が流行り出した頃でした。当時は深く考えず、まぁなんでもいいやと勤務をスタートしました。こちらも大手でしたのでウッハウハの福利厚生でかなり良かったです・・・。

素敵な派遣先でお勤めしている間に、子供ができました。派遣社員には産後の育児休暇は与えられないという話だったのですが、いろいろな制度が変化していく狭間の時期だったこともあり、運よく私は休暇を頂戴することができました。前述のとおりウッハウハの福利厚生が売りの職場でしたから、産前産後~育児休暇の内容もたっぷり充実したものでした。
しかしながら、休暇中に以前担当していた職種が様変わりし、様々な事情が重なった為、職場への復帰はしないことになりました。

育児休暇中に父が亡くなりました。
余命宣告されてから13年ほど経っていました。存命の間に孫の顔を見せることができて良かったと思っています。
母は実家に一人となりました。また私の夫は出張ばかりでしたので、母と同居することにしました。
私は子供のころ、いつか遠くで暮らすとばかり考えていたのに、地元で暮らすことになりました。想像もしていなかったです。

実家に戻りましたら、母がまだまだ元気ということもあり、すべての家事は母の仕切りで執り行われ、私の出る幕はありません。
私は再び働くことにしました。子供が小さいので適当なパート的なやつです。
2年ほどして二人目の子供ができました。
パートを辞めることになる為、収入面で不安もありましたが、夫と母親の助けもあり元気に出産することができました。

二人の子供はとてもかわいく、大変さもあるけど日々が楽しく、何より子供を通してもう一度自分の人生をやり直しているような尊い気持ちになりました。

育児中のお仕事

下の子が6か月になるころ、再度就職することにしました。
上の子は幼稚園入りたて、下の子はバブバブです。パート勤務一択でマザーズハローワークに相談に行きました。家の近所にグループホームがあり、最終的にはそこで介護の仕事でもしようかと考えていました。ですがハローワークの方の助言もあり、これまでのスキルを活かしたほうが良いということでPCを使用するお仕事をすることにしました。

再就職した先は、新たに立ち上げられた事業所で、かなり特殊な内容のデータをこれまた特殊なソフトウェアを使って入力していくお仕事でした。私は好奇心旺盛なほうなので興味をそそられました。正直、デバッグ的な仕事は苦手ではありますが、ソフトウェアの取り扱いについては覚えが早いほうなのと、同年代の方々ばかりが働いていたこともあり、(さらにお気楽なパートだったことも作用して)学生時代のように楽しくお勤めをしました。

再度の転職

楽しい職場で6年ほどお勤めした後、突然事業所を閉じると宣告されました。それまで徐々に感じていた雰囲気で察してはいましたが、いきなりスタッフ全員無職になりました。世の中は世知辛い。文句を言っても仕方ないので心では受け入れていましたが、実際にはブーブー文句を言いながら、みんなとお別れすることになりました。
再びハローワークです。今回は会社都合ということですぐに失業保険がもらえます。少しのんびりするつもりであまり焦りもなく、気楽に求職活動をのらりくらりとこなすつもりでした。ですが、無欲な時に限ってスムーズに人生は運ぶもので、あっさりと次の職場が決まってしまいました。
次のお仕事は某大学での事務でした。
事務とはいっても、新規に立ち上げられた部署で雑用をこなす「なんでも屋」のようなお仕事でした。
私は、「なんでも屋」の「なんでも」の部分はできる自信がありましたが、いわゆる普通の事務~経理とか総務とか~そういう知識や経験が皆無でしたので不安しかありませんでした。

普通の事務

私のすることは誰かが購入したり出張したりした経費をシステムに入力し、伝票を印刷し、内容をチェックし、印鑑を押す、、そういう仕事でした。作業は単純でシンプルでしたが、内容の細かい入力ルールが人によって違う!そして基準となる考え方の部分が、私には経理事務の基礎知識がないためにいまいち理解しにくい。
何より、いちいち印鑑をもらって上にあげていくという昔ながらの承認システムを目の当たりにしたのが人生初だったのもあり、なかなか慣れることができませんでした。
Aさんに印鑑もらってBさんに印鑑もらって、CさんにNGくらって差し戻されて全部やり直しで最初から、、印刷もすべてやりなおし。
という流れなのに同時にペーパーレス!とも言っていてダブスタもいいとこ!という職場でした。
なんでも屋の「なんでも」の部分については、イベントの企画と広報、webページの更新にポスターの作成、デザイン会社との交渉事などがメインでした。なおかつこの部分の仕事に関しては前例があったわけではないため、私がスタートさせて軌道に乗せる業務でありました。

楽しいお仕事

自己流・独学の企画広報業務やWeb関連の仕事は私にとってとても好奇心がそそられ、楽しいものでした。ゼロから作るのは想像力をかきたてられます。ただ、その道の専門的な勉強をしたことがあるわけではないので、常にこれでいいのかな?という疑問と不安がつきまといます。
なので、伝手をたどって知識のある方に確認をとりながら手探りで進めるという仕事のやり方になりました。
そんな中、世の中はコロナ禍に突入です。
いろんなことがオンラインで行うようになりました。イベントなども配信がメインになりました。職場では急激な変化に対応しきれず、みんなが困っていました。
私はというと、かつて働いていた職場のおかげでITについての知識が多少あったため、比較的早く対応することが可能でした。
イベントをハイブリッド配信するための準備を私は早速始めました。
必要機材と配線図を書き出し、オーディオに関する知識はyoutubeや資料を読み漁りました。
おかげでイベントに穴をあけることなく進行することができました。
今まで漫然と生きてきた割には、意外に自分のスキルを活かすことができたなぁ、と思いました。

契約期間の終了

自分の強みを活かしつつ、時には苦手な経理も頑張りつつ、5年間お勤めをしました。コロナ禍での配信対応など、新たな状況に対応する活躍を見せた時もありましたが、前例主義が根強い職場だったこともあり、仕事がマンネリ化してきました。「昨年と同じようにやってくれ」となるわけです。
こうなると少々面白くなくなってきました。
もしもこのまま無期雇用になった場合、私は定年までずっと同じことをするのかと、うっすら恐ろしくなりました。
結局、予算の都合で無期雇用が難しいと言われ、まあちょうどモチベーションも下がってたしということで円満退職することにしました。
再び、会社都合退職、待ち時間ゼロで失業保険ゲットのチャンス到来です!
これが現在の状況です。

現在とこれから

しばらくはゆっくりして、次なるお仕事に向けて種をまいていきたいです。
自己流だった企画広報の仕事に自信を持ちたく、webマーケティングの勉強を始める予定です。
2024年、何が起こるかわからない風の時代に突入したのもあり、できれば今後は在宅でフリーの仕事をしていきたいなと考えています。
手相占いの人に文章を書くのが吉と言われたことがあるのを思い出して、noteを気まぐれに始めてみました。
家族と自分の心を大事に、穏やかに生きていくことを目指し
そして自分の人生の「やりたいこと」を見失わないために。

どうぞ皆様、これからの私の人生を見守ってください。





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